葬儀屋
「anarchic re-covery」

V:椎名


 単純な話だ、と椎名は考えた。
 死神の存在を恐れていた少女は、死神と同時に人外の存在をも恐れていた。自分自身が既に魂の身となっていることには、たぶん気づいていなかったのだろう。例え気づいていたとしても、得体の知れぬものを恐怖する気持ちは変わるまい。
 そこに、見知らぬ娘が現れた。
 心を許しかけたそのとき、娘の身体が母親や兄の身体を通過した。当たり前といえば当たり前の話だ。魂に実体はないのだから。けれど少女にとってそれは、恐怖を煽る光景以外の何物でもなかった。
 少女は絶叫した。
 内に抱える恐怖が噴出し、そうして影となった。
 単純な話ではないか、と、椎名は繰り返した。
 影と化した死者にはもう、人格を持つヒトに戻る術はない。感情が凝ってできた影は、さながら魂の獣だ。殺意然り、執着然り、恐怖然り。少女は恐怖の塊となった。
 すぐに始末すべきだった。だから得物を手に取ろうとした。
 だが椎名が手を触れたのは、腰の左側だった。――かつて、日本刀を提げていた場所。
 そこにはもうなにもない。刀を銃に持ちかえ、零度の鎮魂歌[ゼロ・レクイエム]からただの「葬儀屋」となった椎名にとって、得物を提げるのは腰の右側だ。
 右側には、銀色の銃を提げていたはずだった。
 すぐにそちらに触れていれば、あるいは間に合っていたのかもしれない。反射的に刀を抜こうとした自分に思考を止めてさえいなければ。
 ぐずぐずしているうちに、胡蝶が影に触れた。触れてしまった。感情の塊たる影に触れるなど言語道断だと、教えたはずではなかったか。それでも彼女は少女を抱きしめずにはいられなかったのだ。彼女は、そういう「葬儀屋」だ。
 ――ころさないで。
 そうだ。
 胡蝶はもともと、胸の奥底に椎名への恐怖を淀ませていた。江崎ひろみの恐怖心が流れこんだせいで、仕舞いこんだその感情が再び露出しなかったと、誰が言えるだろう。やっとそれを、忘れさせることができたはずなのに。
 ――ごめん。
 白いベッドの上で眠る相棒を見下ろして、椎名は声には出さずに呟いた。思えば、こうして彼女を医務室送りにしたのは初めてではないはずだ。なのに、眠る彼女とまともに向きあったのはこれが初めてである。過去のこととはいえ、その事実も罪悪感を刺激した。
「影にやられたのはちょっとタチが悪いですけど、まぁ死人ですからね、気がしっかりしてればそのうち治りますよ。傷跡も残らず綺麗にね。傷? [ただ]れてるだけですよ、別にこれが致命傷とかそういうことでは全然ないです。気を失ってるのはアテられてるだけ。そうそう、上司の方にはもう連絡されました? ……なら大丈夫ですね。なんていうか、責任感じすぎるのも考えものですよー。任務で怪我するのはよくある話ですって」
 医務係の女は一方的に言って、音もなくベッドの傍から離れていった。ああとかうんとか、そんなおざなりな相槌を打っていたのかもしれないが、生憎と記憶にない。耳に残っているのは自分の声ではなく、相手のアルトばかりだった。
 ベッドの両脇は白いカーテンで仕切られている。その中に、椎名は胡蝶を見下ろして立ち尽くしていた。狭い空間はひたすらに白い。ともすれば必要以上に広く感じる。胡蝶の長い髪が余計に黒く見えた。
 胡蝶は眠っている。右の頬にガーゼを貼り付けて、ブラウスの袖を捲った両腕に包帯を巻いている。包帯の下に隠れた黒い爛れを、椎名は自虐的な気分で思い返した。
 ――あとちょっと早ければ。
 右手が空を掻いたときの絶望感。
