眠る繭

〈情報局‐3〉


 カフェオレを淹れようと立ち上がったところに名を呼ばれ、海棠は振り向いた。狭い組織だ。声さえ聞けば、誰かはすぐに判る。このときも、思い描いた人物と声の主は同じ顔をしていた。
「班長」
 賢木が半分椅子から立ち上がり、中腰になって手招きをしている。それを確認すると同時、海棠はコーヒーメーカーに向いていた足を賢木のデスクへ向けなおした。一度頷いて、賢木がまた椅子に座りなおしたのが見える。彼の許へ辿りつくまでの数秒間に、海棠は上司の顔を観察した。表情の厳しさはいつも通りだが、困ったような、やや中途半端な表情をしているように見えた。雷を落とされるというわけではなさそうだが、面白い話ではあるまい。なにか彼を困らせるようなことをしただろうかと考えてみたが、自分の記憶を検索してみても無駄だということは海棠自身がいちばん良く知っていた。
 パンプスのヒールを鳴らしもせずに、デスクの真正面に立つ。浅黒い顔の中では紅い眼が理知的に光っている。その眼がパソコンの画面を見、それからようやく海棠を見あげた。
 賢木が口を開くより早く、海棠は問うた。
「なんですか」
「夕凪から報告が上がってないんだが」
 単刀直入な一言を聞いてようやく、賢木の意図を悟る。思いあたってみれば、すぐに解らなかったことのほうが意外なほどに明快な理由だった。
 海棠はゆっくりと瞬きをして、それからこくりと頷いた。
「そう思います」
「……お前な」
「わたしにも報告がありませんから」
 怒るというより拍子抜けしたような様子で、賢木は溜息をついた。もう少し派手な反応を期待していたのかもしれない。たぶん氷室を注意することに慣れすぎたせいだろう、と冷静に分析する。確かに氷室であれば、賢木が口を開いたその瞬間に、「まずい」と表情を変えるであろうことは容易に想像がつく。あるいは、上司の精悍な顔から眼を逸らすか。しかしいずれにせよ、それを自分に要求するのは無理があるというものだ。
 海棠の思考を読みとったように、賢木はちらりと苦笑を漏らした。自分の失敗を悟ったときに見せる、照れ隠しのような苦笑だった。
 背筋を伸ばして立ったまま、海棠は口を開いた。
「沖田綾の案件ですね」
「憶えてたのか」
 むしろそれが意外だと言わんばかりの口調に、海棠は黙って頷いた。賢木の反応は正しい。普段だったら、海棠とて死者の一人や二人、記憶から消し去ってしまっていただろう。今回は特例だ。夕凪があんな顔をして「中間報告」にくるものだから、記憶に引っかかったままになっている。
 解ってるなら話は早い、と上司は呟いた。まっすぐこちらを見据える眼つきは、人の上に立つ人間のものだ。彼は生前もそんな位置に就いていたのだろうか。
「時間がかかりすぎだろう」
「相手が相手です」
 心持ち低くなった賢木の声に、相変わらずの平坦な口調で応じる。班長も注意のし甲斐がないに違いない、と、どうでもいい心配をした。――眠りつづけているという沖田綾と、粘りの飛鳥の相棒たる夕凪の組みあわせだ。処理に時間がかかるということは、二人を並べるだけで解る。そして恐らく、沖田綾という魂を相手に効率重視の処理を行うことは、得策ではない。
「それもそうだがな」
 上司の眼の鋭さが、少しだけ緩んだ。少なくともこの場においては、鋭い眼で海棠を射ぬくことが目的ではないらしいとまた分析をする。
「沖田綾を夕凪に回したのは君の判断だろ、海棠」
「そうです」
「第五班にではなく、夕凪個人に」
「ええ」
「多少急きたてるぐらいのことはしてやってもいいと思うぞ」
 綾を夕凪に託してから何日経ったのだろう、と、海棠はぼんやりと考えた。一週間くらいになるのだろうか。日付の感覚がないのでよく解らない。海棠のメモリでは、沖田綾を扱ったということを記憶しておくだけで精一杯だったようだ。何月何日に処理したか、そんなことまでいちいち記憶してはいられない。パソコンでデータを検索すれば判るのだから、憶えておく必要もないことだともいえる。
 賢木の眼がこちらを覗きこんでいる。海棠も見返す。怒りか呆れか、それとも面白がっているのかをもう一度判断しようとして――海棠は、自分が見誤っていたことに気がついた。
「そろそろ離してやらないと、彼女だって気の毒だろう」
 ――上司の眼は、時に親の眼ともなる。
