眠る繭

二‐二、


  死者が現世に向かうとき、現世のどの場所に降り立つかは自由意思に任せられる。少なくとも「葬儀屋」はそうだった。「葬儀屋」の世話になるような一般の死者も条件は同じだが、不慣れゆえに、ときどき失敗して迷子になってしまう者もいると聞く。夕凪はまだそんな魂に出会ったことはなかったが、いつか雲雀が「行きたかった場所に連れていってあげるだけで還ってくれたから楽でした」と言っていた。
 行く先を自由に選べるはずの夕凪が降り立ったのは、沖田綾の隣ではなく、彼女の眠る部屋のドアの外だった。
 室内ではなくドアの外を選んだのは、部屋へ入る、という行為を欲したせいかもしれなかった。移動に自分の足を使いたくなるというのは、生者とは正反対の欲求なのだろう。生者であった頃のことなど、なにひとつ憶えてはいないのだけれど。
 顔を上げて、表札を眺める。名前が入っていないのは、彼女が住んでいた頃からそうしていたのだろうか。それとも、住人が死んだから抜き取られてしまったのだろうか。――まさか。室内にはまだ家具一色が残っている。綾が生きていた頃からそうだったというのなら、たぶん防犯のためだろう。
 一人納得した瞬間、身体の中を生者が通り抜けた。
 乗り物酔いのような不快感に、思わず顔をしかめる。生者は二人、三人と、笑いながら夕凪の中を通り過ぎていった。右手で頭を押さえながら振り向くと、若い男女が数名で去っていくところだった。住人だろうか、と思ったが、彼らが提げているぴかぴかのカメラを見て考えを改めた。
 彼らから顔を逸らし、少し頭を下げながら眼の前のドアをすり抜ける。
「写ったかな? ――」
 甲高い声と無邪気な笑いを、夕凪は背中で聞いていた。
 無言で玄関を踏み、パンプスを履いたままの足で室内に上がりこむ。小さなキッチンを通り過ぎて内扉をすり抜けると、闇夜に消え入りそうな死者の姿が見えた。
 綺麗にメイキングされたベッドの隅で、沖田綾が変わらず膝を抱えている。
 奇妙なことに、その光景を見てほっとした。
 彼女を眺める。以前に見たときよりも、部屋の中が片づいているように見えた。というより明らかに物が減っている。家族が遺品の整理をしたのだろう。それが余計に主の不在を物語っていた。家族としては、きっとまだ、この部屋を「そのまま」にしておいているつもりなのだろう。けれど辺りの空気は、既にどことなくよそよそしい。住人も家具も完全に入れ替わってしまうまで、この部屋が生気を取り戻すことはないのだろう。
 きちんと閉められたカーテンが、闇夜を余計に暗くしていた。
 夕凪は唇を結び、決然と一歩を踏み出した。本棚とローテーブルの脇を通りすぎ、ゆっくりとベッドに近づく。そしていつかと同じように、ベッドの傍にしゃがみこんだ。綾が目を覚ましてさえくれればちょうど眼が合うはずの位置だが、残念ながら彼女は同族の存在になど気づいてもいないらしい。――死者の存在にも気づかなければ、生者の存在にも気づかない。
 脳裏によぎったのは、カメラを持った生者の笑みだった。彼らにとって、沖田綾のマンションはひとつの心霊スポットでしかないらしい。もしかしたら手島伸晃も、その程度の認識しか持っていないのかもしれない。
 生者と死者は関われないのだ、という事実を、溜息交じりに思う。
 生と死の境界を保つことが、自分たちの仕事である。とはいえ、生者にとっての死者の軽さを思うとどうしても憂鬱な気分になった。人は死ねば無に帰すと思うのだろう。死んだ人間は自分とは無関係だと思うのだろう。だから、死など存在しないかのように笑う。けれどどこかで、彼らは死者の存在を恐れてもいる。理解できないがゆえに、触れられないがゆえに、死者は一層遠くなる。その遠さを、恐ろしいと感じる生者。けれどその恐怖を無視することもできず、結局それは小さな[おり]となって生者の中に凝る。澱の扱いかたは様々だ。無視しようとする者、拠り所とする者――そして、面白半分の玩具として扱う者。
 死者を玩具と同一視している生者は、確実に一定数存在していた。そんな生者がたぶん、カメラ片手に心霊スポットに集まるのだ。もっとも、いま死者の側に居る夕凪とて、生前そちら側に居なかったという保証はないのだけれど。
 手島伸晃は。
 あの青年は、沖田綾という澱をどう扱っているのだろう。
「あなたも苦労してるのね」
 彫像のような死者に向かって、まるで独り言のように呟いた。
 ものも言わずなにも見ない。全てを拒絶した死者は、死者たる夕凪にとっても死者のような存在だった。
 自分が膝を抱えるのはどんなときだろう、と考える。少なくとも前向きな気分のときではなかった。彼女が死を選んだのは自ら進んでのことだったが、それは決して、死に救いを求めたためではないだろう。愛したはずの人間が自分に殺意を向けたという事実に、耐えきれなかったから――。
 ――眠り姫なんて言ってごめんね。
 眠りを覚ます王子は現れない。そもそも彼女を眠りに墜とした張本人こそが、彼女にとって王子たるべき人間だった。
 ――でも、私たちだって苦労してるんだからね。そこんとこ、解ってよ。
 口には出さずに呟きながら、不意に、自分は一体なにをしているのかと自嘲的な気分にとらわれた。
 私はなにをしに来たんだろう?
