葬儀屋
「anarchic re-covery」


T:早川卓


【anarchic】
 無政府状態の;無政府主義の;無秩序な
【recovery】
 不具合の解消などを目的に、パソコンのハードディスク内にあるデータを、メーカー出荷直後の状態に戻すこと。
【re-cover】
 再び覆う


 **********

「こんにちは」
 胡蝶が声をかけると、その少年は驚いたように彼女を見上げた。胡蝶の視線が確かに自分に向いていることを認識して、そのまま数秒硬直する。顔つきは見えなかったが、心中の驚きは挙動だけで充分に知れた。
 胡蝶は笑顔で彼を見つめている。見慣れた人懐こい笑み。誰にでも平等に向けられてきた笑み。突然現れた人間にこんな笑顔を向けられても面食らうだけだろうと思うが、この少年も、例に違わず反応を決めかねているらしい。
 遠くでホイッスルが聞こえた。
 スイッチが入ったように、少年が身動ぎする。
「……こんにちは」
 とりあえずとばかりに口にしたのは、至極常識的な挨拶の言葉だった。
 胡蝶は満足そうに頷いた。そして、不審げに見つめてくる少年からつと眼を逸らし、グラウンドを仰ぎ見る。
「練習、見てたの?」
  少年は黙っていた。黙ったまま、胡蝶と同じようにグラウンドを見る。ジャージ姿の高校生が走り、テニスボールと野球ボールが飛ぶ。威勢の良い掛け声があちこちから聞こえる。ランニングの掛け声などどこの学校でも同じなのだろうか。この学校自体は初めて訪れるはずなのに、こんな光景なら眼にも耳にも慣れ親しんでいるような気がする。
 二人がどんな眼と表情でいるのか、後姿からは読めなかった。ただ、四つの眼はグランドを走る陸上部員に向けられているのだろうと――その程度のことは判る。
 背後からトランペットが響いてくる。あるいはホルンかもしれない。トロンボーンかもしれない。金管楽器の音などどれも同じに聞こえる自分は耳が貧弱なのだろうかと、どうでも良いことを考えた。
「まあ、そんなところです」
 トランペットに負けそうな声音で、少年が呟いた。肯定でも否定でもない、ただの相槌。日本語は便利な言葉だ。
 空気はからからに乾いていて、活気のある音だけが耳に飛びこんでくる。規則正しい足音とともに、ジャージの群れが目の前を横切っていった。胡蝶が興味深げにその後姿を追う。少年も同じようにジャージの後姿を眺めていたが、どちらかといえば惰性に近い挙措だった。
「速く走れるって良いよねー、羨ましい。あたしなんかからっきしだもんなあ」
 何気ない口調でそう言って、彼女は黒いパンプスの踵を上下させた。たぶんあどけなさで言うなら、駆けまわる高校生と大差あるまい。
 その彼女を、少年が睨むように見上げた。
「なんの用ですか」
 背伸びをしていた踵を、地面に下ろす。そして胡蝶は彼を見た。
「俺になんか用ですか」
 苛立たしげに、少年はその言葉を繰り返した。吹き荒ぶ北風のような眼で、必要以上に武装した横顔が見える。
 誰から誰を、護っているのだろう。
 見下ろす胡蝶の横顔は、いつもの丸みを帯びている。ある種の人間にとっては、却って警戒心を起こさせるような表情。信用したら裏切られるのではないかと、何気ない風を装って懐に入りこんで自分のいちばん弱い部分を突いていくのではないかと、優しい表情をして自分を徹底的に貶めて嘲笑うのではないかと――そうだ。過剰に自己防衛をする人間ほど、胡蝶にそんな反応を返す。
 冷たい風が砂埃をさらう。けれど少年の短髪も、胡蝶のロングヘアも微動だにしない。
 ホットミルクの甘みを語るような口調で、彼女はやがて口を開いた。
「あなたがまた走れるように、ちょっとお手伝いをしに」
「それ、嫌味?」
「どうして?」
「どうしてって」
 異様に速いテンポで言葉を返し、不意に言葉を失う。胡蝶をきつく見据えたまま。眼は口ほどにものを言うとは本当らしい。
 胡蝶はその眼を受けとめている。やり場のない眼差しを。
「こんな脚で……どうしろって言うんだよ」
 車椅子の上でアームレストを握りしめ、早川卓は掠れた言葉を絞りだした。
