「――終わりましたね」 夕凪は、独り言のようにそっと囁いた。見上げる空は青すぎた。 隣に並んで座った男は、疲労に肩を落としている。顔は見えなかったが、背中に見える表情の硬さは随分和らいだように見えた。ジーンズの膝に置かれた両手にも、こわばりはない。たぶんもう、大丈夫だろう。 「溜めこんで無理するのも、そんなに良いもんじゃなかったでしょ」 斜め前に立った飛鳥が朗らかに言う。その声に、死者はようやく顔を上げた。精悍な顔に、疲れが貼りついている。ただし満ち足りた疲れだった。出会った瞬間のような、抜け殻じみた疲れの表情とは違う。――恐怖からでも、後悔からでも、死への抵抗からでもない。 大抵はそうだ、と、夕凪は思った。生きることに未練を持っているときのほうが、人はよほど死人のような顔をする。現世に留まる理由を失くした魂は、一様に穏やかな顔をする。満ち足りた生者のように。それは生死の皮肉なのだろうか。 薄い唇に、彼はふと笑みを浮かべた。苦笑のような微笑だった。 「……そう、ですね」 掠れた声で呟いて、彼は眩しそうに空を見上げた。そして、眼前に広がる校庭を見た。見慣れたはずの景色は、彼の眼にどう映っているのだろう。 「済んだことは済んだこと、よ。同じことなら次に期待したほうが得だわ」 飛鳥が穏やかに付け加える。 「……次、か」 死者は、腰かけた石段をいとおしそうに撫でた。そうやって彼は、少しずつこの世のものに別れを告げていくのだろう。それほどまでに愛されていた子供たちが、羨ましくもあった。例え教師としての技量は未熟だったとしても、子供たちに接する気持ちや責任感は一人前以上に持っていたのだろう。 「俺みたいなのにでも、次があると良いですけど」 淡く笑って、彼は誰にともなく言った。 大丈夫、「次」は誰にでも、平等に訪れる――。そんな言葉を、夕凪は静かに飲みこんだ。現世に留まる理由を失くした魂に、多くを語る必要はない。彼はただ、解放されただけなのだ。卒業式を待たないまま、子供たちを残して逝く罪悪感から。クラスの一人一人に別れを告げてまわったのは、彼が現世を離れるために必要な儀式だったのかもしれない。 普段と変わりない生活を送る子供も居た。慕っていた担任教師の死から立ち直れない子供も居た。「先生」の居ない違和感を持てあましている子供も居た。そんな子供たちの元を、夕凪は、死者とともに訪れた。生者は死者の存在には気づかないということなど承知した上で、彼は、生きる教え子に語りかけていた。初めは永久に続くかと思われた言葉は、子供たちへの訪問を重ねるごとに、次第に短くなっていった。それに比例して表情は穏やかになり、やがて最後に、満ち足りた疲れと哀しげな微笑が残った。 「こんなこと言うと笑われるかもしれないですけどね」 出会ったときよりも少し明るい顔をして、彼は飛鳥を見上げた。そして夕凪を見た。子供たちを見るときと同じ、穏やかな眼だった。 「願わくば、あの子たちの子供にでもなってまた生まれてきたいなって、そんなことを思ったんですよ。そんな資格があるのなら……」 次いで口にしようとした言葉は、声にならなかった。――微笑が空を透かし、そして彼は、なんの前触れもなく、散った。 夕凪はそのまま、彼の居た空間を見つめていた。彼が居なくても、空は相変わらず青かった。 背後の校舎から、授業の声が漏れ聞こえてくる。グラウンドでは、子供たちがドッジボールに歓声を上げていた。 「お疲れさま」 飛鳥の声が降ってくる。顔を上げると、彼女は一瞬きょとんして、それから意外そうにくすりと笑った。 「なぁに、神妙な顔して。感傷に浸るほど若くないはずでしょう」 無論キャリアのことだ。とはいえ、若くないと言われるのは面白くない。なんですかひどいじゃないですか、と苦笑交じりに抗議しながら、夕凪はわざと手を振り上げた。動作と台詞とに必要以上の勢いをつけたのは、図星をさされたせいだったのかもしれない。若くないかどうかはとにかく、感傷に浸ってしまっていたのは事実だった。――それはそうだろう。一週間近くもつきあってきた魂なのだから。多少は情が移っても不思議はない。 ただ、それだけのこと。 ――それだけだろうか? それだけではない。 思えば、あれから――沖田綾の元に行ってから、初めてまともに自分で捌いた魂だ。その事実が多少の感慨を呼んでいるのかもしれなかった。情が移りかけていたのは、あの教師と長くつきあったせいではない。