●雨が降っているかどうかを確かめるとき、両腕を広げて空を仰ぐのが彼女の癖だった。翼を広げたようなその格好が好きだった。「雨の日って嫌いよ」「そうだね」今にも降りだしそうな、降っているのかどうか判らないような、そんな天気じゃないと翼が見られないからね。 ●コーヒーカップを傾ける。制止する声は聞こえないふりをした。白いテーブルクロスに茶色い染みが広がる。彼は蒼白な顔で凝視している。お気に入りのクロスが汚れたから? いいえ、違うでしょう。私は微笑む。お生憎さま。飲めないわ、こんなもの。貴方が毒を入れた飲み物なんて。 ●言いなりになる自分に嫌気がさして、ナイフで腕を切った。がりりと手応えがあって、切り口から木の断面が覗く。なるほど。得心した。最初から、あたしは木彫りのマリオネットだったんじゃないか。 ●ハイヒールに憧れていた。正確には、ヒールの音に。かつかつ。消音リフトなんてとんでもない。音を聞くと気が引き締まる気がするの。だから、貴方と逢うときはいつだってハイヒール。油断すると夢中になってしまいそうなんだもの。それって悔しいじゃない、ねえ? ●赦さないから、と彼女は恨めしげに言った。そりゃあ確かに貴方に依存していたかもしれないけれど、砕いて抉って殺すだなんてあんまりよ。――そこで眼が覚めた。親不知を抜いて二日目。頬の腫れは、まだひく気配もない。 ●死に損なってしまった、と思っていたところに、喪服の若い男が現れた。紅い眼でこちらを見て、一言宣言する。「あんたの葬式、挙げにきたぜ」なんだ、ちゃんと死ねていたんじゃないか。奇妙に安心して眼を閉じる。 ●海に足を浸すと、焼けそうな陽射しからひとときの逃避を得られた。引き潮に持っていかれそうになる両足を、危ういバランスで引き止める。あの人もこうして攫われていったのだろうか。ビーチサンダルの間から入りこむ砂利にありったけの不愉快感をぶつけて、私は涙を噛みしめた。 ●世界中の誰もが寝静まったときを見計らって、君の場所へ飛んでいこう。君の寝顔と香りを貰いに。――世界が二度と目覚めなければ良いのに。小さく呟いて、朝日とともにそっと去る。眠る君しか知らない僕。ほんの少しの未練と、君が笑顔を向ける人への嫉妬を残して。 ●ぱん、と乾いた音がして、肩が熱くなった。おかしい。撃ったのは俺のほうではなかったか。顔を上げると、相手は肩を赤く染めて微笑んでいた。挑発するように広げた腕に、鉛の凶器。「そんなに憎いなら撃つが良いさ」反射的に引鉄を引いた瞬間思い出した。あれは俺の顔だ。 ●仕事帰りに毎日同じ顔を見かける。凛とした眼差しに惹かれて、僕はその日、初めて声をかけた。「待っていてくれてるの?」「冗談じゃないわ、自意識過剰も大概にね」つんと背中を向けたのは、金の眼をした綺麗な黒猫だった。 |