●静かすぎる夜だった。なにも知らずに済ませるつもりだったのに、結局ここまで来てしまうとは皮肉なものだ。実験室の硝子に手をついて、試験管をじっと見つめる。エメラルドの培養液はどんな夢を見せてくれるんだい。蛍光灯にしらじらと照らされて、僕の半身は静かに泡を吐く。 ●表情を失くした彼女の手を引いて、野生の宝石を見に出かけた。緑の草の中、一面にサファイアが咲く野原へ。紫紺の粒をひとつ拾って覗くと、小さな彼女が中で泣いていた。お願いだから。透明な壁の向こうで訴える。もう離して。思わず手を離すと、自由を得た彼女は淋しげに微笑んだ。 ●言葉で伝えられないなら唄うしかあるまいと、思った。詞の力はダイヤモンドにも劣らないと信じてはいるけれど、それ以上に届くことばがあるのなら。被った埃を丁寧に拭いて、チューニングを整えなおして、拙いギターを奏でよう。異国の恋人の微笑みに、この歌が届いたことを知る。 ●さて、困りましたね。詭弁を弄して煙に巻くなら十八番と言われて久しいですが、今回ばかりは役立ちそうにありません。血の雫をルビーに言いくるめるほうがまだ得手――ああ、相応しい例えではないですね。そう、今宵の貴方はどんな言葉をお望みでしょうか。年に一度の、祝いの日に。 ●「まだ、解りませんか」銀の銃を手にした優男が、穏やかな声で問いかける。意味が解らない。首を傾けて返事に代えると、銃口が緩やかにこちらを向いた。「残念です」微笑していたのは唇だけだ。紡ぐ台詞は機械音。「根本的に間違いなのですよ」聞こえた銃声は気のせいか。――暗転。 ●はたり、と切先から黒い雫が落ちる。これは罪だろうかと、抜き身を提げて漠然と考えた。はたり。仕事という義務でありながら、こなせば異端の誹りを受け、血濡れの獣と忌まれるこの行為は。――はたり。それならそれで構うまいと放棄した思考の先に、三日月の唇で嗤う本能が巣食う。 ●真珠の涙なんてそう良いものじゃない。箪笥の角にぶつけた小指、玉葱の微塵切り、お構いなしだ。真珠をばら撒いて泣くほど惨めなことはない。それを知ってて真珠のリング。どんな神経? 呆れ顔で問うても貴方の真顔は崩れない。馬鹿馬鹿しくて言葉もなくて、また一粒真珠を落とす。 ●帽子を小さく傾けて、真鍮のコインを弾きあげる。出るのは表かそれとも裏か? 金の風は回転を歪め、銀の風は落下速度を狂わせる。帽子の鍔に手をかけたまま、審判は視線でコインを追う。手の甲に落ちた真鍮をぱしりと捕え、唇に三日月を刻んだ。――さて、今宵の勝者は金か銀か。 ●抜けるような空だと言うと、よくそんな怖いことが言えるな、と真顔で返された。空が抜けたところを見たことあるか? づづ、って抜け落ちるんだぜ。指差した先には綿雲が浮いている。馬鹿だなぁ、塞いで誤魔化してるのさ。強がる呆れ声に応えるように、雲がづっ、とこちらへずれる。 ●「ひでェ雨だな。おい、なに泣いてやがる」「誰が泣くってのよ。雨女が悲しいときになんで雨が降るのさ」「他に誰が居んだよ」「泣いて雨が降るなら晴れ男に決まってんでしょ。あっちで泣いてるわよ」「どうしたんだ」「……雨女に振られました」「あの女、上機嫌だと思ったら……」 |