ただ少し、夕凪が不安定になっているだけなのだろう。そうでなければ、仕事をするたびに感慨深い思いにとらわれてしまうことになる。長くつきあった魂にいちいち感情移入していたら、「粘りの飛鳥」の相棒など務まったものではない。 ――不安定になっているのも問題だけど。 夕凪の小さな溜息を知ってか知らずか、飛鳥は穏やかな口調で次の指示を出した。 「じゃ、とりあえず帰るかな。ナギ、そしたらこの前作った資料届けて回ってくれる?」 「あの統計ですか」 「それそれ。で、そのついでに 「了解です」 応えながら、夕凪は立ちあがった。そのまま帰ろうとして、ふと校門を眺めやる。――ぐるりと木々に囲まれた校庭の横に、まっすぐに道がのびている。道の先には校門があって、その向こう側には、道路を隔てて大きな公園があった。滑り台やブランコの代わりに、噴水と散歩道があるような類の公園だ。 公園の前に一人、若い女性が立っている。誰かを待っているらしい。恋人だろうか。道路の傍に居るということは車で来るのかもしれない。薄いコートの隙間から覗いた華やかなピンク色のブラウスは、確かにいかにもデート向きだ――。 「まあ雲雀も糸竹も、ちょっとは暗い仕事知っとかないと後が辛いだろうからね」 飛鳥が呟く。相棒に視線を戻そうとしたとき、赤い車が公園の前に停まった。運転席には若い男。横顔に傲慢な種類の笑みを浮かべているのが、一瞬だけ見えた。 ――あれ? 「ナギ?」 呼びかけられて慌てて振り向くと、彼女も同じように赤い車を見ていた。 「あれがどうかした?」 「いえ……」 見覚えがあるようなないような――生者の顔を見知っているなど珍しい。どこかで捌いた死者の関係者だろうか。 上気した声が微かに聞こえる。――悪い、遅れた。――ううん、伸晃くんこそ忙しかったでしょ。――まあな。とりあえず乗れよ。絵に描いたような平和なやりとりと、ドアの開く音。閉まる音。それから最後に、自分の呟きを聞いた。 「……ノブアキ?」 若い恋人を乗せた車は、死者の存在などまるで無視して走り去っていく。ああ、もっと顔がよく見えれば思い出せるかもしれないのに、ここからじゃ遠すぎて見えやしない――。 「ナギ、ナギ、どうしたのよ」 飛鳥の声で我に返った。 気づけば石段を登りきってしまっていて、校門へ続く道を歩きだしていた。 自分の足元に視線を落とし、瞬きをする。先程よりも確かに近くなっている公園を見やり、ブラウスの女性も赤い車もないことを確認してから、後ろを振り返った。飛鳥が呆れたような顔をしてこちらを見ている。 「なにかあった?」 ――あの男に覚えがある。 「いえ……なにも」 心にもないことを上の空で呟き、踵を返して飛鳥の隣に戻る。傲慢な笑みを浮かべた凛々しい横顔が、小骨のように引っかかっていた。 とんとん、と肩を叩くと、リクルートスーツの似合いそうな顔が振り向いた。眼を見開いただけの驚き顔で、あ、となぜか嬉しそうに言う。糸竹のこの顔を見るにつけ、柴犬のようだと思う。 「ナギさん」 「お届け物よ」 隣で雲雀も顔を上げた。飛鳥よりまだ少し年上だろうが、彼女も夕凪の部下の一人だった。当の雲雀は、そんなことなどどこ吹く風といった調子で夕凪を上司と仰いでいるけれど。 「届け物ですか」 「この前言ってたエリア別統計ね、できたから配り歩いてるってわけです」 夕凪はそう言って、書類の束を一部引き抜いた。雲雀が得心したような表情で書類を受けとる。糸竹に渡すよりは彼女に渡したほうが確実だろう。レンズ越しの涼やかな眼が書類の上を走り、また笑顔を浮かべて夕凪を見上げた。 「ありがとうございます、わざわざ」 「いえいえ。調子はどう?」 「どう、じゃないですよ」 糸竹が、大袈裟なほどに顔を歪めて口を挟んできた。 「あとちょっとで始末しちゃうトコでしたよ……僕らああいうの苦手って知ってるのに酷いじゃないですか」 「こら、仕事の選り好みできる身分じゃないでしょうが」 雲雀が面白がっているような口調で諌めると、糸竹は冗談とも本気ともつかない真顔で言い返した。 「そりゃそうだけど、ナギさん見たら文句の一言も言いたくなる」 思わず苦笑した。実際に二人にあの仕事を回したのは飛鳥なのだが、さすがの糸竹も飛鳥相手にその文句は言えないのだろう。 「これも修行の一環よ」 背筋を伸ばし、飛鳥の口調を真似て言うと、糸竹と雲雀は顔を見合わせた。そして同じタイミングで肩を竦めた。参ったな、とばかりに。 一緒になって笑いながら、彼らに回した仕事を思いだす。