眠る繭

一、


  物語は好きだが、「姫」の物語は嫌いだった。シンデレラも、かぐや姫も、白雪姫も。ただ美しいというだけの理由で愛され、最後にはあっさりと幸せを掴んでしまう彼女たちが嫌いだった。
 虐めに耐えるシンデレラや、「幸せ」を拒否して月に帰ってしまったかぐや姫はまだ良い。性質が悪いのは白雪姫だ。彼女は本当になにもしなかった。小人の世話を焼いたとはいっても、それは結果的にそうなっただけの話だ。そもそも白雪姫は、なにも知らずに放逐され、無邪気に毒林檎を齧っただけの少女にすぎない。一人で勝手に昏睡しておいて、目覚めたら王子様が隣に居るのである。王子様との結婚イコール幸福という図式も気に食わないが、それにしても白雪姫のご都合主義ぶりは酷い。森の中で出会った美少女にふらふらと恋をして、そのまま結婚してしまう王子様も王子様だけれど。
 白雪姫の物語が嫌いなのと同様に、眠り姫の物語も嫌いだった。彼女も、針で指を刺しただけの美女である。
 ――海棠から個人的にその仕事を請けたとき、我知らず眉を[ひそ]めたのは、あるいはそのせいだったのかもしれない。
「まるで眠り姫ね」
 書類をめくりながら呟くと、海棠が首を傾げた。
「眠り姫?」
「全てを拒絶して眠る、なんて、そういう甘いところがまさに御伽話」
「辛辣だ」
 唇の端だけで笑いながらそんな言葉を返してきた彼女のほうこそ、沖田綾のような魂は嫌いだろう。そんなことは容易に見当がついた。効率良く仕事をすることに全精力を注いでいるこのワーカホリックは、それくらいの感想を抱いていてもおかしくない。
「時間かかりそうってことよ」
「撃ってしまえば一瞬で済むはずだけれど」
 書類を眺めながら言うと、海棠が平然と応える。夕凪はさすがに、少し顔をしかめた。
「……そう簡単に『始末』なんかしないわ」
「してくれれば、仕事は早く済む」
 半ば予期していた返答。彼女相手にこれ以上を言っても無駄だと判断し、黙って苦笑するに留めた。海棠もそれ以上の興味はないのか、言葉を重ねることもしなかった。お互いに、ごく淡白な関係だ。
 それから海棠は思いだしたように、二三の事務的な事柄を付け足した。書類を情報局に返すときには自分ではなくいつもどおりに賢木のところに持っていってくれ、といった、素っ気ない注意。頷くと、海棠は少しだけ微笑んだ。
「じゃあ、あとは君たちの管轄」
「了解。……でも良いの?」
「なにが」
「これ、直接私たちに回しちゃっても」
 受け取ったばかりの書類に視線を落としながら、夕凪は問うた。
 海棠に捕まったのは、情報局側の班長である賢木から、管理局で請ける仕事を受け取った帰りのことである。いつ会っても久しぶりに顔を合わせる気がする友人は、挨拶もそこそこにいきなり仕事を回してきたのだった。相変わらず愛想の欠片もない態度だったが、それはある意味彼女の良さでもある。
 受け取った書類には、「沖田綾」と書いてあった。夕凪が書類に眼を通すより先に死者の説明をし、有無を言わせず何枚かの写真を見せてきた。沖田綾の顔、彼女を襲った恋人の顔、等々。状況把握よりも先に、御伽噺に対するそれのような不快感が湧いてくる。それがつい数分前のことであった。
 海棠はじっと夕凪を見ている。なにが問題なのだと言わんばかりに。夕凪はまたぱらぱらと紙をめくった。
「あなたがまとめた書類はまず賢木さんに回って、それから私たちに下りてくるものじゃないの」
「班長にはもう言ってある」
 問いなおすと、海棠は小首を傾げて至極当然のように言った。勝手な行動をしているようで、彼女は意外に団体のルールを重んじる。そんなことを頭の隅で考えていると、海棠がちらりと夕凪の手元に視線をやった。
