●公園にピンヒールは似合わない。けれど、煙草片手の気怠い夜なら公園に居ても悪くない。子供たちの声も静まったベンチ。ヒールと同じ細い煙が、星のない夜空に流れて溶ける。足を痛めてまで履く靴を褒めてくれたのは、煙草の匂いのするひとだった。憧れて始めた煙も、今はただ苦い。 ●「関係ねえだろ」「なんでそんなこと言うの……それじゃ椎名君が可哀想だよ」「あんたに俺が救えるってのか?」「判んないけどさ、でも」「……いや、良い」「え?」「……あんただったらやりかねないな」呟いて、ふいと視線を逸らす。後頭部に感じた視線は意識的に無視した。 ●改札口に落ちていたのは、夕焼け行きの定期券だった。一体誰が落としたのだろう。気紛れに家へ持ち帰ったその日、陽はなかなか沈まなかった。「駄目ですよ、他人のものを持ち帰っては」振り返ると黒衣の青年。定期券を片手に駅へ向かう。そしてようやく、長い夕焼けの末に夜が来た。 ●努力はした。才能もあった。技を磨いた。富も名声も手に入った。ただひとつ、君だけを失った。悲痛な叫びの代わりに音を紡いだら称賛されたが、それも虚しい。逃げ道も首を絞めるだけだと気づいて愕然とした。音に夢中だった僕への意趣返しかい? 五線譜の向こうで君は無垢に笑う。 ●昨日までの日々はとても長く感じたけれど、今日からの毎日はどんな思い出になるのだろう。過ぎ去ったこれまでが色褪せてしまうくらい、素敵な今日にしたいね、なんて。――さようなら、昨日までの僕ら。そしておはよう。今日から君は、僕の妻だ。 ●寝そべって見上げると、深すぎる星空に呑まれそうな気がした。いっそ呑みかえしてやろうと口を開けたら、なにかが飛びこんできて思わず口を閉じた。硬くて甘い、小さな欠片。「星の味はいかが?」目を白黒させる僕を、見透かしたような笑顔の君が覗きこむ。金平糖の袋を片手に。 ●目覚めろと、何かが言った。何に、と、茫漠とした意識で呟く。問いに答える者はない。無意識に動く手が刀を探り当てた。これは――なんだろう。指先から這い登る歪み。駄目だ。まだ喰われるわけにはいかない。微かな理性が指を外させ、獣は舌打ちと共に、何度目かの混濁に沈んだ。 ●目新しいことなんてそうそうない、と、失望混じりの退屈感を自覚した。覚醒するなら今を逃してはあるまいが、火遊びめいた恋愛ゲームに未練はある――否、それでもやはり、潮時だろう。メール画面を静かに閉じて、秘密のやりとりに終止符を打った。 ●山盛りの初雪が降った。よく見ると雪女の涙らしい。なにかあったのかい? 百歩譲ってもまだ初秋だぜ。声をかけると潤んだ眼で睨まれた。泣きたいときに泣いてなにが悪いの。それもそうか。じゃあ俺も、と葉の生い茂る桜を見上げる。思いきり狂い咲いて散り果てて喚いてやろう。 ●路地裏に駆けこんだ途端、行き止まりに阻まれて思わず舌打ちをした。正面の石塀は越えられるか。隣の有刺鉄線はリスクが高すぎる。背後からくぐもった足音。湿った音は聞かないふりをした。行くしかない。助走をつけて石塀に手をかける。向こう側の情景は想像する暇がなかった。 |