 望んで手放したはずの日本刀に、結局は頼っていた。
 冷静に考えれば、ただ単に慣れの問題なのだろう。刀を銃に持ちかえたのは最近のことだ。得物を持つといえば、左腰に手を遣るという動作が身体に染みついている。それが刀であるか銃であるかとは無関係に。単に慣れの問題だ。ただその位置関係に慣れていなかったから、得物を手に取り損ねた。それだけの話だ。
 ――そうだろうか。
 例えば椎名が左側に銃を吊るしていたら、どうなっていただろう。刀と銃では握りかたが違う。得物に触れた瞬間に、はっと動きを止めていたかもしれない。
 ――同じことだ。
 捨てたはずの日本刀を、あのときはっきりと思い浮かべていた。慣れであろうとなかろうと、その事実だけで充分だった。
 つまらない逡巡だった。
 胡蝶は眠っている。死人のような寝顔で。
 椎名は唇を引き結んだ。思い出したように頭を掻き、密やかに舌打ちをする。――そして踵を返し、間仕切りのカーテンを開けた。
 向かう先など決まっている。

 ノックをすると、はい、と狭霧の即答が返ってきた。宅配便業者でも迎えるような気軽さに、遠慮なくノブを掴んで扉を開ける。既にドアの真正面に居たらしい狭霧は、椎名の姿を認めるなり、あら、と呟いて眼を丸くした。ドアが開いたことよりも、来訪者が椎名であったことのほうに驚いているらしい。
「どうしたの」
「……常磐、居るか?」
「居るけど……」
「どうしました」
 奥から常磐の声が聞こえる。狭霧は困惑したように首を傾げ、それから常磐のほうを振り返った。
「椎名よ。――どうぞ、とりあえず入って。その辺に座って」
 後半の言葉は椎名に向けられたものだろう。黙ったまま軽く会釈をして、椎名は部屋中央のソファに腰掛けた。勝手知ったる上司の執務室である。
 一息ついて顔を上げると、デスクに座る常磐と眼が合った。左手に受話器を持ったまま、品定めをするような眼でこちらを見ている。さぞ呆けた顔に映っているだろうと想像したが、表情を引きしめるのも面倒だった。だがいずれにせよ、この男に表情を繕ってみせても無駄である。
 狭霧が椎名の斜め前に座る。それと同時に、常磐は受話器を置いた。電話をかけようとしていたところなら悪いことをした、と、珍しく殊勝な感慨がよぎる。立ち上がった常磐を眼で追っていたところに、狭霧が問うてきた。
「胡蝶は大丈夫なの」
 視線を戻すと、狭霧がこちらに真剣な眼差しを向けていた。そういえば、胡蝶負傷の報せを最初に告げた相手もこの上司だった。電話の向こうに聞いた声は常と変わらず凜としていたが、胸の内では動揺していたのかもしれないと、眼の前の表情を見ながら思う。胡蝶と二人で並んでいると確かに姉妹のように見えるが、案外狭霧のほうでも、胡蝶を妹のように見ているのかもしれなかった。
「……大丈夫らしい」
「なら良かった」
 口にしたのは必要最低限の言葉でしかなかったが、狭霧は少しだけ、表情を和らげた。
 視線を真正面に戻すと、そこにはいつの間にか常磐が座っている。この男はいつだって、音も気配も持たずに動くのだ。
「用件を伺いましょうか」
 表情ひとつ変えず、常磐は単刀直入に問うてきた。
 胸の奥まで見透かされるような視線を受けて初めて、椎名は表情を硬くする。喉の渇きを覚えた。胡蝶の負傷を伝えたときだって、こんなに動揺しはしなかった。それは電話の相手が狭霧だったからだろうか。――あいつが影にやられた。――あいつって、胡蝶のこと? 状況は? ――医務室に運んできたとこだ。俺がちょっとしくじった。――了解。……椎名、大丈夫?
