アナフィラキシー:アレルギーのうちで、特に症状の激しいもの。 アナフィラキシーショック:アナフィラキシーの激しい場合で、じんましん・呼吸困難・下痢・低血圧などが起こり生面の危険をともなうもの。―― 細かい字をそこまで追ったところで、椎名は辞書を閉じた。ぱたんという音が届いたのか、隣のデスクで胡蝶が振り向いた。それを好機と、手にした辞書を彼女に突き返す。条件反射で手を伸ばしながら、彼女は一言問うてきた。 「載ってた?」 「ああ」 「ほら役に立った」 勝ち誇ったように胸を張る胡蝶には無視を決めこむ。借りたときには、なぜこの相棒は辞書など持っているのかと真剣に訝ったが、実際に役に立ってしまった以上、妙なコメントはできなかった。ちなみに、なぜ辞書などデスクに置いているのかという質問の答えは、「情報局で貰ってきた。だってあたし馬鹿だもん」だった。あっけらかんとした笑顔に対応しかね、そのまま黙って辞書をめくって今に至る。胡蝶の扱いかたは、コンビを組んで長くなった今になってもよく解っていないのかもしれない。それなら辞書の使いかたのほうがまだ解る。 胡蝶は嬉々として、辞書をブックエンドの間に片付けている。箱入りの辞書などそれ自体がブックエンドのようなものだと思ったが、口を挟むことはしなかった。解らないことより目の前のことを片付けるべきかと、デスクの上の書類に眼を落とす。 その少女は、幼稚園の制帽をかぶり、少し緊張した面持ちで写真に写っていた。江崎ひろみ、と、味も素っ気もない明朝体で記してあるのもいつものことだ。 死因はアナフィラキシーによるショック症状。ピーナッツアレルギーだったひろみが、うっかりと胡麻ドレッシングを舐めてしまったことが原因だった。胡麻ドレッシングにピーナッツが入っていることがあるということを、椎名はその書類から初めて知った。 但し彼女が現世に留まったのは、ピーナッツのせいではない――ただ純粋に、死神の存在を恐れたからだった。 椎名は書類をめくる。どことなく自虐的な気持ちになった。 死神。物語上の存在だ。少なくともある程度の年齢であれば、そこまで本気になってそれを怖がることはない。それどころか怪談話を面白がって求めもする。小学四年生になるひろみの兄が、まさにその年齢だった。そして、兄の読む怪談話が――ひろみには少々刺激が強すぎたと、そういうことらしい。一月前に祖父を亡くしていたのも悪かった。人の死は死神がもたらすものだと、頑なに信じきってしまったようである。 自分の死だけは理解している彼女は、ひたひたと歩み寄る死神の足音を、震えながら待たないといけないのだろう。そう思うと、彼女が現世に留まっているのは彼女の自由意志とは言えないのかもしれない。 ――怖いだろう、と思った。 死が実体化したものが死神だ。そしてひろみは実際に、ピーナッツという名の死神によって殺されている。心不全で苦しみながら死に、更に死神に怯えなければならないというのは、考えてみれば哀れな話だ。 「アレルギーで死ぬって……苦しかっただろうな」 胡蝶がふと、呟いた。見ると彼女が椅子ごと椎名の傍まで移動してきていて、江崎ひろみの書類を覗きこんでいる。反応など期待しない独り言だったのだろうが、呟きたくなる気持ちは理解できた。遣る瀬無い気持ちには、独り言くらいしか行き場がない。 「苦しんで死んだ子供なら、恐怖で死神を想起してもおかしくない、か。……あんた向きだな」 「え、なんで?」 予想外に早い反応に面食らって隣を見ると、胡蝶とまともに眼が合った。童顔が余計に幼く見える。 「……俺にガキの相手しろってか」 答えて、それからぼそりと付け加えた。 「本当に死神と思われるのが落ちだ」 「それは言えてる」 胡蝶が吹き出す。 