 同調しすぎているのかと自戒しておいて、余計に同調するような真似をしている。たぶんこういう状態を「途方に暮れる」というのだろうと思った。
 沖田綾はひたすら眠っている。夜よりも暗い眠りの中に居る。
 ――知ってる?
 その眠りの中に、手島伸晃は居るのだろうか。居るとして、どんな顔をしているのだろうか。
 ――あなたの愛した人はとんでもない嘘吐きだったのよ。
 自分は彼女に同情しているのだろうか。けれど心の片隅では、まだ彼女を非難してもいる。なぜ逃げるのかと。
 ――なにもかも否定して、いったいどうするつもり?
 どっちつかずでいるからこそ、夕凪は、口も開かずに沖田綾の前に居るのかもしれない。その整理をしたくてこの場に来たのであろうに、堂々巡りをしているだけだ。
「あなた、どうすれば満足なの」
 口から漏れた言葉は、詰問ではなくただの独り言だった。
 隣に飛鳥は居ない。自ら望んで作ったはずの状況を、夕凪は不意に心細く感じた。

「抜け駆けしたわね」
 執務室に戻ると同時にそんな台詞に迎えられ、ドアノブを握りしめたままで思わず身構えた。声の主たる相棒は、定位置のデスクについてのんびりと書類をめくっている。視線をこちらに向けることもしなかった。
「抜け駆け、って」
「あら、沖田綾ちゃんのご機嫌伺いなら私も連れてってほしかっただけよ」
 思い出したようにこちらに向けた微笑の自然さに、夕凪は反射的に目を閉じた。――負けた。
「……なんで解ったんですか」
「帰ってくるのがいやに遅いなと思っただけ。ナギが彼女のこと気にしてるのは見たら解るからね、鎌かけてみたら案の定だったわ」
 夕凪は扉を閉めながら、肩を竦めた。現世から戻ってくるときに、わざわざ執務室ではなく廊下を選んだというのに――わざわざ扉を開けて帰ってきたというのに、そんな小細工など、飛鳥には通じないらしい。弄した策の拙さを思うと、急になにもかもが馬鹿馬鹿しく思えてきた。
「すみません」
 素直に謝ると、飛鳥は怒るどころか面白がっているようにくすくすと笑いだした。まあ座りなさいよと、笑った目顔が言っている。その表情には応えずに、夕凪はそのまま部屋の真ん中に立っていた。
「それで、どうだったの彼女?」
「相変わらずですよ」
 綾の現状を、夕凪はその一言だけで報告した。相も変わらず、現実世界から逃避しつづける眠り姫。それから思い出したように、カメラを携えた生者たちのことを付け加えた。生者の世界では、どうやら心霊写真とやらが再流行の兆しを見せているらしいと、どこか自嘲的な考察を挟みながら。
「どこかで聞いた展開ね」
 斜め上に向いていた視線を元通りに夕凪に戻して、飛鳥は寂しげな苦笑でそう言った。一度しか足を運んでいないはずの綾の居室を、その眼に思い浮かべてでもいるのだろうか。
「つまり全然進展なし、です」
 苦笑を返しながら、夕凪はようやく飛鳥の隣のデスクについた。たかが数時間離れていただけだというのに、なぜだかひどく懐かしく感じる。しかしささやかな感慨に浸る間もなく、視界に飛びこんできたのは書類の小山だった。夕凪の領域であるはずのデスクの上も、隣のデスクから書類の侵食を受けている。それもある意味懐かしい、日常の象徴ではあったけれど。
 しょうがないなあ、と心中で苦笑しながらも、手を伸ばしてそれを片づける気力は起きなかった。そこでようやく、疲れを自覚する。
 同じ魂に関わってばかりしていると碌なことがない、と思ったが、よく考えてみれば、飛鳥と仕事をしている以上、同じ魂に長期間向き合うなどということは日常的に行っているはずなのだ。同じ仕事をしつづけることには慣れている。それならこの疲れはどこからくるものなのだろう。飛鳥を離れて単独行動をしてしまったせいだろうか。――班長の相棒ともあろう者が、情けない。