あれは――始末すべきかどうか微妙な魂だった。錯乱から醒めれば始末せずに済むが、醒ますことができなければ始末するしか手の打ちようがない、そんな境界線上の魂。 始末に慣れたペアも居るには居る。そちらに回しても良かったのだが、あの魂を敢えて糸竹と雲雀に回したのは飛鳥だった。もし始末をせずに済むのなら、それに越したことはない。万一始末という結果に終わったとしても、それはそれであの二人には良い経験となるだろう――そんな判断からだった。 「世の中、愚痴聞きで済む魂ばっかりじゃないってことよ」 「解ってますって」 苦笑いを見せながら、彼は雲雀から書類を受け取った。今時こんな素直な青年も珍しい。珍しいといえば、彼は愚痴聞きが特技だと公言して ――「葬儀屋」向きの才能だわ。 いつか飛鳥が評していたことを思い出す。ことに、自分の未練を自覚していなかったり、未練の解きほぐしかたが自分でも解っていないような魂に対しては、糸竹の「才能」は絶大な効果を上げていた。爽やか好青年という見た目も大いに作用していることだろう。 ただしそのぶん、強硬手段がとれないというのが短所と言えば短所だった。優しすぎる、のかもしれない。そしてそれは、雲雀も似たり寄ったりだった。似た者同士なのだ。 だから、微妙な魂を回しもした。 ――海棠と糸竹と雲雀を足して、三で割れば良いのに。 そこは飛鳥と見事に意見が一致した。海棠的な部分は、半分どころか三分の一もあれば充分だ。 二人の部下に、夕凪は問いかける。 「で、どうしたの? まだ報告貰ってないけど、結局始末したの」 「まさか。張りたおしましたよ」 「は?」 「雲雀がね」 思わず雲雀を振り返る。耳から入った言葉の意味を理解しかねていると、彼女が悪戯っぽい微笑を向けてきた。それから不意に真顔になり、右掌で素早く空を払う。――平手打ち? 「まあ、目を覚まさせるには実力行使に限ります」 呆気にとられる夕凪に対して、雲雀は鷹揚な笑みを浮かべていた。 「実力行使って……」 「銃を使わなくても実力行使はできますよ」 ――始末せずに済んで良かった。 反射的にそんなことを思った。もし始末していたら、二人の後悔も大きかっただろう。あれは境界線上の魂だった。そういう意味では危ない賭けだったのだから。 改めて、夕凪は二人を見た。キャリアウーマンの見本のような女性と、就職活動生の見本のような青年を。――こんな二人に銃は似合わない。そんな思いを、静かに振り払う。例え似合わなくとも、始末を要する仕事は一定の割合で必ず存在する。それを、彼らにのみ振らないということはできないのだ。更に言うなら、銃の必要な仕事が似合う者などそう居はしない。それでも、仕事の割り振りはしなければならない。班長やその相棒が共通して持つ苦悩のひとつだった。 「こんな美人が真顔で殴りかかってきたら、そりゃ錯乱してる場合じゃないですよね」 糸竹が苦笑交じりに同意を求めてくる。肩を竦めて同意を返そうとしたとき、 ――死者より殴りたくなる生者も居る。 不意に言葉が湧いてくる。 狼狽より先に、いやに平静な感慨がよぎった。そうか、私はそんなにあのことを気にしているのか。 ――伸晃くん。 それは、赤い車の横顔の主。 執務室で統計をまとめていたその最中に、不意に思い出してしまったのだった。あのとき思わず手を止めてしまい、二度までも飛鳥に怪訝な眼で見られてしまった。 ――手島伸晃、だ。 記憶に蘇ったフルネームは、沖田綾を死に追いやった当人のものだった。 憶えている。書類に書かれた名だ。そしてあの傲慢で凛々しい顔は、沖田綾の案件を請けたその場で、海棠が見せてくれた写真だった。綾を殺そうとした「恋人」の顔――。 管理局及び情報局に所属する班は、それぞれに担当エリアを持っている。だから、ある死者の関係者と別の機会に鉢合わせするなどという事態は、稀ではあっても驚くほどのことではない。ましてや夕凪は部下を束ねる身だ。他の局員よりも接する死者の数が多い以上、その確率は増す。沖田綾の関係者に再び出会ったとしても、なんら不思議はないのだ。 ないのだけれど。 ――でも、こんなの、あんまりだ。 伸晃がなぜ捕まっていないのかは判らない。そもそも、彼が法的にどれほどの罪を犯しているのかも判らない。厳密に言うならば、沖田綾の死は他殺ではなく自殺だ。伸晃が綾を殴ったことは事実でも、それは致命傷にはなっていなかった。あくまで彼女は、蘇生したのち自ら死を選んだのだ。 