 夕凪の親を務めるには賢木の外見年齢は若すぎたが、そんなことは関係がない。
 賢木の眼を見つめながら、海棠は、夕凪の表情を思いだしていた。
 そして、納得した。
「そうですね」
 素直に頷く。自分にしては珍しいことだった。賢木も同じことを感じたのか、驚いたように、微かに眼を見開いた。けれど一瞬のことだ。海棠が一度瞬きをすると、目の前には賢木の鷹揚な微笑があるだけだった。
 夕凪は真っ直ぐな女だ。海棠はそれをよく知っている。自分に足りないものだから、余計によく解っている。真っ直ぐな彼女が、塞ぎこんだ魂に対してどのような反応を示し、またどう扱うのかということに、単純に興味があった。
 真っ直ぐな彼女だからこそ、塞ぎこんだ魂をどうにかしてくれるのではないか――死者の繭に風穴を開けてくれるのではないか――。海棠の無意識はたぶん、そんなことまで計算していたのだろうと思う。
 誤算があったとすれば、彼女が真っ直ぐすぎたこと、だろうか。これでよく管理職が務まるものだと心配になるが、その性格が露骨に裏目に出たのかもしれない。
 彼女が綾に同調しすぎているのだとしたら、それは半分海棠の責任だ。しばらく前に「中間報告」をしに来たときの、あの苦笑を思いだした。わざわざ手渡しをしてしまったから、彼女はあそこまで責任を感じてしまったのだろうから。
 けれど――
「大丈夫です」
 言うと賢木は、濃い眉を少し上げてみせた。
「なに?」
「少し前に、情報が欲しいと電話がありました」
「……夕凪か?」
「もうじき来ると思います」
 賢木は黙って、視線を海棠の席のほうに投げた。海棠はその視線の先ではなく、上司の横顔を眺めている。賢木の視線が戻ってくると、海棠は少しだけ、首を傾げてみせた。
「わたしは、良い兆候だと思うのですが」
 賢木は、黙って海棠を見返していた。
 ちらり、とパソコンに眼をやる。キーをいくつか叩いて、エンターキーで止めを刺したのが見えた。要注意案件リストから夕凪と沖田綾の名が削除されたのだろう、と勝手に想像する。実際のところ、彼がキーを使ってなにをしたのかは解らない。しかし少なくとも、賢木の頭の中で起こっていたことは、海棠の想像とそう違うまいと思う。
 モニターから顔を上げた賢木は、やがて、広い肩を竦めた。
「――解った」
 海棠に戻ってきたのは、どこか少年じみた、海棠のよく見知っている眼だった。
「彼女のことは、君のほうがよく知ってるだろうしな」
「相棒も本人も優秀ですから、なんとかなるでしょう」
 そう応えると、賢木は苦笑を見せた。冗談か皮肉だと思ったのかもしれない。
「頼んだよ」
「解りました」
 短い言葉を交わすと、海棠は会釈をした。踵を返し、先程行き損ねたコーヒーメーカーに向かう。なにも考えずに、ミルクと砂糖をたっぷりと入れたカフェオレを二杯作った。二本目の砂糖を入れることを、今日はためらわなかった。糖分が必要なのは、疲労時ばかりとは限らない。
 戻ろうとしている自席の脇に、ポニーテールの人影を認める。所在なげに佇んでいるようにも見えたが、彼女の立ち姿は堂々としていた。当たり前だ。そこは彼女の居場所でもある。佇む彼女は待ち人以外に興味がないのだと解っているのか、隣席の氷室も、一人で大人しくキーボードを叩いているだけだった。
 マグカップを二つ提げた海棠に気づいてか、彼女は顔を上げ、小さく手を振った。――見慣れた夕凪の笑顔だった。
「悪いわね」
「空いている席があるでしょう。適当に座って」
 海棠が小さく頷きながら言うと、夕凪は素直に、斜め後ろの空席を引っぱってきて腰かけた。海棠も自分の席に座ると、マグカップをひとつ彼女に手渡した。サンキュ、と短く言って、夕凪がカップに口をつける。湯気の向こうに、ほっとした顔が見えた。海棠は両手でカップを包みこんだまま、友人の顔を眺めている。すっきりとまとめたポニーテールはいつも通りだ。けれど重要なのは、眼。
 以前に会ったときとは違う眼をしていた。
 しかしそれは、海棠の見慣れた眼だった。
「いきなり押しかけてごめんね」
「構わないよ」
 一言だけで応えて、海棠は熱いカフェオレを啜った。それからカップをデスクの上に置く。キーボードの上に重ねた紙の束を、無造作に手に取った。急ぎの用件に、無駄な挨拶は不要だ。
「手島伸晃の情報だったね」
「そう」