「変わった仕事だから直接渡したかった」
 一拍置いてから、思わずへえと呟いた。
「あなたでもそんなこと思うのね」
「そうみたい」
 彼女が唇の端に浮かべた笑みが、なぜか満足げに見えた。沖田綾を夕凪に直接回して、なにか得るところがあるのだろうか。訊いてみたくもあったが、やめておいた。
「私たちの組でやれってこと?」
「それは任せる。君たちの管轄だから」
 同じ言葉を、海棠は繰り返した。意識的にか無意識にか、表情まで同じだった。思わず口許で笑う。
「了解」
 おどけた笑みで応えると、海棠も挨拶代わりの微笑を浮かべ、それからくるりと椅子を回した。彼女が再びパソコンに向かったのを視界の隅に見ながら、夕凪も踵を返す。デスクとパソコンと局員が同じ数だけひしめく中をすり抜けるようにして、情報局を後にした。それにしても――情報局にはこんなにパソコンがあるというのに、夕凪の所属する管理局には依然、前時代的な書類が山積みになっている。この扱いの差はどうしたものか。確かに、管理局の仕事はアナログのコミュニケーションが全てだが、仕事の情報くらいデジタルで仕入れさせてくれても良いようなものである。経費削減でもしているつもりなのだろうか。死人のくせに。
 廊下を歩く間、書類の束が両腕に妙な重みをかけていた。[くだん]の眠り姫のせいだろう、ということは考えなくても解る。そして、この仕事は自分たちに回ってくるだろうということも。海棠の行動は暗にそれを求めているようだったし、相棒であり上司でもある飛鳥の性格からしてもそうだ。時間のかかる仕事は部下に回さない――それは部下に対する彼女の気遣いでもあり、効率良く仕事を回すための策の一つでもあり、彼女の責任感の表れでもあり、ある意味では意地の象徴でもあった。結果的に面倒な仕事ばかりしている彼女についた渾名[あだな]が、「粘りの飛鳥」。言い得て妙だと思う。けれどそれを班長の[かがみ]と見るか、お人好しと見るか、意地っ張りと見るかは人それぞれだった。夕凪の見解は、「飛鳥は仕事が趣味」である。
 ――それにしても。
 書類に視線を落としながら、夕凪は考える。
 海棠が認識しているかどうかは怪しいが、実際のところ、沖田綾が眠りに就いているというのは大問題だった。
 言葉が届かない、のである。
 現世に留まり続ける魂は、そこから引き剥がす必要がある。それが「葬儀屋」の仕事だった。しかし彼らに対して「葬儀屋」が持っている手段は、言葉による語りかけだけである。死者は、自らの意志で現世を離れることこそが望まれる。「葬儀屋」はそれを促す、いわばカウンセラーだった。「始末」と呼ばれる実力行使がないではなかったが、できればその手は使いたくなかった。「始末」とは、生者の言葉で言えば殺人だ。そんなことなどしたいはずもない。――例え、自分も相手も既に死人だったとしても。
 上の空で歩いていても、執務室の前できちんと足が止まった。足が距離感を覚えているのだろう。数えきれないほど往復してきた二部屋だ。
 書類を片手に抱えなおす。
 三度ノックしてから執務室の扉を開けると、飛鳥が書類に埋もれていた。
「……どうしたんですか」
 半ば呆れながら声をかけると、デスクについていた相棒が顔を上げた。困ったような微苦笑。柔らかそうな癖っ毛が、肩の辺りで少しはねていた。
「あ、お帰り」
「ただいま帰りました」
 思わず応え、次いで苦笑した。扉を閉めると、飛鳥が思い出したように辺りを見回して、またやっちゃったな、と舌を出しているのが見えた。
「ナギが留守の間にみんなやたら仕事済ませたらしくってね」
