●その人は群青の影を持っていた。不思議に思い目を留めたその瞬間、群青だけがするりと逃げだした。あとには何事もなかったかのように、黒い影が伸びている。あれはなんだったのだろう。振り返るが答えは出ない。ただ自分の足許が青く染まっていることだけは確かだ。 ●透明人間は影に憧れていた。存在の証拠を、地面に残してみたかった。ある晴れた日思いついて、誰かの背後について歩いた。影を持つ人の動きをぴたりと真似た。影を持てた気がして嬉しくなって――そして、誰かとひとつになって消えた。初めから存在しなかったかのように。 ●「ねえ、サボってないで仕事してってば」「今日は休みだよ」「え?」「八月十五日だ」輪廻に還るべき魂も、この時期くらいは現世に留まる権利がある。粛々と墓参りに出かける生者を思いながら、「葬儀屋」は短い休息を享受する。 ●「こんばんは」「こんばんは。良い夜だね」「ええ」「星がひとつも見えないからほっとする」「月が明るくて見惚れてしまうわ」「あんなにたくさんのものが空にあると思うとぞっとする」「綺麗なものはひとつで充分よ」「さよなら、相入れないひと」「またね」 ●なにか他愛無いはずのことを言ってしまったら、貴方は怖い眼をした。ごめんなさい、と言ったら、なぜ謝るの、と声を荒らげた。口を閉ざしたら、なぜなにも言わないの、と責めた。だから私は貝になった。貴方は私を見て泣いた。海の底で泡を呟く。ぷくぷくと微かに音がした。 ●この夏最後の花火が空を焼く頃、僕らは線香花火に火をつけた。淡い金魚の泳ぐ浴衣で、君は必死に小さな稲妻を見つめている。「良いのかい」君は顔を上げる。「夏が行ってしまうよ」「行ってしまうから、良いのよ」君が小さく笑い、最後の火が落ちた。 ●君のピアノを聴くのが好きだ。ピアノを弾く君の横顔と指先が好きだ。ピアノと君を独り占めしたくて、音楽室に鍵をかけた。けれど、部屋中に広がる音は頂けない。だからヘッドホンを被せてしまった。両耳を閉ざされた甘美な密室。静寂の中、君は指を躍らせる。他の誰にも聴かせない。 ●そのひとは万華鏡の中に住んでいた。華やかな虚像に見え隠れする姿を探して、毎日筒を覗きこんだ。煌めく黄金色の向こうで手を振るひとに思わず手を振り返したその瞬間、意識は硝子片の向こうに移っていた。色彩に埋もれた迷宮の向こうから、あのひとが妖しい微笑で見つめている。 ●僕は誰の肩も持ちませんよ、と、長髪の優男は穏やかに言った。自分の主張くらい自分の言葉で守りなさい。そう嘯いた口で、ついさっき私の論理を突き崩したくせに。この人は、こうして数多の絶望を作ってきたんだろう。最後の諦めを悟ったとき、人形じみた顔が微かに笑った気がした。 ●午前三時の鐘の音で、どこへともなく攫われる。そんな噂を真に受けて、時計台へと近づいた。「馬鹿だね、のこのこ来たのかい」鐘楼に影。「もう消えたくて」「だから馬鹿だと言ってるのさ」微かに嗤って鐘を撞く。星のない午前3時。時計台だけを残して、世界は鐘の向こうへ消えた。 |