 見つめる双眸に、椎名はようやく口を開いた。
「影の処理をやらせてくれないか」
「誰のです」
「江崎ひろみ」
 間髪いれずに答えると、常磐はふむ、と年寄りじみた呟きを漏らした。呆れたような声音に聞こえたのは気のせいだろうか。予想していたに違いないのに、今更呆れてみせることもないだろう。
 眼の前でゆっくりと、上司は脚を組んだ。皺ひとつないスラックスに、まっすぐに折り目が入っている。
「貴方が自分から仕事を求めるとは、どういう風の吹き回しです」
「どうでも良いだろ」
「ちょうど今、その影の処理を他の組に振ろうとしていたところですよ」
「だから俺が行くよ」
「貴方にこの仕事を任せるつもりはありませんが」
「行ってやるっつってんだから有難く思えよ」
「――喰われたいのですか」
 問われて、椎名は言葉を失った。
 正面から、上司が観察するような眼を向けてくる。傍観者の眼。それがいくら見慣れたものであったとしても、その眼を向けられることには慣れなかった。視線から逃れるように狭霧を見ると、彼女の眼は、冷静さと心配げな表情を同居させている。
「鏡、見てないの」
 その狭霧が痛ましげに、眉間に皺を寄せた。それもまた、見たくない表情だった。
「酷い顔してるわよ」
 言われて無意識に、右手を頬に遣った。少しこわばった皮膚の感触。平手打ちにした頬の感触が蘇って、椎名はそのまま手を落とした。酷い顔とはどんな顔なのか、触れたところで解るはずもない。
 常磐に視線を戻した。彼の姿勢も眼差しも微動だにしていない。彫像みたいだ、と思った瞬間、作り物のような唇が動いた。
「『衝動』に喰われて消えたいのですかと、そう訊いています」
「……なんだと?」
 渇いた喉でようやく問い返したとき、不意に常磐が動いた。
 組んだ脚が、曲線を描いて解かれる。黒いスラックスの両脚で立ち上がり、左手をローテーブルについて前屈みになった。一本だけ立てた白い人差し指が――まっすぐに椎名の胸に突きつけられる。眼を見開いて下を見ると、常磐の人差し指の先は中途半端に結んだネクタイに触れていた。胸に圧迫感。息苦しいのは気のせいだろうと、強いてその感覚を追い払った。呼吸の必要ない死人が息苦しいなどと、笑止千万。
「解っているとは思いますが、胡蝶の負傷は不可抗力です」
 どきりとして顔を上げると、眼の前に、見据える常磐の顔がある。近くで見ても精巧な人形のようだと、ずれた感心をした。
「次に向かえば貴方自身の復讐心が混じって、取り返しのつかないことになりますよ」
「……復讐?」
「違いますか」
 問われてようやく、頭の中に淀んでいたものが動きはじめる。粘性の、黒い澱。影の象徴たるコールタールが、そのまま頭に詰まっているかのようだった。
 思考が、下水管の汚水のように流れる。
 ――復讐。
 誰のために、誰に対して行う復讐なのだろう。
 死人のような寝顔が思い返された。
 ――あとちょっと早ければ。
 あと少し早ければ、少なくとも相棒を傷つけることは避けられた。刀を求めた、それだけならまだ良かった。下らない逡巡で凍りついている間に、眼の前で彼女は影に触れた。煽られたのは、彼女がかつて持っていた恐怖心。嫌になる。ちょっとした失敗が、芋蔓式に全て自分の責任となって返ってくる。
 ――これは自己満足なのだろうか。
「それとも、復讐ではなく本能ですか」
 常磐が重ねて問う。その問いを、自分の内側に投げる。
 ――本能。
 影の始末を欲しているのは、殺戮を求める「衝動」か。
 否定はできない、と、椎名の半分が嗤いながら同意した。
「衝動」を抑える力を持たなかったから、物理的に刀を手放すという手段しかとることができなかったのだ。それは取りも直さず、既に「衝動」に屈服していることの証。
 だがそれだけじゃない、と、もう半分が唇を噛んで否定した。
 それだけであったなら、そもそも初めから逡巡したりなどしなかった。あのとき、腰の右側に銃が在ったことは認識していたはず。影の始末だけを求める「衝動」であれば、一瞬の迷いもなく銃を構えて引き金を引いていただろう。そうであれば、こんな結果になるわけがなかった。例え椎名のどこかが本能に衝き動かされていたとしても、こうして常磐の部屋を訪れ、正規の手続きを踏んで仕事をしようとしている時点で、椎名の主導権は「椎名」自身が握っていることになる。
 崩壊などさせてなるものか。
 ――俺の手綱は俺が引く。
 無気力にソファの上に投げだした手を、ゆっくりと握りしめた。
 常磐は眉ひとつ動かさない。その上司に向かって、椎名は思い出したように呟いた。
「……あんた、他人の心配なんかするんだな」
「部下の管理は上司の仕事です」
 真顔の即答は、冗談なのか本気なのか判らない。