 参ったな、と苦笑交じりの言い訳を呟きながら、飛鳥は手近な書類をかき集めた。片付けよりも仕事を優先するせいか、無意識に散らかしてしまう癖はいまだに直らないらしかった。そんな癖があるということ自体は、彼女も一応理解している。というより夕凪が理解させたのだ。
 デスクの上に視線をやると、先日班内の組に回した書類が見えた。どれも報告欄はボールペンの走り書きで埋められているから、仕事が済んで返ってきた分だろう。あちこちに散らばっているからむやみに散らかっているように見えるが、よく見れば、書類の量そのものはさほどでもないらしい。せいぜいが三組分だ。――管理局には十の班があり、更にその下に、二人一組のコンビが十ある。飛鳥が率いるのは第五班であり、夕凪は彼女の相棒だった。
「チェックしてるうちに続々と新しいのが追加されて、気づいたらこの状態」
「重ねていくからですよ……。情報局から新しいの貰ってきちゃいましたよ」
「あ、大丈夫大丈夫、……ほら、こっちは終わったわ」
 言いながら手際良く書類を揃えていくと、デスクの上は見違えるように片付いてしまった。物臭なのか几帳面なのか、相変わらず両極端な相棒だった。
 彼女のデスクの上に、飛鳥は書類の束を置いた。それを見届けた飛鳥が、お疲れさま、と労いながら夕凪の椅子を引いてくれる。飛鳥の隣にいそいそと回りこんで遠慮なく腰掛けると、ようやく人心地ついた。大きな窓を背に並んだ二台のデスクが、二人の定位置である。
 小ぢんまりとした部屋だ。実際はそれなりの広さがあるはずだが、壁際に並んだ本棚が、部屋自体を一回り小さく見せてしまっている。書棚を埋めているのは黒いファイルや分厚い本ばかりだからなおのことだ。だが、圧迫感はあるものの、慣れてしまえば案外居心地が良いものだから不思議だった。デスクの上に時折直射日光を落とす大きな窓も、ブラインドを下ろしてしまえばさほど気にならない。部屋の真ん中にあるローテーブルとソファなどはむしろ気に入っていた。単純に、住めば都ということなのかもしれない。
 背中がじんわりと温かい。自分の身体を日除けにしながら、夕凪は手を伸ばして書類を一部摘みあげた。――すべき仕事は解っている。飛鳥と二人で書類に目を通し、班員たちの誰にどの仕事を振るかを決める。頭は使うがある意味ルーティンワークだ。
 それならまずは、規格外の魂の処遇を決めたほうが良いのかもしれない。どこか輪郭の薄い沖田綾の写真を、夕凪は黙ってしばし眺めていた。
「妙な人連れてきたわね」
 ――どきりとした。
 顔を上げると、飛鳥が頬杖をつき、口元に笑みを浮かべてこちらを見ている。
 目を瞬かせる夕凪に、飛鳥はもう一言、そういう顔してるもの、と付け加えて笑った。いつもと同じ、なにもかも見透かしてしまっているような微笑だった。
 しばし思案する。だが、結局なにも言わずに書類を手渡した。百聞は一見に如かず――相棒に似せて口元に浮かべた笑みで、そんな真理を語りながら。
 飛鳥も黙って書類を受け取った。そして慣れた様子で眼を通す。書類を眺める穏やかな眼が、次第に真剣なものに変わっていくのを夕凪は見つめている。冷静な紅い眼。集団を率いる長の眼だ。
 飛鳥は最後にちらりと苦笑を見せて、呟いた。
「……手も足も出ないことやらかしてくれるね」
「なに言っても聞いてくれませんからね」
 大袈裟に肩を竦めて応えた。多分飛鳥も、夕凪と同じことを感じたのだろう。
 改めて、沖田綾の写真を見る。色の白い、華奢な娘だった。緩くウエーブした髪がよく似合う。飛鳥の癖毛に似ているが、それよりもっと柔らかそうだった。
