眠る繭

〈情報局-2〉


 捌いた魂のことなど、そう長いこと記憶してはいない。それは、その魂がどれほど特殊なものであっても同じことだ。そうでなければ頭が持たない。短い一日の間でも、数えきれないほどの情報と対峙しているのだ。自分で書類を起こした魂だけでなく、他の局員と議論をしたり、相談をされたりという魂まで含めてしまうと、それこそ情報で溢れかえっている職場である。デスク上のパソコンは底無し沼のごとき容量を誇っているようだが、海棠個人が持つメモリなど微々たるものだ。少しずつ忘れていかないと溺れてしまう。
 だから夕凪が口にしたその名前も、初めは誰のことだか全く判らなかった。
「沖田綾?」
 問い返しながら見上げると、友人は呆れたような顔で見下ろしてきた。
 なにも言わずに椅子だけを回して、そのまま見上げてみる。夕凪はしばし考えるような表情をしてから、一言だけ言った。
「眠り姫よ」
 ――眠り姫。
「眠り続けてるっていう、酔狂なあの子。ほら、ふわふわした髪で、どっかのお嬢様みたいな」
「ああ」
 夕凪の言葉をまとめて咀嚼し、ようやく思い至った。――憶えている。海棠自ら夕凪に手渡した仕事だ。突きつけられた全ての現実を拒絶し、眠りの中に逃避した若い娘。小さなウインドウの中に表示された、頼りなげな写真が思い浮かんだ。沖田綾。そういえば、そんな名前だった。
 ようやく納得した頃には、友人は呆れた顔をして両手を腰にあてていた。海棠にとっては、早く思い出せたほうなのだけれど。
「……呆れた、本当に忘れてたの?」
「特徴は憶えてるけど名前は忘れていた」
「わざわざ私に手渡ししといて?」
「君たちとは接してるヒトの数が違う」
 ヒトといっても、人だとは思っていない。そんな言葉は、敢えて口にすることもないだろう。海棠にとっては情報の集合体にすぎない死者も、夕凪にとっては、一人一人意思を持った個人なのだから。この扱いの差は、部署の違いというよりも、二人の性格の違いのせいなのだろうと思う。そこまで性格が違っても居心地が良いというのはお互いに妙な話だ。
 やがて夕凪は、諦めたように肩を竦めて笑った。もしかしたら、海棠の考えも見透かされているのかもしれない。
「あなたらしいわ」
「君もね」
 海棠の応えに夕凪は一瞬だけ不思議そうな顔をして、けれどまた微笑した。
「……で、その眠り姫がどうかしたの」
 改めて問いなおす。後ろで氷室が聞き耳を立てているのがなんとなく判ったが、特になにも言わなかった。彼の仕事が捗らなかったとて叱責を受けるのは海棠ではないし、夕凪も、盗み聞きされる程度のことはなんとも思うまい。
 椅子に座りなおすと、背凭れが微かに軋む。
 夕凪は、思い出したように笑みを消した。形の良い眉が少し歪む。愉快な話ではないらしいと察した。
「手渡しされた手前、ちゃんと進捗状況報告しようと思ったんだけど……」
「どうなの」
「まだ手こずりそう」
 表情と同じ、曇った声だった。黙って先を促すと、友人は心得たとばかりに言葉を継いだ。視線がちらりと海棠の背後に向いたのは、彼女も氷室の存在に気づいているのかもしれない。
「部屋入っていきなり体操座りの女の子でしょ。参ったなあれは。感情一つ漏らさないで眠ってるんだから大したもんだわ。しょうがないから引き上げようとしたら、生者が二人来てさ、なに言ったと思う? 『幽霊マンション』だって。飛鳥さんもなんだか辛そうだったな」
 早口にそれだけを言って、自分も溜息をつく。書類を抱えた手に、心なしか力が入った。
 友人から眼を逸らさないまま、海棠は見たこともないはずのワンルームを想像した。そして、眠りつづける繊細な死者と、騒々しい闖入者と、見守ることしかできない二人の「葬儀屋」を。溜息をついている二人の姿までが鮮明に眼に浮かぶ。ここまで徹底的に「葬儀屋」の介入を拒む案件も珍しかった。