「椎名君怖いもん」 わざわざ指摘されなくても、その程度のことは理解している。椎名とて、自分が幼稚園児のときにこんな人間と出くわしていたら、驚いて泣きだしていたかもしれない。百八十センチメートルを軽く超える長身痩躯、無愛想な紅い眼、着崩した喪服――少なくとも、死神に怯える子供に見せる姿ではない、と思う。同じ紅眼と喪服の死者でも、胡蝶のほうが子供の扱いにはずっと長けている。苦しんで死んだ子供ならなおのこと、必要なのは癒しの言葉だろう。 ――アナフィラキシーショック。 舌を噛みそうなその名詞を、舌の上で転がした。いずれにせよ、死因としては珍しい部類に入るだろう。死因なら飽きるほど見てきたはずの椎名が、初めて眼にした言葉なのだから。それにしても、アナフィラキシーショックなどと小難しい言葉を使わずに、アレルギーの一言で済ませることはできなかったのだろうか。担当の情報局員が語彙力をひけらかしたかったのかもしれないと、意地の悪い想像をしてもみる。だがそういえば胡蝶は、アナフィラキシーがアレルギーのことだと知っていたようだった。単に椎名が無知だっただけなのかもしれない。 読み終えた書類を胡蝶に手渡すと、彼女は思い出したように抗議してきた。 「でも椎名君、そんなこと言ってサボってばっかりじゃん、この前だってずーっと難しい顔して立ってただけだったし」 「あんたが一人前になったってことだよ」 生返事をしながら、こいつはいつの間に俺の表情を観察していたのだろうと、それだけを意外に思う。 ――あんたが一人前になったってことだよ。 胡蝶と出会った頃、椎名はもっぱら彼女一人に仕事を押しつけていた。その一方で、隠れて一人で仕事に出かけては、「衝動」の欲するままに刀を抜いていた。ただ「衝動」が撒き散らす欲望を満たしたいがための行動だった。 傍から見れば、今もそう変わらない行動を取っているのかもしれない。だが、椎名の主観では大違いだった。 仕事中には胡蝶が場を仕切ることが多くなった。黙って見ているだけの椎名は、確かに仕事を怠けているだけと映るのだろうが――椎名にしてみれば、単に、胡蝶一人でも仕事に支障がなくなったからにすぎない。口出しをする必要がないのなら、極力口を挟まない。その行動を選択すること自体が「サボり魔」たる所以なのだろうかと考えてもみるが、特に改善しようという気は起こらなかった。 過去と現在で明確に変わったことがあるとすれば、携行品くらいだろうか。 かつて仕事の際に手放さなかったサングラスと日本刀は、もう椎名の手元にはない。サングラスは壊してしまってから代わりを用意していないし、日本刀は、常磐に頼んで執務室に置いてもらっていた。代わりに身に帯びるのは、標準的な「葬儀屋」の持つ銀の銃。――安全装置を外したことは、まだ一度もない。そこまで全て含めて自分の変化なのだろうと、椎名は漠然と考えた。無論、胡蝶が成長したという感想は嘘ではないけれど。 そこでようやく、胡蝶の反応がないことに気がついた。 隣を見ると、相棒が書類を両手に持ちながら、椎名をまじまじと見つめている。頓狂な顔も硬直も見慣れていたが、なんということもなく声をかけた。 「どうした」 「……変なの」 「なにが?」 「珍しく褒めるから照れたじゃん」 聞き取りにくい小声。 椎名は瞬きをした。そして胡蝶の頭を小突き、少しだけ笑った。 その少年はぽつりと座っていた。 ダイニングテーブルに計算ドリルと漢字ドリルを広げ、無言でそれを埋めている。奥のリビングには、大きなソファと無言のテレビが鎮座していた。テレビが点いていないせいか、小学生の留守番には似つかわしくないほど静かだった。小学生男子というと、一人でも複数でも暴れまわるものだと勝手に思っていたのだが。 