現世に降り立つと、空は茜色に燃えていた。 道路を隔てた向かい側に、幼稚園の門がある。子供を迎えにいく母親や、手を繋いだ親子が行き交う様子を、門の上からプラスチック製のうさぎが見下ろしていた。夕陽を鋭く反射するプラスチックの像は、見ようによってはかなり不気味かもしれない。 椎名は行き交う車越しに、その様子を眺めている。ひとつ息をついて、身体をほぐすようにぐるりと首を回した。 ――かの影は、あっけらかんとした顔をしたうさぎの周りを浮遊していた。 うさぎとじゃれあってでもいるかのように、像の周りを舞うサッカーボール大の暗闇。椎名の顔より少し高い程度の位置だろう。客観的に見れば笑いを誘うような光景のはずなのに、椎名の表情は微塵も動かない。指差して笑う者もない。その光景が当たり前の日常であるかのように、なにも知らない生者は平然として影と同居している。 影は舞っている。赤い空を背景に、踊るように浮遊している。 『怖い』 時折唐突に、恐怖を訴える言葉が聞こえる。生者はそんなものの存在など知らず、門から出て帰路についていく。ブレザーに制帽を被った小さな子供と、見送りに出ている教師と、子供に会うなり笑顔をこぼす母親。 ほんの数日前までは、あの影も、一人の園児としてこの場に居たはずだ。 「せんせい、さよーならっ」 「はい、さようなら」 「うさちゃんもバイバイ」 無邪気な顔で、少女がうさぎに手を振った。赤いマフラーを巻いた母親が、苦笑しながら教師に会釈をしている。その横を、紙飛行機を持った少年が二人駆けていく。 うさぎの像にじゃれつく影に、椎名は胡乱な視線を投げた。セロファン程度の厚みしかないくせに、それは重油のような重みと粘りをもっている。それほどの存在感を放っているくせに、薄紙程度の軽やかさで浮かんでいる。馬鹿げていた。物理法則を真正面から否定している。 江崎ひろみとしての自我などもうないはずだが、微かに残された記憶が、影をこの場に引き寄せたのだろうか。まだ生きつづけている友人と遊べないのなら、せめてプラスチックのうさぎとでも戯れていたいのだろうか。夕陽の眩しさに眼を細めながら、椎名はそんなことを考える。サングラスがあれば、こうして眼を細めることもなかったのだろうか。――否、そんなことはあるまい。きっとサングラスがあったとて、あの影を直視することはできなかったはずだ。考えても詮無いことだとは解っていた。どうせ相手は影だ。人格など残っていない。けれどそれを考えずにはいられなくなっている。――常磐の言うことを鵜呑みにしたわけではないが、確かに自分は、多少なりとも変わったのかもしれない。 絶叫を迸らせる少女の顔を思い出す前に、椎名は銃を抜いた。 ためらいなく、足を踏みだして道路を横断する。対面通行の道路を車が行きすぎる。だが、だからどうだというのだ。どうせ自分には関係のない物体ではないか。死人たる自分には。死人に関係あるのは死人だけであり、あるいは、かつて死人であった漆黒の影だけだ。 身体の中をセダンが通りすぎた。だからどうだというのだ。 ひらり。ひらり。 薄っぺらな奥行きしか持っていないくせに、その墨色は底無し沼のごとき深みを湛えている。影になってしまえばみな同じだ。老若男女関係なく、ただ闇の塊と化す。 ひらり。 うさぎの見下ろす門の前で、椎名は革靴の歩みを止めた。 『怖い』 かちり。 安全装置を外して、銀の銃を構えた。 眼の前を生者の親子が通る。だが銃口は逸らさなかった。どうせ、生者には当たらない弾丸だ。 風が吹いているのだろう。街路樹の枝が揺れている。子供が制帽を押さえている。母親がコートの裾を押さえている。 眼鏡をかけた母親と口数の多い息子が通りすぎたとき、銃口はぴたりと影を指していた。標的は――恐慌をきたしてはいるが、それだけだ。撃つだけならこれほど容易い仕事もない。恐怖に衝き動かされる影は、簡単に他と群れうる。そうなると厄介だ。できるだけ小さな影でいるうちに「始末」するのが、「葬儀屋」の務め。 喪服を着て、銀の銃を構えて、かつて少女だった墨色の影を狙っている。 