 夕凪を見上げる。溜息がいやに深いのが気になった。例によって仕事に埋もれているせいというのもあるのだろうが、「眠り姫」が頭に引っかかっているのに違いなかった。厳密には、「眠り姫」を取り巻く現実が。繊細というなら彼女だって繊細だ。少なくとも、「葬儀屋」向きとは言えないと判断できる程度には。
「……まぁ、また粘りの仕事かな」
 苦笑してみせる夕凪に、海棠も微かに笑みを返す。
「飛鳥の相棒だから。ある意味宿命だ」
「そうかも。……ごめん海棠、邪魔したね」
 大袈裟な苦笑を見せる夕凪に、海棠は小さく首を振った。
 じゃ、とりあえず報告したよ。またなんかあったら言いにくるわ――そう言うと、彼女はヒールを鳴らして足早に去っていった。高い位置でまとめたポニーテールを眺めながら、ぼんやりと思う。――また、無理をするなと言い損ねてしまった。
 椅子を回し、見慣れたデスクに向き直る。呼び止められたときのまま、書きかけの書類が無言で主を待っていた。
 友人の苦笑を思った。時間のかかりそうな仕事だと、彼女は言う。時間はかかるのではなくかけるものだが、その区別を夕凪に求めるのは酷というものだ。そもそも、夕凪の銃の腕をもってすれば、どんな魂であろうと撃って始末してしまえばそれで片付くはずである。錯乱する魂を相手に、相手の肩すれすれを撃って眼を覚まさせたという伝説が残っているほどだ。確かに銃は、殺傷力もさることながら威圧感も音も相当のものである。
 腕は確かなくせに、銃は使わない。夕凪はそういう女だった。使ってくれたほうがこちらとしては効率が良くて助かる、といつも思ってはいるが、友人がどんな顔をするかは眼に見えている。
 しばし画面を見つめ、頭の整理をしなおした。それからつと情報局員に戻り、無表情でキーを叩く。眼が二つのウインドウを行き来する。一つは死者の、一つは書類の。
 ――海棠の書類には、必要最低限しか記されていない。それが、周囲からの共通した評価だった。褒め言葉だと思っている。無駄を省くのがモットーだったし、管理局員にしても、出勤前にだらだらと長い書類を読まねばならないのは嫌だろう。彼らが本当に当てにするのは、薄っぺらい書類の情報ではなく、実際に会って確かめた死者の声や仕草だとも聞く。あくまで、書類は事前情報にすぎないのだ。そう思うと、情報局というのは裏方仕事にもほどがある部署だ。
 ふと、沖田綾のことを思った。
 ――彼女については、もう少し情報が要るだろうか。
 済んだ仕事のことを改めて考えるのは珍しい。そんな自分を少しだけ意外に思いながら、指先では淡々と別の仕事をこなす。夕凪のせいだろうか。それとも、沖田綾の顔と名前が再び結びついてしまったせいだろうか。
 ――情報を人として見だすと碌なことがないけれど。
 夕凪に手渡したのは、普通の仕事であれば、充分に事足りるはずの簡潔な書類。けれどあの「眠り姫」にアピールするには、確かにもう少し情報が必要かもしれなかった。沖田綾は眠っている。相手から声も仕草も引き出せない以上、彼女の窓口は事実上海棠一人だ。それなら、いつもの簡素すぎる書類では心許[こころもと]ないかもしれない。
 ――どうするつもりなんだろう。
 そう思うのは情報局員のお節介なのだろうか。だが、海棠は自分の性格を熟知している。間違っても普段お節介などするはずもない自分の懸念は、妙な実感を伴うだけに余計な心配を帯びた。
「どーするんだろうな、あいつ」
 海棠と同じ呟きを、隣で氷室が呟いた。そこで初めて、自分の手が止まっていたことに気づく。手を動かすが、また止まってしまった。指先が巧く仕事をこなしてくれない。
 諦めて、隣人の呟きに応えた。
「どうするもなにも、仕事なんだからするしかない」
「しようがないから困ってんじゃねえか」
 視界の隅から、氷室がこちらに視線を向けてきた。呆れたようなその目顔は、見なくても声音から判断がつく。
「大丈夫」
「なにがだよ……」
 気の毒に、と大袈裟に天井を振り仰ぐ。小柄な身体が思いきり背凭れに重みをかけたが、椅子は倒れもせずに絶妙なバランスを保っていた。