静かなのは、単に宿題に集中しているためだろうか。冷蔵庫からドレッシングが消えたからだろうか。和室に妹の写真が飾ってあるせいだろうか。 それとも、あるいは――椅子の足元に、妹が丸くなって眠っていることに気づいているからだろうか。 胡蝶がそっと、椎名を見上げてきた。声を出さずに困った顔をしているのは、同類の寝姿に遠慮しているのだろう。椎名も無言で肩を竦めて返事に代えた。 セーターとスカートを身につけた江崎ひろみが、兄の座る椅子の傍に座りこんですやすやと眠っている。細い髪が、肩の上で綺麗にまとまっていた。寝癖とは無縁なのだろうか。 「……どうしよう」 「どーもこーも」 空気だけの呟きに、椎名は通常の声量で応えた。静かな家の中に低い声が響く。相棒が非難めいた眼つきを寄越してきたが、その程度の非難なら受け慣れていた。 「どっちにしたってこのガキ起こさないと仕事にならないのは一緒だ」 「そうだけどさ、起こすの可哀想じゃん」 「起きるの待ってるわけにはいかねえだろ。仕事だから諦めて起こせ」 「ひどっ。ていうかあたしが起こすの?」 「俺が起こしたら泣かれるのが落ちだ」 「……否定はしないけど」 胡蝶が不満げに言って、視線を少女に戻す。その寝顔を、しばし眺める。苦しんで死に、更に死神の足音に怯えているとは思えないような寝顔だった。安心しきった表情は、兄の傍という位置の成せる業だろうか。それなら仲の良い兄妹だったに違いない。 椅子に座った少女の兄は、脚をぶらぶらとさせながら、手を伸ばして今度は漢字ドリルを掴んでいた。計算ドリルは済んだのだろうか。先の丸くなった鉛筆を取り替え、再びページをめくる。漢字の練習に没頭するのかと思いきや――ふと、彼は壁の時計を見上げた。母の帰宅時間を待っているのかもしれない。胡蝶がそれを見て、少しだけ悲しそうな顔をした。椎名は彼女からつと視線を逸らした。 胡蝶があてつけのように溜息をついた。 「……サボり魔」 「なんとでも言え」 恨めしげに椎名を眺めてから、胡蝶は諦めたように、眠る少女に歩み寄った。そしてそっと、しゃがみこむ。不満げな顔をしてはいるが、たぶん椎名がひろみを起こそうとしたら血相を変えて止めていただろう。胡蝶はそういう「葬儀屋」だった。 椎名は意識的に窓際に下がって、無意識に両腕を組んだ。気がつけば胡蝶の斜め後ろが、ホームポジションになっている気がする。 さてこれからどうしようとばかりに、胡蝶が一人小首を傾げたそのとき――ひろみが身動ぎしたのが見えた。 胡蝶の横顔がかすかに緊張する。 思い悩む死者の存在など知りもせず、少女はやがてぱっちりと眼を開いた。 視線がまともにかち合う。 双方が眼を見開いたままで、間の抜けた数秒が過ぎた。 「……こんにちは、ひろみちゃん」 困ったように微笑んで、胡蝶は結局無難な一言を口にした。 ひろみは丸い眼で、じっと胡蝶を見つめている。それから思い出したように、ぺたんと座りなおした。 「こんにちは」 律儀に頭を下げたあとで、再びまっすぐ胡蝶を見る。そしてついと、小首を傾げた。 「……だれ?」 戸惑いも驚きも恐れもない、ただ純粋な疑問符だった。予想通りといえば予想通りの反応だ。起きていきなり目の前に知らない人間が居たら、とりあえずそう問うてはみたくなるだろう。 「誰って言われると困るなぁ。誰に見える?」 こちらもある意味予想通りに苦笑しながら、胡蝶は人差し指で自分を指した。ひどくテンポの遅い会話だった。 一瞬、ひろみの表情がこわばる。 「……しにがみ?」 「違う違う違う」 胡蝶が慌てて否定する。激しく首を振った拍子に、長い髪が乱れた。――怯えさせてはいけない。それが、胡蝶に課せられた至上命令である。 