 胡蝶は黙ってその言葉を聞いている。
 椎名は――腕を組んだまま、二人を遠目に見遣っていた。
 ――まあ、妥当な反応だ。
 グラウンドに下りる階段のいちばん上に、胡蝶と卓が立っている。より正確に言うのなら、胡蝶は立ち、卓は階段の縁ぎりぎりに車椅子を停めている。少し右に回りこめばスロープがついているというのに、彼が選んでいたのはそんな自虐的な場所だった。ゆったりとしたジーンズにセーターという姿は、冬の空気に晒されるには薄着に過ぎたが、それを言うならスーツしか着ていない胡蝶とて五十歩百歩だろう。無論、同じ格好をしている椎名も同様だ。むしろジャケットをだらしなく羽織っているぶんだけ、椎名のほうが寒々しいかもしれない。
 二人から数メートル離れた大樹の陰に、椎名は無言で佇んでいる。今日は口を挟むまいと決めていた。
 胡蝶の視線が、卓の両脚に向いたように見えた。
「どうもこうもないよ。あなたの脚がどうなっていようと関係ない」
「馬鹿にしてんの?」
「あなたは死んだのでしょう、早川卓君」
 押し殺した声に、胡蝶は穏やかな表情のままで言葉を継いだ。
 毒気を抜かれたように、卓は胡蝶を見つめた。眼を白黒させているのだろうということくらいは、この距離でも想像がつく。
 外周ランニングから帰ってきたらしい集団が、椎名の横を走りぬけた。彼らはそのまま階段に向かい、胡蝶と卓の中を通り抜けてグラウンドに下りていった。――卓がかすかに顔をしかめている。現世の人間に中を通られるときの気持ち悪さは、慣れていないと辛いだろう。椎名などはいつまで経っても慣れないが、胡蝶は不思議なことに平然としていた。
 無意識にか喉を撫でる卓に向かって、胡蝶は世間話のように続けた。
「陸上部、エースだったんだってね」
「交通事故だったんですよ」
 訊かれもしないのに、卓はそう言った。
 視線の先のグラウンドでは、絶えず誰かが走っている。陸上部か野球部かサッカー部か、それとも水泳部か吹奏楽部か。吹き荒ぶ風が痛いのか、走る生徒たちは顔を思いきりしかめている。風など感じない死者だけが、平坦な表情を崩さない。
「車に轢かれて両脚複雑骨折。でも、まだ高校入ったばっかりだし、頑張ればインターハイだって狙えるかもしれないから、リハビリ頑張るつもりでした。もう二度と走れなくなるわけじゃなかった。医者にもそう言ってもらったのに……なのに」
 訥々とした語り口が、不意に崩れた。自嘲的に肩を竦めたのが見える。
「馬鹿みたいじゃないですか、インフルエンザだなんて」
 入院患者の中で運悪くインフルエンザが流行り、運悪く合併症を起こして、肺炎で運悪く死亡した――それが、早川卓の辿った経過だった。リハビリの始まる前のことだった。――つくづく運の悪い奴。彼の書類に目を通したとき、そんな感想を抱いたことを思い出す。交通事故であっさりと死んでいたのなら、彼の未練も違っていたのだろうか。あるいは、もう二度と走れないということを宣告されてからの死であったなら。
 また走れるようになるという希望だけを手渡されたまま、早川卓は、脚とは全く無関係な病で死んでいったのだ。それは恐ろしく絶望的な終焉だろうと思う。
 胡蝶は卓と並んでグラウンドを見ている。活気に溢れた生者の世界を眺めながら、彼女は言った。
「病気なんてそんなものよ」
「知った風に言うんですね」
「同類だから、ね」
 きょとんとして、卓が胡蝶を見上げる。一拍遅れて彼を見下ろす胡蝶は、悪戯っぽい微笑を浮かべていた。
 卓の唇が一度動いた。けれどすぐに引き結ばれた。
「……一体なんなんですか」
「迷子の同類を案内しにきた、って感じかな」
 卓は黙って胡蝶を見上げていた。表情は見えない。けれどそう硬いものではないだろうと思った。肩の力が随分と抜けている。精々が、厄介な転校生に絡まれて困っているといった風情だろう。
 どちらともなく、二人は視線をグラウンドに戻した。
 高い空には雲が浮いている。
「あなたはどうしてこんなところに居るの」
 胡蝶が問うた。
「……居ちゃいけないんですか?」