 夕凪に直接仕事を回したことを、暗に責めているのだろうと思った。夕凪は責任感が強いし、飛鳥とて似たようなものだ。面倒な仕事を、賢木を介さず直接回したとあれば、彼女たちはほとんど使命感に燃えて仕事に取り組むことだろう。もし普通どおりのルートで仕事を流していたら、もしかしたら夕凪はそこまでの責任を感じずに済んだかもしれない。――氷室はちゃんと、そこまで見抜いている。見抜いているから、大袈裟なほど同情を見せたりもする。しかし、それが「自分には無関係」という気持ちの表れでもあることを、海棠は知っていた。
 指先を動かす。今度はちゃんと動いてくれた。
 ――わたし自身は、どうなのだろう。
 管理局の仕事は、無関係なのだろうか。だからこうして、事態を気にかけて観察しているのだろうか。淡々と仕事をしているつもりでいて、脳裏にはちゃんと沖田綾の異様性がこびりついている。
 キーを叩きながら考える。指先だけが仕事をしている。それとも思考だけが独り歩きしているのか。
 海棠は、わざわざ自分の手から書類を渡した。彼女たちの使命感を喚起することが狙いではなかった、と言えば、確かに嘘になるだろう。ただ単純に、二人が沖田綾をどう捌くかに興味があった。そう言ったほうが、恐らく真実に近い。けれどそれだけでもなかった。
 そうすればきっと巧くいくだろう、と。自分には珍しい直感で、そう思った。
 放っておいても、たぶんあの仕事は班長のペアに行っただろう。けれど直接回せば、きっと仕事の経過を聞く機会が増えるだろうと踏んだ。無意識のうちに。
 だから賢木に言った。
 ――この案件だけ直接回します。
 海棠の心中を、賢木が悟っていたのかどうかは判らない。けれど、大した理由もない思いつきをあっさりと許可してしまったのだから、あの班長も大したものである。
 精悍な浅黒い顔。濃い眉の下からこちらを見ていた、[たくま]しい身体に似合わない眼。
 ――構わないよ。
 少年のような眼をして、もしかしたら賢木も面白がっていたのかもしれない。
 ――誰も彼も、どうしようもない者ばかりだ。
 真面目に仕事をしているふりをして、不真面目に面白がっている。他人事のように。自分で現世に行かないのを良いことに、好き放題に振舞っている。たぶん、そんなどうしようもない部署だ。管理局員が知ったら卒倒するかもしれない。
 海棠は、薄く笑った。海棠自身も、たぶんそうなのだ。
 ――そう、楽しむくらいでないといけない。
 そうしないと溺れてしまうから。
 キーボードの上を躍らせていた手をぴたりと止める。画面の中のポインタを眺め、マウスを握る。沖田綾のファイルを呼び出し、それから、デスクトップの隅で肥やしとなっているアイコンをクリックした。
 細長いテキストボックス。死者ばかりが集まる「葬儀屋」の中で、唯一生者と繋がっているウインドウ。
 沖田綾のファイルを斜め読みして目当ての名前を探し出し、ボックスの中に漢字を四文字叩きこんだ。――手島伸晃。
 生者の情報など、わざわざ検索することは皆無に等しい。興味がないからだ。けれど今回ばかりは別だった。
 文字の羅列が現れる。刻々と更新されていることだけが、死者の情報との差異だった。死者にかかれば、生者にだってプライバシーはない。
 画面をスクロールさせ、綾が死んだ後のデータを探す。しばらく眺めていたが、やがて黙ってウインドウを閉じた。
「いつも以上に陰気な顔してんな」
 キーボードの打鍵音に交じって氷室の声。呼ばれるたびに思うのだが、お喋り好きの彼にとっては、隣席が海棠であることは悲劇に違いないだろう。他の局員は、確かにもっと隣人とコミュニケーションを取っている。
 重い澱を抱えたような気分のまま、それでも答えた。
「同じだと思うけれど」
「なに見てたんだよ」
「夕凪が近々見るもの」
 打鍵音が止む。隣人が胡散臭そうな眼を向けてくる。
「……あんたはいつから予言者になったんだ」
「さあね」
 短く答えて、海棠は死者のウインドウを開いた。


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