「とりあえず死神ではない、です。……えと、なんで死神だと思ったの?」 「だって真っ黒だし、眼が」 そう言って、ひろみは怖々と胡蝶の眼を指さした。なるほど、「葬儀屋」の眼はみな紅い。漆黒の髪と紅い瞳が、椎名たちがこの世の存在ではないことの証拠のようなものだった。この眼のおかげで、死者に無意味な怯えを抱かせることも多々あるのだが。 「眼が紅いのはねー……うーん、生まれつき」 「生まれつきなの?」 「そうそう。髪が黒い人とか、茶色い人とか、外国の人だったら金髪だったりするでしょ。それと同じだよ」 苦しい言い訳を、ひろみは、ふうん、の一言で飲みこんだ。それともあまり真面目に聞いていなかったのかもしれない。しどろもどろする胡蝶の挙動は、椎名にとってはなかなかの見ものだったのだが――明らかな不審者でありながら、相手を怯えさせないように言葉を選ばなければならないというのは、彼女にとっても一つの試練らしい。いつもの柔らかな笑顔は完全に苦笑の体である。ま、俺よりはマシだろう。ひろみの視界に入らないように移動しながら、他人事のように思う。 退屈しのぎに――などと言ったら胡蝶に殴られそうだが――椎名はダイニングを見回した。窓の傍に、大きな観葉植物が置いてある。壁際には背の低い本棚があって、文庫本と新書と児童書と絵本が雑多に同居していた。揃って本好きの一家らしい。少なくとも両親は本好きなのだろう。見るともなしに背表紙の文字を追っていると、おどろおどろしい書体で、「ほんとうにあった怖い話」と書かれた本が混ざっていた。 「死神、怖い?」 ようやく取り戻したらしい柔らかな声音で、胡蝶が問うた。 視線を二人に戻すと、ひろみがこくんと頷いていた。少しは胡蝶の存在に慣れてきたらしい。 「こわい」 「どうして?」 重ねて問うと、ひろみは心配そうに左右を確認した。そして内緒話でもするように、胡蝶の耳に口を近づける。 「……おじいちゃん、死神に殺されたの」 囁き声が、辛うじて椎名の耳に届いた。 「大っきなカマでね、殺されちゃったの」 髑髏の仮面と黒いマントを身につけ、大鎌を帯びた姿が思い浮かんだ。そうして死神は、鎌で魂を刈りとっていくのだ。――髑髏が自分の頭蓋に見え、慌てて妄想を打ち消した。 耳元から口を離し、ひろみはおずおずと胡蝶を見上げる。正誤判断を待っているような眼つき。悲しそうに少しだけ笑って、胡蝶はそっとひろみの髪を撫でた。 「それは……怖いね。怖かったね」 ひろみはされるがままになっている。胡蝶には不思議と似合う光景だった。自分が介入していてはこうはいくまいと、今の立ち位置をささやかに正当化する。しかし胡蝶がしっかりしてきてしまっただけに、怠け癖に拍車がかかっていることは否定できなかった。 噛んで含めるように、ゆっくりと話しかける。 「でもあたしはね、そんな、怖いことしにきたんじゃないんだよ。ちょっと、ひろみちゃんとお喋りしにきただけ」 「お喋り?」 それは、初めて聞く明るい声だった。胡蝶を見上げる表情からは暗さが消え、期待が覗いている。その反応に力を得たのか、胡蝶は少女の眼を見てゆっくりと頷いてみせた。胡蝶の姿が急に大きく見える。 「そ、お兄ちゃんは宿題で忙しいもんね」 「勉強ばっかりで、ひろみとお話してくれないんだよ」 抗議するように口を尖らせた表情が、妙に胡蝶に似ていた。というより、胡蝶の表情が幼いのかもしれない。 いくら兄とはいえ、死者の話し相手になれというのは無理な相談だ。ふと、宿題に没頭する兄に視線をやった。本当に勉強が好きなのか、逆によほど漢字が苦手なのか、ドリルから顔を上げようともしない。例え本当に妹が椅子の下に座っていたとしても気づかなかったのではないかとさえ思わせた。