けれどそれは、書類上の話である。 ――そんなことは関係ない。 仮にも恋人として付き合っていた女を撲殺しようとしておいて、しかもその彼女が自殺したのを知らないはずはないのに、なぜ他の女と 一瞬眼にしただけの事実にいやにこだわっているのは、夕凪が「女」だからなのかもしれなかった。 ――その程度の存在だったってことか。 膝を抱えた綾の姿を思う。確かにこんな現実なら、膝を抱えて逃避してしまいたくもなる。綾がその事実を把握していたのかどうかは判らないが、少なくとも、なにかの予感はあったのではないだろうかと思う。だからこそ、彼女は逃避を選んだのではないか。第一、信じていたはずの恋人に殴られた時点で、彼女の依って立つものは大部分が崩壊してしまっていてもおかしくはないのだ。 感情すら閉ざして現世に留まる眠り姫。 ――救われないじゃないか、どうやったって。 「ナギさん?」 糸竹の声で我に返った。 澄んだ紅い眼が見つめてくる。 どきりとした。 「どうしたんです?」 「ううん、なんでもない」 慌てて笑顔を取り繕った。死者への感情移入は禁物だと、改めて自分に釘を刺す。そんなことをしても碌なことがないのだから。 「やっぱり平手打ちはまずかったですか」 ややずれた心配を本気でする糸竹に、夕凪は、まさか、と苦笑を向けた。 「銃ぶっ放すよりよっぽど平和的解決よ」 「ほら、夕凪さんはちゃんと解ってる」 雲雀は澄まし顔で紅茶のカップに口をつけた。この華奢な身体のどこに死者を張りたおすほどのバイタリティがあるというのかと思う。だが、雲雀ならやりかねない、という思いがよぎったのもまた確かだった。凛とした横顔を眺めている間に、彼女はカップを置き、細身の万年筆を手に取った。 「終わり良ければすべて良し、ってね」 歌うように呟きながら、グラフを引き寄せて隅に印をつける。その彼女の手元を、糸竹がじっと覗きこんでいる。勤勉な二人組だった。 ――良い終わりになんてなるのかしら。 意志とは無関係に言葉が湧いて出る。いけない。ひとつの仕事にこだわっても良いことはなにひとつないのだ。毎日のように人は死ぬし、死にきれない魂も毎日現れる。ひとつの仕事にかまけていられないのは、生者も死者も同じだった。 二言三言言葉を継ぐと、そのまま足早に彼らのデスクを去った。書類を配らなければならない組がまだ残っているのは事実だったが、最後に二人になにを言ったのかはよく憶えていなかった。とにかく早く離れたかったのかもしれない、と思う。あれ以上糸竹の傍に留まれば、また余計なことを口にしてしまいかねなかったのだから。 ――私は。 ――誰かになにかを言ってほしいのだろうか? 誰に、なにを。 そもそも夕凪はなにひとつ傷ついてはいないはずだった。傷ついているとすれば沖田綾である。 ――同調しすぎているのかもしれない。 だとすれば面倒な話だ。死者は、現世に留まりたがっている。対して夕凪たち「葬儀屋」は、彼らを現世から引き剥がすことこそが目的だ。そもそもが相反する存在である。死者の感情を解きほぐすという意味では適度な同調は必須だったが、それでも、度を過ぎればこちらの仕事がやりにくくなることは眼に見えている。 海棠も、面倒な仕事を回してくれたものだ。 愚痴を零すなら彼女にするのが道理なのだろうが、彼女ほど愚痴の零し甲斐がない人間も珍しい。聞いてはいるのだろうが、冷静すぎるのが問題だ。そういう意味では、愚痴を聞く側の礼儀とは、愚痴を言う側にある程度同調してしまうことなのかもしれない。それなら糸竹の特技は「愚痴聞き」よりも「同調」なのだろうか。それは「葬儀屋」に向いているというのだろうか、それとも不向きというべきなのだろうか。 ――私は沖田綾に同調しているのだろうか。 再び自問する。 同調しているのであれば、もう少し彼女の気持ちが解っても良さそうなものだ。ならばこれは同調とは言うまい。ただの同情だ。感情に流されてはいけないのに。所詮、仕事なのに。 ――彼女はなにを考えているのだろう。 それを知らねば仕事になるまい。こちらはきちんと仕事をしているつもりだが、ほんとうにそうなのだろうか? ただの同情で終わっているのならば、相棒たる班長に申し訳が立たない。 部下に書類を配り歩きながら、夕凪は執務室に残る仕事の量を考えていた。情報局への報告が少しと、死者数の整理。大したこともない事務作業だ。 ――会いにいこう。 その思いつきは、決定事項のように降ってきた。 |