●書斎の扉を開けると、あの頃と変わらぬ彼が万年筆を走らせていた。振り返った顔が怪訝そうに歪む。気の毒に。私の顔さえ忘れてしまったのか。果物籠からナイフを手に取り、恭しく礼をする。こんばんは、ご主人。最期のご挨拶に伺いました。彼が眼を見開いたかどうか、私は知らない。 ●森の主は、オパール色の尾を持つと聞いた。陽に輝く姿をどうしても見たくて、木々の間に分け入った。あちこち覗いて目を凝らしても、主は気配も悟らせない。仕舞いに雨が降りだし途方に暮れたところで、微かな笑い声がした。しっとり濡れた宝石色が覗く。許せ人の子、雨の化身じゃ。 ●シャーベット作りの機械を買った。硝子を入れると涼やかな透明の。絵具を入れると鮮やかで濃厚な。悪戯心を起こして夏のアルバムを入れてみたら、あっという間に溶けてしまった。夏は小さな泡と化して、グラスの底に溜まっている。一瞬きりの季節だった。 ●ポップコーンを噛みながらスクリーンを眺める。華奢な青年の指が躍り、ピアノに合わせて球形の翡翠が散った。あちら側が奏でる音を聴きながら、こちら側で無遠慮に菓子を砕く。ふと見ると、ポップコーンに翡翠の原石が混ざっていた。物悲しいワルツはまだ続いている。 ●レンズ越しに見ると、世界がまっすぐに補正された。悪意は善意に、憎悪は愛情に。歪んだ画像は要らなかった。綺麗な世界に住んでいたい。外すのが怖くてそのままでいたら、自分の奥から声が聴こえた。「つまんなくない?」本音までは繕えないと知ってから、僕は眼鏡をかけていない。 ●木漏れ日の中で立ち竦む。あの人はどこに行ってしまったのだろう。さっきまで確かに前を歩いていたはずなのに、大きな背中は急に消えてしまった。途方に暮れて見上げると、葉の隙間から陽射しが零れる。斑の光に包まれて、不意に、来るべくして来たのだという思いが掠めた。 ●要するに道化だっただけでしょう、と冷たく突き放す、その言葉にさえどきりとしてしまうのはいけないことでしょうか。道化でも良いから気を惹きたいというのは子供じみた策略でしょうか。言葉を貰えたその事実を大切に抱きたい僕は。愛の反義が無関心なら、無関心のその逆は。 ●どうやら気づいていないようだから僕が言おう。君は、君が思うよりずっと頑張り屋だし、繊細だ。ちゃんと認めてやらないと折れちまう。別に弱いだなんて言ってないよ。ただちょっとくらい、自分に優しくなれよって話だ。もしできないなら、どうだろう、僕にやらせてくれないかな。 ●思いきりアクセルを踏みこんでカーブを駆けた。街灯が一瞬で背後に消え、わずかに体重が消える。まだだ。まだ足りない。消したい記憶はもっと身体の奥底だ。次のカーブを凝視する。吹き飛んでしまえ。それが無理ならそれ以上の重傷を。強く念じてハイスピードでハンドルを切る。 ●これは漂白が必要ですと、若い写真師は真面目に告げた。忘れられないひとを漂白液に晒すのは、写真であっても抵抗がある。反応の遅れを躊躇と見抜いてか、写真師が大丈夫、と柔らかく笑う。仕上がった一葉からはしがらみが消えていて、あるのはただ懐かしい笑顔。少しだけ、泣いた。 |