 卓の答えは一拍遅かった。胡蝶が黙っていると、死者は意味もなく一息をついた。
「死んだくせにまだこんなところうろついてるから連れ戻しにきたのかもしれないですけど、誰にも迷惑はかけてないですよ。別に、学校に取り憑いて幽霊騒ぎを起こそうとか、そんなことこれっぽっちも思ってない。この辺見るのに飽きたらちゃんと成仏しますよ、俺」
「それじゃ早川君が辛いんじゃないかなあ」
 死者の早口を、胡蝶がのんびりと遮った。
 卓は、答えなかった。
 車椅子と喪服。二つの後姿が、立ち位置も変えずに佇んでいる。心中の変化は、外側からは窺い知れなかった。
 ――胡蝶が、くるりと身体ごと卓に対峙した。卓が顔を上げると同時、まっすぐに手を差し出した。
「立って」
 卓は面食らって胡蝶の指先を見ている。視線を上げる。表情こそ柔らかいが、ひたむきな彼女の表情が――彼の位置からはよく見えるはずだ。椎名を幾度となく、尻込みさせてきた表情が。
 胡蝶は微笑を浮かべたまま、二度、上下に手を振った。
「立って。走りたいんでしょう」
「俺の話聞いてなかったんですか?」
 言葉の端に、また苛立ちが覗いた。
「死ぬ前の時点で俺はまだ入院中、脚はまだ治療中、だからこうやって車椅子で」
「死ぬ前の話、でしょう?」
 卓は、口を噤んだ。
 その隙間にするりと入りこむ。それが彼女の――十八番だった。
「それは全部、あなたが死ぬ前の話。でも、今のあなたには身体がない」
 人は死ぬと身体を失う。そして輪廻に還り、次の生を待つ。例え輪廻を拒んで現世に留まりつづけたとしても、死者が身体を持たないという事実は変わらない。
 卓が視線を落とした。その眼の先にある手は、膝は、全て虚構。
「身体のないあたしたちは、概念だけの存在なの」
「がいねん……」
「気持ち次第ってとこかな。また走りたいと思ってるのに、どうして身体を失くしてまで車椅子の姿でここに残ってるの、っていう。……うーん、ごめんね、あたし理屈っぽい話苦手なんだ」
 おどけたように苦笑して肩を竦める。けれど、決然と差し出した手は揺らがない。
「とりあえず騙されたと思って、やってみない? 失敗したって死ぬわけじゃないしね」
 おどけたような笑顔でそう言って、胡蝶はもう一度、大きく上下に手を振った。
「立って、走ってみて」
 卓は呆然と胡蝶を見上げている。突然現れた正体不明の同類を信じて良いものかどうか――まだ決めかねているらしい。黒いスーツにタイトスカート。襟に締めたネクタイも黒い。血のように紅い両眼は、けれど活き活きと輝いている。
 卓は視線を落とした。黒いスーツの袖から、白い手がまっすぐ自分に伸べられている。――自分なら、その手を取るだろうか。
 若い死者はもう一度胡蝶の顔を見上げた。彼女はふわりと微笑した。
 そして卓は、恐る恐る彼女の手を取った。
 胡蝶は少し驚いたように彼を見返したが、すぐに笑顔で頷いた。その表情につられるように、片方ずつ、足を地面に下ろす。スニーカーがぎこちなくレッグレストから離れ、アスファルトに触れた。アームレストを掴んだ左手に力がこもる。
 重心を動かして僅かに前のめりになった瞬間、彼の表情が変わったのが見えた。
 勢いよく顔を上げる。彼女は卓の手を握ったまま、穏やかな顔をしていた。そのまま数秒、彼は胡蝶を凝視していた。
 卓は、胡蝶から手を離した。そしてその右手もアームレストに置いた。
 意味などないはずの深呼吸を、いやに大袈裟にした。
「せー、のっ」
 小声で掛け声をかけて――早川卓は、自分の脚で立ち上がった。
 車椅子を捨て、身長差が一気に逆転する。
 自分よりも高い位置にある両眼を、胡蝶は満足そうに見上げた。
 形容しがたい戸惑いの表情で、卓は胡蝶を見下ろしていた。そして、ジーンズに包まれ、スニーカーを履いた自分の両脚を。自分が踏みしめる灰色のアスファルトを。見上げると、雲の浮いた空は抜けるように高かった。
 卓の視線が胡蝶に戻る。励ますように一度頷いて、彼女は一歩、彼から離れた。
「さあ」
 笑顔のままで促した。