 無性に可笑しくなって、少しだけ笑った。常磐は意外そうに片眉を上げたが、椎名の胸を指した人差し指は動かない。迷いなくぴんと伸ばされた華奢な指。
「無理だよ」
 ゆるりと片手をあげ、椎名は常磐の手首を掴んだ。視線は上司から離さずに。視線は一直線に並んだままだ。
「俺が管理できないものを、あんたに管理できるわけがない」
 掴んだ細い手首を、常磐に押し戻すようにして身体から離す。刺さった刀を引き抜く動作に似ていた。失血死など、しなければ良いのだけれど。
 椎名は常磐の手首を離した。
 掴まれていた手にちらりと視線を落としてから、常磐はひとつ溜息をつき、身を起こして立ち上がる。呆れたように眉をひそめながらこちらを見下ろしてくる上司が、いつもよりも数段大きく見えた。思えば、常磐に見下ろされるというのはなかなか新鮮な経験かもしれない。大抵は、こちらに見下ろさせておきながらも有無を言わせない存在感を放っているのだが。
 常磐はまっすぐに椎名を見下ろしていた。
「管理する気ですか」
 有無を言わせぬ口調で一言、問う。
 椎名はしばらく無言で見上げ、いつもの口調で答えた。
「たぶん昔よりは、マシだ。それに」
 言葉を切り、視線を宙に泳がせる。眼のやり場に困り、書棚の中に並んだ黒いファイルの、隅の一冊にひとまず眼を留める。管理番号の羅列をひとつひとつ追いながら、椎名は言葉を探した。並んだ黒い背表紙をスクリーンに、かつて見た無数の血飛沫と泣き顔を見る。
「……罪滅ぼしだって相棒の仕事だろ」
 それだけを言って視線を戻すと、常磐が意表を突かれたような顔をしていた。ぼんやりと見上げていると、常磐はやがて、そのままの顔で相棒に視線を移した。見上げる狭霧が、苦笑しながら軽く肩を竦める。常磐もそれを見て、唇の端に苦笑のような微笑を漏らした。彫像じみた気配が和らいだように思うのは気のせいだろうか。
「椎名」
「なんだよ」
「変わりましたね」
 今度は椎名が意表を突かれる番だった。
 まじまじと上司を見返してみたが、相手の表情は変わらない。予想していたことではあったけれど。
「……誰が変わったって?」
「任せてみましょう。……良いですね、狭霧」
 椎名の問い返しには答えず、常磐は最後に狭霧を見た。動揺の欠片も見せず、狭霧は端整な微笑で頷く。この二人は既に完璧な意思疎通ができてしまっているらしい。この優男の表情を、狭霧は読みきっているとでもいうのだろうか。
 常磐よりは幾分読みやすい苦笑で、狭霧はひょいとわざとらしく肩を竦めた。常磐に似た仕草だった。
「たぶん大丈夫、だと期待してるわ」
「だそうです」
 椎名は半ば呆然として、二人の上司を交互に見遣っていた。見上げると、相変わらず本心の読めない常磐の微笑。斜向かいには、微かに苦笑の混ざった狭霧の微笑。
「……あんたら、俺を無視して話を進めるんだな」
「上司と部下の関係などそんなものです。それとも、行かないのですか」
「行くよ」
 平然と[うそぶ]く常磐につられたような平たい声で言って、椎名は立ち上がった。視点が急に上がり、僅かに常磐を見下ろす格好になる。この程度の視点差のほうが、身体には馴染んでいた。
 常磐はひとつ頷いて、いつになくまっすぐな眼で最後の問いを投げた。
「刀はご入用[いりよう]ですか」
 ――返事を一瞬ためらった。
 幾度も死者の血を吸った、椎名のかつての「相棒」。どこに在るのかは知らないが、この部屋の中に、それは巧妙に隠されているはずだ。
 刀はご入用ですか。
 胸中でその台詞を繰り返す。右手で腰に触れた。触れた右側に、重い銃の感触。
 刀は。
 ぎゅ、と両眼を閉じる。無意味に一度深呼吸をする。いつの間にかこわばっていた肩から、そしてようやく力を抜いた。
「いや」
 一言を呟き、小さく首を振る。
「要らない」
「そうですか」
 素っ気無いほど短く答えて、常磐はおもむろに、臙脂のソファに腰を下ろした。視点の差が急に開く。鋭くなった俯角で見下ろすと、常磐は膝の上で軽く両手を組み、いつもの微笑で椎名を見上げてきた。
 頷きもなにもない。だがそれが合図であったかのように、椎名の両脚が、自然に方向転換をした。
「行ってくる」
「御武運を」
 妙な挨拶だと思ったが、口にはしない。代わりに唇の端で少しだけ笑い、軽く右手を挙げてみせた。二人の上司が、似たようなタイミングで頷く。狭霧が小さく手を振ったのが見えた。
 革靴を鳴らして、執務室を後にした。廊下を歩きながら、既に眼を閉じている。向かう先はどこでも良かった――ただ、あの影の居る場所でさえあれば。


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