 ――恋人だと思っていた男に二股を掛けられた上、殺されかけて絶望した。全てを拒絶して眠り続けている魂。
 確かに、そんな負荷には耐えられそうにない心の持ち主に見えた。繊細な箱入り娘といったところだろうか。人を見た目で判断してはいけないということは重々承知しているつもりだが、それでも性格はある程度容貌に反映する。心の奥底の核心を[]くような仕事をしていると、殊更に実感することだった。
「ナギ」
 呼ばれて我に返る。今日はぼんやりしてばかりだ。顔を上げると、飛鳥の真顔があった。慌てて表情を引き締める。相棒は一瞬だけおどけたような苦笑を見せたが、すぐにまた班長の表情に戻った。
「……この子、ひとまず措いとこう。他の書類仕分けてから見にいってみるのが良いと思う」
「私たちでですか」
 解りきった確認をすると、飛鳥は笑った。
「百聞は一見に如かず、よ。あの海棠が直々に回すなんて真似をしてくれた子なら尚更ね」
 ――思った通りの展開。
 口には出さずにそう呟きながら、夕凪は、了解、と笑みを返した。

 目を開けるとそこは現世だった。
 慣れた移動とはいえ、閉じていた目を開けるときの一瞬の違和感だけはどうしても消えない。普段居る場所と現世との間にどれだけの違いがあるのかは判らないが、たぶん無意識が身構えるのだろうと思う。――さあ現世だぞ、覚悟は良いか、と。
 見渡すと、がらんとしたワンルームだった。ものがないわけではない。家具も小物もあるのだが、空気が淀んでいて――端的に言えば生活の気配がない。部屋は意外に正直だ。主が死んでからいくらも経っていないはずなのに、部屋まで律義に死んでいる。デスクも、グリーンのカーテンも、木目調のローテーブルに放置された白いノートパソコンも。主の居ない物哀しさが、部屋をだだっ広く見せてしまっているのかもしれなかった。
 隣に飛鳥が居ることを確認する。彼女が横目でこちらを見る。頷き返した夕凪が口を開くより早く、飛鳥は顔を上げる。部屋の隅を見やり、呟いた。
「面白いくらいそのままね」
 書類越しに思い浮かべていた情景が、ぴたりと目の前に嵌まる。
 部屋の隅のベッドの上。淡いイエローのカバーがかかった布団の隅で、部屋の角に収まるようにして膝を抱えている――死者。
 もう死んでいるくせに、生者のように部屋に溶けこんでいる眠り姫。否、この部屋自体が既に死んでいるのだから、彼女がここに馴染んでいるのはむしろ自然なことなのだろうか。陽光の射す部屋に死人が居るというのもなんだかおかしな話だ、と思いかけて、自分も死者であることをふと思い出した。
 沖田綾。
 それが死者の名だった。
 ――全てを拒絶して眠りに就く。
 書類の言葉が不意に蘇り、次いでなぜか海棠の眼を連想した。猫のようなつり眼が、胸の奥まで見透かすような視線を向けてくる。その眼はたぶん、何時間か前の夕凪の言葉を見つめているのだろう。眠り姫は嫌いだと断言した、夕凪自身の言葉を。そして当の夕凪はといえば、眼の前の沖田綾をそれほど嫌ってはいない、それどころか憐れんでいる自分自身を見つめている。眠り姫嫌いなんて言葉遊びだ、と思った。
「確かに……寝てますね」
 中途半端なタイミングで相槌を打つと、飛鳥がおどけたように肩を竦めてみせた。
「どうしたもんかな」
 ふざけたような口調でいても、相棒を見やった眼は怜悧な「葬儀屋」のそれだった。
 口元に微苦笑を浮かべ、夕凪も改めてベッドへ視線をやる。視線がちょうど、部屋の対角線をなぞった。