 頷く夕凪に、黙って書類を手渡した。びっしりと文字の並んだ書類が、分厚い束になってまとまっている。――紙の束というものは、見た目よりずっと重い。隙間のなさがそうさせるのか、それとも、そこに刷られた情報の重みがそうさせるのか。
 眼を丸くし、思わずといった調子で顔を上げた友人に、海棠は短く説明を加えた。
「沖田綾が死んでからの、手島伸晃の全情報」
 夕凪は、再び視線を書類に落とした。重い束を受けとるでもなく、ただ海棠の手元に視線を注いでいる。
「……こんなに?」
「わたしは一切いじっていない。その情報は生のまま」
 事務的な口調で言うと、夕凪はちらりと苦笑を見せた。
「両極端ね、あなたって人は……削るか残すか、どっちかしかできないの?」
「それは君の仕事だ。どれを使うかは、夕凪が自分で決めたほうが良い」
 手島伸晃の情報が欲しい。沖田綾の仕事で使うから――夕凪からの電話を受けるなり、そんな言葉が耳に飛びこんできた。情報量は、と問おうとしたが、さすがに彼が生まれてから現在までの情報というわけではないだろう、と思いなおす。必要なのは、綾の死後に伸晃がなにをしていたかということだけであるはずだ。綾の生前のことであれば、夕凪に渡した沖田綾の書類に既に書き記してある。手島伸晃は、沖田綾の物語にとって欠かすことのできない重要な要素であるのだから。けれどそれ以上は、海棠には判らない。――それだけのことを、一瞬で考えた。
 なにが欲しいのかをその場で問い返すこともできたが、それはしなかった。了解、いつでも。それだけの言葉で応えて電話を切り、沖田綾が死亡してからの手島伸晃の行状を、全てプリントアウトした。情報は繊細だ。行使する者によって効力を変える。行使するのが夕凪であるなら、選別を行うのもまた、夕凪でなければならなかった。[おびただ]しい量の情報を、最も効率良く遣うためには。そう思ってしまうと、情報局というのは無駄な部署なのかもしれない。
 やがて夕凪は、マグカップを左手だけに持ちかえた。空いた右手で分厚い書類を受け取る。海棠の手から、重みが消えた。
「仰る通り、だわ」
 紙の束を膝の上に乗せ、片手で器用にぱらぱらと紙をめくる。夕凪は瞬きを繰り返し、苦笑しながらカフェオレをまた一口飲んだ。
「大変ね、あなたたちも。毎日こんな膨大なモノと向きあってるの」
「わたしは毎日毎日生の死人と向きあうほうが耐えられない」
「自分だって死人のくせに」
 指摘され、海棠は少しだけ笑った。夕凪もつられたように笑う。
 それから不意に真面目な顔になり、夕凪は文字の羅列を睨みつけた。
 海棠は彼女を眺めながら、カフェオレを口にする。夕凪の手にしたカフェオレの湯気が消えていくことだけを気にしたが、当の彼女は、そんなことは気にも留めていないらしい。一度集中してしまうと、もう他人の手には負えないということは重々承知している。だからこそ、彼女は飛鳥に引きぬかれたともいえるのだから。
 マグカップを抱えたまま、海棠は回転椅子に身体を預けた。背凭れが軋んでも、夕凪は見向きもしない。赤い眼が忙しなく動いて黒い文字を追っている。聡明そうな広い額。ときどき眉根を寄せて、彼女はなにかを考えている。あるいは、なにかの不快に耐えている。
 ふと思いついた風を装って、声をかけた。
「手島伸晃は碌でもない男だった、ということくらいは言っておく」
 夕凪が顔を上げる。書類に向いていたままの鋭い眼が一瞬まともに海棠を射たが、すぐにきょとんとした表情に変わる。海棠は彼女から眼を逸らしてマグカップに口を付けた。
「君がショックで逆戻りしないようにね」
 夕凪が、面食らったような表情のままでこちらを見ている。海棠はそれを視界の隅に見ながら、甘いカフェオレを啜っている。夕凪の膝の上で、文字で埋まった紙の束が乾いた音を立てる。あちこちから、流れるようなキーボードの打鍵音が聞こえる。友人の視線は、なおもこちらを向いている。口の中の甘さが心地良い。
 やがて夕凪の肩から力が抜けたのを、海棠は視界の隅で認めた。
 彼女の視線が海棠を見、書類に落ち、最後にマグカップに戻る。甘いカフェオレを一口、彼女も無言で口にした。それから手近なデスクにそれを置く。
 こちらを見て、夕凪は思い出したように小さく笑った。
「ありがと、恩に着る。……でも、それくらいの現実はあって良いかもしれない。ショック療法には」
 ――ショック療法?