――ひょっとしたら、そうすることで逃げているのかもしれない。 不意に胡蝶が、思い出したように核心を衝いた。 「そういえば、ひろみちゃんはなんでここに居るの?」 「なんで?」 ひろみが首を傾げ、不思議そうに問い返す。彼女と同じ方向に首を傾げながら、胡蝶は促すように言葉を継いだ。 「ドレッシング、食べちゃったんだよね」 「うん、ごまのサラダ、まぁくんに分けてもらったの……あ」 言葉を止めて空を見る。――まぁくんとやらはさぞ自責の念に苛まれるだろうと、その一点だけを心配した。 「ピーナッツ」 一言だけを呟いた。 「ピーナッツ?」 「うん」 無知のふりをして問い返す胡蝶に、ひろみは視線を戻した。手を喉の辺りにあてがっているのは無意識なのだろうか。 「あのね、ひろみはピーナッツアレルギーだから、ピーナッツ食べちゃいけないの。ピーナッツは食べなかったけどね、ゴマドレッシングがピーナッツだったの……」 懸命に並べ立てていた言葉が小さくなり、聞き取りづらい音量になってやがて消える。しばらく惚けたような顔で沈黙していた少女の顔が、不意に、くしゃりと泣き出しそうに歪んだ。胡蝶も泣き笑いのような苦笑を向ける。手がそっと伸びて、ひろみの頭を撫でる。ひろみはされるがままになっている。椎名は、繰り返される情景を見ている。――あんまり感情移入するなよ。口には出さずに、相棒に呼びかけた。 兄の顔色を窺うようにちらりと背後を見て、それから胡蝶を見上げた。兄はドリルをのろのろと進め、時折時計を見上げている。 少女はか細い声を出す。 「ごめんなさい……」 「どうして謝るの?」 「ピーナッツ食べちゃだめって、ママに言われてたの」 「でもひろみちゃん、悪くないでしょう」 ひろみは黙る。――悪くないといえば、誰も悪くなかったのだ。ただの事故だった。 あやすように歌うように、胡蝶は言葉を紡いでいく。 「苦しかったんだね、怖かったんだね……でももう誰も、ピーナッツ食べさせたりしないからね」 「うん……」 「ね、お姉ちゃんと一緒に行こうか」 当たり前のような言葉を、胡蝶は柔らかく繋いだ。 ひろみが不安げに顔を上げる。不審ではなく不安の表情だった。既に胡蝶はひろみの懐に入りこんでしまったらしい。――彼女が悪人でなくて良かったと、妙に感心した。 「どこ、に?」 「うーん、……死神さんが追っかけてこないところ、かな」 言ってくれるではないか、と、黒衣の死神たる椎名は苦笑した。ひろみが思い出したように、慌てて辺りを見回す。 「死神……来ない? 怖くない?」 「大丈夫よ。お姉ちゃん、怖くないでしょう」 人差し指で自分を指し、笑顔で胡蝶が言う。こくりと頷きかけたひろみが、はっと気づいたように言った。 「……でも知らない人についてっちゃダメって」 「うーん、それ言われると辛いなあ。でももう、ひろみちゃんはこっち側だし」 「こっち側ってなに?」 思わぬ逆襲に苦笑する胡蝶に、ひろみが無邪気に問い返す。胡蝶が斜め上を見て答えを探しはじめたとき、玄関で鍵の開く音がした。 胡蝶が振り返るより先に、ひろみと少年が同時に顔を上げた。 「ママだ」 「ただいまー」 母親がパートから帰宅したらしい。ひろみにつられてリビングのドアを見遣ると、買い物袋を提げた若い母親が顔を出した。口元と顎の雰囲気がひろみにそっくりだ。そういえば、少年とは眼が似ている。父親の顔は見ていないが、家族四人が揃えばさぞ統一感のある家族写真が撮れるだろうと推測した。 「おかえりぃー」 「おっ、宿題やってるね」 母親が言いながら、兄の座る椅子に歩み寄った。ちょうど、胡蝶に背中から近づく姿勢になる。ひろみは胡蝶の肩越しに母を見上げている。その姿勢にはっとした。――まずい。 