吹けば飛んでいきそうな軽やかな動きが、不意に静止した。 椎名は構えを解かない。感情の塊に眼などないが、それでも影が自分を直視していることは容易に想像できた。 不意に、ぱかりと紅い口が開く。 『――やめて』 迸ったのは、誰のものともつかぬ甲高い声だった。 『怖い』 『怖いよ』 『怖い』 一つの影から無数の声が湧き、輪唱のように重なっていく。心なしか、その墨色が膨張したような気がした。衝き動かすのは恐怖の感情だ。恐怖ゆえに存在しているが、それゆえに恐怖から逃れられない 椎名は片眼で小さな暗闇を睨んでいる。銃口は動かない。 『やめて』 『ころさないで』 浮かんだのは、幼い少女のあどけない寝顔だった。 ――こんにちは。――死神……来ない? 怖くない? ――ママだ。――ママ……ママ。 ――怖イヨ。 ――ころさないで。 「悪いな」 片眼で狙いを定めたまま、椎名は掠れた声で呟いた。 不意に影が動いた。逃亡か。それとも襲撃か。――判断の必要はない。 「もう、俺たちには助けてやれないんだ」 言葉が届いたか否か。判らなかった。引き金に力をこめた。 ――銃声が爆ぜる。 続けて二発三発。甲高い断末魔と頭痛の前兆を掻き消す。『やめて』銃を握った手がびりびりと震える。発砲の衝撃で揺れる視界の中で三つの孔を穿たれた暗闇が悶える。『いたいよう』『こわいよう』歪んだ真っ赤な口からノイズめいた悲鳴が迸る。『いやあ』その赤を狙って四発目の引き金を引くと同時、暗闇は暴発して霧消した。 『いやだあああぁぁあぁ』 最後の絶叫は銃声に掻き消されて消えた。 それだけだった。 漆黒の霧が空気に溶けて消える。 鼓膜に残る耳障りな絶叫を、慎重に消しにかかる。焦ってはいけない。ゆっくりと。もう――終わったのだから。 現世は風が吹いている。椎名は狙いを定めたままの姿勢で立ち尽くしている。爪先のひとつでも動かそうものなら、なにもかもが壊れてしまいそうな気がした。空気に同化して輪廻に還ったはずの影が、再び凝集して襲いくるのではないかと。 まさか。 馬鹿げた妄想を打ち消そうと、椎名はゆっくりと記憶を探った。少女の寝顔。絶叫。相棒の錯乱。常磐の微笑。影との邂逅、発砲。それで、全て。 ――終わったんだ。 口には出さずにそう言い聞かせたとき、――頭痛とともに、どこかがざわりと脈打った。 覚えのある気配に総毛立つ。 息を詰めて眼を見開き、しかし次の瞬間には固く閉じていた。息を詰める。奥歯を食いしばる。脈打つ頭を反射的に抱える。足許から鈍く重い音がして初めて、自分が銃を取り落としたことに気がついた。その音の近さから、自分が片膝をついていることを知った。足許で鋭く光った銃を、反射的に手で払い飛ばす。できるだけ遠くに。手の届かない場所に。どうせならその衝撃で壊れてしまえば良い。 ――無駄だ。 頭痛の隙間で、椎名のどこかが含み笑いで囁いた。今まで強いて凪がせていた無意識と意識のどこかが、大きく波打つのを感じる。反動か。 ――無駄な努力をするな。 奥歯がぎりりと鳴った。頭蓋の中から鉄槌で打たれているような頭痛。頭痛だけか? こいつは満足していないのだ、と直感した。刀から銃に持ち替えたがゆえに、殺戮は手に伝わらなくなった。発砲の衝撃程度では、この「衝動」は満足していない。にも関わらず、「衝動」はその刺激を得て呼び起こされた。 ――任せてしまえ。――殺セ。 嫌になる。殺戮とあれば馬鹿正直に喚起されてくるくせに、その程度では飽き足らぬと文句を言う。どうしようもない、殺人衝動。浅ましいほどの直情さが羨ましくもあり、またそう思った自分を酷く意外に感じた。 ――酷い顔してるわよ。――求めテいるンダろう。――喰われたいのですか。――殺シたいンダろウ。――ころさないで。――殺シタインダロウ。 「黙れ」 吐息で叫んだ。喉がからからに渇いている。水が欲しい。湿した喉で言い返してやりたい。――どいつもこいつも、好き勝手ばかり言いやがる。 「口出しするな」 アスファルトに片手をついて、身体に力をこめる。刺すような激痛に覆われているのにどこも出血していないのが不思議だった。