 ――私、なにしたいんだろうな。
 やっぱり同調しすぎている、と反省した。眠りつづけている綾の静まり返った淀みに、夕凪も侵されはじめているのかもしれない。だとしたら決して良い兆候ではない。「葬儀屋」になって間もない頃は、よくこれで酷い目に遭ったのだ。それなりにキャリアを重ねてきたつもりだったが、それも自分の思いこみにすぎなかったのだろうか。班長となった飛鳥が、せっかく自分を引きぬいてくれもしたのに。
 散らかった書類をぼんやりと眺めていると、不意に、視界に飛鳥の手が割りこんできた。
「――例えばね、この人は糸竹向きよ」
 唐突な言葉とは裏腹に、ごく当たり前のような口調で一枚の書類を示す。つられて視線を動かすと同時、飛鳥が書類をこちらに滑らせてきた。夕凪の眼の前で止まったそれに貼られているのは、白髪の老女の写真。胸から上だけの写真だったが、しぼんでしまったように小柄であることは容易に想像がついた。誰にも知られずひっそりと死を迎えてしまった寂しさが、まだ彼女を現世に繋ぎとめている。そんなことが素っ気ない明朝体で綴ってある。
 糸竹と彼女が向かい合っている場面を想像する。なぜか老人ホームの慰問を連想した。
「あの子は、心の底に溜まった愚痴とか澱とか、そういうものを受け止めることには恐ろしく長けてるからね。まだ若いのに先行き心配なくらい」
 糸竹にも飛鳥にも夕凪にも「先行き」がないことなど微塵も感じさせない口調で、飛鳥は冗談めかしながら言った。
「だから私は、この人は糸竹と雲雀に任せようと思ってる」
 ふくよかな手が書類を摘み、左から二番目の書類の束に据えた。何気ない動作だったが、迷いのない動きでもあった。どうやらそこが、糸竹と雲雀に回す死者の束らしい。散らかしているように見えるが、彼女の中にはそれなりのルールが存在する。
「ね、これが私とナギの仕事でしょ?」
 飛鳥の言葉ばかりが流れこんでくる。夕凪のペースなど完全に無視した強引さだったが、少なくとも今の夕凪に、自分のペースなどは存在していない。相棒が自分のペースに引きずりこんでくれることが、逆に有り難かった。
「海棠だって同じことしたのかもしれないじゃない」
 突然友人の名を聞いて、夕凪はようやく顔を上げた。悪戯っぽい笑みが、心の底まで見透かしているような眼の紅さを和らげている。
「ずるずるじめじめと心配してやるより、すかっと真っ直ぐに相対するのがナギらしさだったはずよ。少なくとも私は、ナギをそういうキャラだと思って仕事振ってたし、だから相棒にしたいなって思った」
 ――すかっと、真っ直ぐ。
 褒め言葉なのだろうか、それとも諌めているのだろうか。どちらでもあったような気がする。
 夕凪は飛鳥の眼を見つめていた。途中で眼が痛くなって、ぎゅっと目を閉じ、それからまた開けた。飛鳥の相棒にと指名されたときのことを思いだす。あのときも、こうして彼女を見つめていたような気がする。ただあのときは、もっと呆然としていて、もっと間の抜けた顔をしていたはずだ。けれど、時間が逆戻りしていくかのような感覚は、そう不愉快ではない。
 にっこりと、飛鳥はあの日と同じ笑みを見せた。
「案外、海棠だってそのつもりでナギに仕事を回したのかもよ」
 ――急速に、時間が今に戻ってくる。
「彼女がそこまで感情的にモノを考えるとは思えませんけど」
 口にした言葉の掠れが気になった。飛鳥に気づかれているだろうか? 気づいているのかいないのかも解らないような飄々とした顔をして、けれど相棒は、眼だけは優しく夕凪を見据えていた。
「そう思っといたほうが得ってものでしょ。……ねえ夕凪」
 死者が現世に未練を失くす瞬間というのはこういう感じなのではないか。夕凪はふと、そんなことを考えた。
「粘ることと引きずることって違うのよ」


  top