 友人の言葉を、海棠は反芻する。彼女のやろうとしていることに、朧げながら見当がついた。
「そんなに巧くいくかな」
「始末せずに済ませようと思ったら、これくらいしか思いつかないもの。銃殺するより、内面を揺さぶるほうがこっちも彼女もダメージが少なくて済むわ。……なによ海棠、なんて顔してんの」
 笑われて初めて、自分がきょとんとしていることに気がついた。
 別に、と呟くと、そればっかり、と言って友人はまた笑った。それからカフェオレを飲み干し、空のカップを海棠に手渡してくる。反射的に受けとると、夕凪は椅子から立ち上がった。キャスターを軋ませながら元の位置に椅子を戻し、スーツの皺を確認する。両手には、分厚い書類が大事そうに抱えられていた。
 海棠は二つのマグカップを手にしたままで、夕凪を見あげている。なにか言おうかとも思ったが、友人の顔を見て、言葉を継ぐのをやめた。彼女が饒舌になっているところとて、そういえば見るのは久しぶりだった。
「わざわざありがとね」
「大丈夫」
 小さく微笑を返すと、夕凪はにっこりと笑顔を見せて去っていった。決然とした歩きかたも、もういつも通りの彼女に戻っている。
 友人の背中を見送りながら、無理するなという言葉を舌の上で転がした。しかしもう、今の彼女には不要の言葉だろう。頑張れと言ってやったほうがむしろ良かったかもしれない。
 良いか悪いかと問われれば、海棠は良い傾向だと答えるだろう。
 椅子を回して自分のデスクに向き直る。空のカップと、まだ中身が半分残っているカップとをデスクの上に置き、スクリーンセーバーを解除した。次の死者を書類に起こそうとウインドウに眼を走らせた瞬間、隣席から耐えかねたような呟きが聞こえた。
「自分で行きゃ良いのによ」
 視線をずらす。氷室が同じように、パソコンに向かってキーを叩いている。最近彼は妙に勤勉だ。また賢木に絞られたのだろうか。それならこの勤勉はあと三日も続けば良いほうだろうが。
「聞いてたんだ」
 独り言のような呟きに、全く皮肉がなかったといえば嘘になる。
 しかし氷室は仕事中に特有の仏頂面で、ちらりと海棠を見ただけだった。珍しく集中しているらしいが、思ったことを口に出したくはあるようだ。ネクタイが曲がっていることが気になったが、敢えて指摘することもしなかった。彼が着ていると、縁起の悪い喪服もまるで中学校の制服だ。
「夕凪の奴、情報戦をするつもりなんだろ? それならお前が行ったほうが早いじゃん」
 死者と接するのが、夕凪たち管理局員の仕事だ。情報局は全ての情報を引き受け、それを整理して管理局員に流すのが仕事。だが、情報をぶつけることによって死者に揺さぶりを掛けるというならば――それは、情報局員のほうが手慣れているとはいえまいか。事実、そうやって現世に出かけていった情報局員は、過去にも何人か居たはずだ。しばらく局の中で話題になったからよく覚えている。
 海棠はしばし宙を見て、その局員の顔と名前を思いだそうとした。が、巧くいかなかった。
 代わりに、キーボードの上に両手を置く。いつも通りのホームポジション。眼はディスプレイを見ている。キーを叩いてウインドウを呼び出す。
 こちらに視線を寄越した氷室に、海棠は一言だけを返した。
「わたしたちは裏方だもの」


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