考えるより先に直感が口を衝く。 「おい、下がれっ」 胡蝶がきょとんとして振り向いた瞬間、母親の身体がぴたりと胡蝶に重なった。生者と死者の身体が二重写しにぶれる。しゃがんだ胡蝶の顔が、母親の着るコートの腰に重なる。 「え?」 「進んでる?」 「うん、ばっちり。……お昼なに?」 「スパゲッティ」 「椎名君、どうしたの」 「やったー」 声が次々に重なる。胡蝶が丸い眼を余計に丸くして椎名を見ている。身体の中を生者が通る不快感は、どうやら彼女にはないらしい。 「……ママ?」 呆然としたひろみの声に、胡蝶は訳も解らぬまま、再度少女を振り向いた――そして凍りついた。 少女の浮かべる、明白な恐怖の表情に。 舌打ち。――だから下がれって言っただろう! 「ひろみちゃん?」 「ママ……ママ」 「ひろみちゃん……どうしたの?」 そしてなんの前触れもなく、口から絶叫を ――まずい。 一歩を踏みだした瞬間、世界がコマ送りになった。 甲高い叫び声。ひろみの輪郭が黒く染まる。胡蝶が驚愕に眼を見張る。椎名の右手は腰に触れる。腰の左側。空を掻く感触にはっとした。――違う。刀はもうない。――銃は右側だ。顔を上げる。生者の親子が無理したような明るさで会話する。母親が買い物袋をテーブルに置く。胡蝶と母親が離れる。少年が椅子を降りる。ひろみと胡蝶の中を通りぬけて買い物袋の中身を覗く。胡蝶が再度ひろみに両手を伸ばす。母と兄の身体を通過した人外の存在に恐怖する少女に。胡蝶がひろみを抱き寄せる。黒く染まった身体が胡蝶の掌と頬を侵食する――叫び声は止まらない。 「やめろ、――胡蝶!」 叫んで、大股で二歩。片膝をついて胡蝶の肩に手をかけ乱暴に引き剥がす。掌と腕と片頬に黒い爛れ。空を見上げた虚ろな紅い眼。そのまま背中から倒れかけた彼女をすんでのところで抱きかかえた。喪服を着た身体は棒のように硬直していた。 見ると、江崎ひろみだった少女は見開いた眼だけを残して黒く塗りつぶされていた。その眼が椎名の眼差しとかちあう。その眼もやがてコールタールに消えた。顔も手足もなにもかも潰された円形の闇。底なしの漆黒に、ぱかりと赤い口が開く。 「怖イヨ――」 江崎ひろみとして発した、それが最後の言葉だった。 ひらりと馬鹿にしたような身軽さで、影と化した少女はどこへともなく消えうせた。 「あ、シュークリーム三つ」 「……一個はひろちゃんのぶん、ね」 生者の会話が右から左に通り抜けていく。 我に返って、椎名は片腕に抱いた胡蝶に視線を落とした。焦点の定まらない眼にどきりとした。眼の不安定さというよりは、彼女が湛えた懐かしい表情に。 「おい、あんた」 肩を揺すって呼ぶと、怯えた紅い眼が椎名を捉える。それは、かつて彼女が決して消さなかった恐怖の表情だった。ひろみの恐怖に感染したか。それともあるいは、根源に淀む恐怖を触発されたか。 痙攣したように震えて、彼女は椎名の眼を凝視しながら一言だけを絞りだした。 「ころさないで」 ――平手で彼女の頬を打った。 頬に赤みが差す。ほんの一瞬、彼女は眼を見開いた。しかし椎名が呼びかけるよりも早く、瞼を閉じてがくりと項垂れる。 それきり動かなくなった。 「おい――おい」 呼びかけながら揺すっても、胡蝶は反応を返さない。ショック死したのかとおかしなことを考えたが、彼女が胡蝶として実態を保っている以上、まだ「葬儀屋」として生きてはいるのだろう。となると失神しているだけか。思考が忙しなく駆けめぐり、やがてそれもぱたりと止んで、静寂に埋もれた。 殴打の痺れと頬の温もりが、右手から遠のいていく。唇を噛む。きつく目を閉じて、椎名は天井を振り仰いだ。瞼の裏には慣れ親しんだ闇しか見えない。 左腕にかかる重みをひどく頼りなく感じた。 |