ようやく顔を上げたとき、空気の冷たさに気づかされた。額に掻いた汗とその気化熱。どうせなら、あの「衝動」の野郎も冷やしてもらえないものか。 背中すれすれをタクシーが通りすぎる。乗用車が続いた。更にトラック。死者には風圧さえも届かない。いっそ轢き殺してくれ。 「俺は」 誰も聞いていない言葉を吐き出して、咳きこんだ。喉の奥が粘ついている。その不快感で、かろうじてこちら側に留まっている。視界の隅、アスファルトの上に銀の銃が光る。その上を生者の親子が平然と通りすぎる。プラスチックのうさぎが見下ろして嗤う。手を伸ばしても、あの銃には届かない。届かない。触れてはいけない。少なくとも今、この瞬間は。この頭痛と幻聴と、凶器を求めるざわめきが鎮まるまでは。 風が強い。それは風なのか。車の起こす風圧か。それとも無意識を荒らす暴風か。 頭痛が。する。頭蓋に棲む頭痛が、ふとしたきっかけでどくどくと痛みだすのだ。それなら頭痛が痛いというのはあながち間違いではあるまい。 ――殺シタインダロウ。 「うるせ……俺は」 記憶の向こうから嘲笑っているのは、見慣れた自分の顔だった。知っている、あれが「衝動」の正体、だ。その顔を踏みつけるかのように、革靴の両足で立ち上がる。縦にばかり長い身体がふらついた。身体とはこんなにも重かったか。踏みしめる地面に現実味がない。底無し沼の汚泥の上に立たされているような。揺らぐ視界は歪んでいる。頭ばかりを何度も銃で撃たれているような気がする。至上命令とともに無意識が揺れる。耳障りな子供の笑い声。どれが内側だ。なにが外側だ。生者と死者の境界は。「始末」と殺戮の境界は。 どこにある。 ――殺セ。 ざわり。ざわり。 「……殺さない」 重なる幻聴に、椎名は譫言で応えた。――応えた。応えて良いのだ。なぜなら相手は椎名ではなく、椎名は相手ではない。他者であれば返事をしても構うまい――。 「俺はあんたと違って、殺すために殺すんじゃないんだ……」 不意を突かれたように、無意識が黙りこんだ。 その隙間に乗じて、両足を踏みしめる。今度はアスファルトに立てた。そうだ、「始末」は手段であって目的ではない。「始末」を、殺戮を目的としていたのは、椎名ではなく「衝動」のほうだ。なぜそんな単純なことに気づかなかったのだろう。 息が荒いのはなぜだろう。なぜ、まだ生者の気で空気を欲しているのだろう。閉じた瞼の裏には闇しかない。その闇の向こうから、「衝動」に凝り固まった誰かが呼んでいる。そうか、俺は影を飼っていたのか――殺人衝動の塊を。けれどその影に意識を与えていたのは、抗おうともしない俺の意識ではなかったか。 逡巡するように、幻聴が沈黙している。 ――殺セ。 「殺さない」 再び呼びかけてきた気配に、椎名ははっきりと応えた。掠れた言葉が一文字ずつ耳に届く。あるいは瞼の裏の暗闇に。 「『俺』は……殺したいわけじゃない」 その一言が、解呪の合図だった。 一瞬の空白の後、無意識が引潮の如く凪いだ。咆哮も命令も囁きも頭痛も、深い海の底に沈む。 あとは沈黙だった。 聞こえるのは現世の音ばかり。風の音。車の音。遠くに教師同士の会話声。子供の声は聞こえない。もう帰ってしまったのだろうか。子供が子供を呼ぶ声。ああ、近くで遊んでいるのだ。 頭痛の名残に吐き気がする。大量の血を失ったかのように、意識が朦朧としている。 くく、と、喉から笑い声が漏れる。自分の声だった。 ――ああ、こんなに簡単なことだったのか。 意識が笑った。なんだ。こんな簡単なことに、俺はこんなにも翻弄されつづけてきたのか。こんな簡単なことすらできなくて、刀を遣っていたのか。馬鹿馬鹿しい。こんなに簡単な――ことだったんじゃないか。 「はは」 可笑しかった。空を仰いで大声で笑ってやりたかった。 茜と群青の混ざった空を仰いだとき、脚がふらついた。視界が下降する。重力を感じる。片膝がまたアスファルトに触れた。それでも身体は震えていた。久しく発したことのない笑いに。 地に伏す寸前、椎名はふと、「衝動」に対し己を主張したのは初めてだったと気がついた。 |