 卓がグラウンドを見る。同級生がグラウンドを走っている。先輩がストレッチをしている。マネージャーが飲み物の準備をしている。――熱に浮かされたような歩調で、彼は一歩を踏み出した。
 ふらつきながら、階段を一段下りる。
 見守る胡蝶の背中は不安げだったが、手を貸そうとはしなかった。
 一歩一歩、彼はグラウンドに近づいていく。
 見つめる椎名の脇を、そのときジャージ姿の教師が通りすぎた。喪服の死者など無視して、足早にグラウンドへ向かう。胡蝶の脇を掠め、卓の歩みを追い抜いて、彼は軽やかに階段を駆けおりた。誰か生徒の名前を呼びながら手を振っている。
 それが合図であったかのように、卓の歩みが速まった。
 慎重な両脚が普段の歩調を取り戻し、やがて軽やかなリズムを思い出す。
 スニーカーがグラウンドの砂を踏みしめた。そのまま片足が地を蹴り、迷うことなく周回コースに入りこむ。走りかたは身体が憶えていた。
 走る生者を、死者が静かに追い抜いた。
 周りなど見向きもしないひたむきさで、死者が駆けている。死者にしか聞こえない足音は、たぶんこの場の誰よりも力強かった。
 身体を傾けてカーブを曲がり、更に二人を追い越す。次第にスピードが上がる。
 硬かった表情が和らいでいることに、椎名は遠目にも気がついた。久しく眼にしなかった、満ち足りた表情。ただ自分の向かう先だけを見つめて、踏みしめる地面と頬を撫でる風を感じている。もっと速く、もっと先へ、もっともっと――。
 意味もなくひとつ息をついて、椎名は軽く目を閉じた。自分の唇も微笑していたかもしれない。
 次に目を開けたとき、早川卓は階段の目の前を風のように走り抜けていった。二周目に入った後姿が、不意に背景を透かす。
 それからまもなく、彼は空気に溶けるようにして消えた。
 ――あとにはただ、放課後の部活動風景が残された。
 乾いた空気に砂埃が散る。お誂え向きのタイミングでシンバルが響いた。
 椎名は組んでいた腕を解き、革靴の先を胡蝶に向けた。
「お疲れさん」
 声をかけると、胡蝶がくるりとこちらを振り返った。死者を見送った余韻に浸っているかと思いきや、椎名の姿を認めるなり口を尖らせる。変わり身の早さは、彼女の成長の証だろうか。
「椎名君、結局またサボったぁ」
「人聞きの悪いこと言うな。誰がサボりだ」
「だってそこで立ってるだけで全然こっち来なかったじゃん」
 立っているだけだったことは否定しないが、胡蝶の仕事に口を挟まなかったからといってサボり扱いされるのは心外だ。見守るというのも、立派な相棒の務めであると思う――たぶん。
「あんたも俺が居ないほうがやりやすいだろ」
 苦し紛れに付け足すと、胡蝶は言葉に詰まったように唇を結んだ。見ると紅い眼が泳いでいる――どうやら図星らしい。予想外に解りやすい反応に、椎名は思わず笑った。
 こちらを見上げたまま、胡蝶が一度きょとんとした表情を見せる。たっぷり数秒間抜けな顔を晒したあとで、取り繕うように慌てて膨らんでみせた。それもそれで間抜け面だ。
「なに笑ってるのー」
「別に」
 文句を軽く受け流す。――あんたも一人前になったってことだよ。脳裏に湧いた言葉は、しいて口に出さずに仕舞いこんだ。
「あんまりサボってると常磐さんに言いつけるからねっ」
「だから誰がサボってんだって。……ほら、帰るぞ」
 言い捨てて背を向けると、胡蝶はむうと唸りながらも素直についてきた。上司に告げ口される程度のことはなんとも思わないが、常磐が返すであろう反応と、それによって増長するに違いない胡蝶の表情を考えると、あまり面白くない展開になることは間違いない。四の五の言わず真面目に仕事をすることも検討すべきなのかもしれなかった。
 目を閉じて班室を思い浮かべたとき、椎名は思い出したように、腰に提げた銀の銃に右手を触れた。在るべき位置に間違いなく在ることを確認しただけで、視線を落とすことすらしなかった。
 これが俺の成長なんだろう。そう思うと同時、意識がぐいと遠ざかる。


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