 ベッドの隅で、彼女は膝を抱えて顔をうずめていた。顔は見えなかったが、緩くウェーブした髪は書類で見たものと同じだったし、書類の示した場所も間違いない。彼女が沖田綾であることは疑う余地もないだろう。それに、死んでなお現世に留まり、その上部屋の隅で眠りこんでいるなどという魂がそう何人も居られても困る。
 足元に、淡いグレーの絨毯。夕凪はその上に立っている。カーテンの開いた窓からは陽光が射していたが、黒いパンプスの足に影が伸びることはない。そういえば、生者の部屋に靴を履いて上がることを躊躇わなくなったのはいつからだっただろうか。
 夕凪は、足を踏みだした。
 飛鳥が無言で見守っている。その視線を感じながら対角線を歩み、ベッドサイドに佇んだ。掛け布団の上で縮められた身体は、必要以上に小さく見える。
 呼吸のリズムに合わせてかすかに身体が上下するのが、自然すぎて逆に奇妙だった。
「沖田綾さん」
 呼びかける。
 綾はぴくりとも動かない。そうしていると、ほんとうにただの死人にしか見えなかった。ベッドの横幅分だけ隔てられていても、そんなところには親近感を覚える。
 淡いベージュのロングスカートと、黒いカットソー。リラックスした服装とは裏腹な固い姿勢に、抜き差しならない必死さを感じた。――例えば、暴風雨から身を守るかのように。自分の力など到底及ばないような、なにか強大なものを避けるかのように。小さく身体を縮め、意識を無意識の底へと沈めてしまう。それは、抵抗なのだろうか。それとも逃亡なのだろうか。
 ――なぜ逃げるの?
 夕凪は、わずかに身を乗りだした。腕を伸ばし、髪越しに綾の頬に触れる。まだ生きているかのようにふんわりと温かいのは、手を触れている夕凪自身が死者であるせいなのだろう。体感温度など、比較の結果でしかないのだから。
 心地良い沈黙。そのまましばらく、目を閉じて耳を澄ませた。――なにも起こらなかった。
「どう?」
「駄目ですね」
 いつの間にか隣に居た飛鳥に、端的に答える。
「完璧に閉ざしてる」
「……まあ、予想はしてたけどね」
 飛鳥が苦笑を漏らす。外れてくれれば良かったのに、と、彼女の表情が言っていた。
 死者に実体はない。死者を形作るのは、肉体ではなく感情だ。死者は、危ういバランスで身体を保っている。その条件は「葬儀屋」とて同じだった。そして実体を持たない感情は、バランスを崩せば簡単に身体から零れ出うる。現世に留まるほどの強い感情を持った魂であれば、その危険性も増す。まして、眠っている綾は、いま完全に無防備な状態だ。今の彼女に、感情を制御する術はない。
 それなら、眠る彼女から感情の一片でも拾い上げることができないか、と考えた。だから触れてもみた。
 だが――惨敗だった。
「まあ、そもそもの未練が『拒絶』だからねぇ」
「それ未練っていうんですかね……」
 からからと笑う飛鳥に、夕凪は恨めしげに手を引っこめながらどうでも良い突っこみを入れた。指先にまだ、生者の温もりが残っているかのような錯覚。柔らかい髪の間から、白い頬が覗いている。夕凪はそれを眺めている。触れても見つめても、綾は微動だにしなかった。右の薬指にリングが光っているのが見える。それもまた、彼女の守りたいものなのかもしれなかった。
 頬に触れた指を擦りあわせた。空気は淀んでいる。死者ばかりが集まるワンルーム。本棚に並んだ文庫本のタイトルを、夕凪はぼんやりと追った。若い作家の本が並ぶ中に、ぽつりと『夢十夜』があるのを眺める。
 特にどうということもなく、独り言のように呟いた。
「起こさないとどうしようもないですね」
「その方法が問題だわ」
「聞こえてるんでしょうか、彼女」
「五分五分ね」
「半分ですか」
「聞こえてても聞こえないふりをしてるってことはあり得るわ」
「そっか」
 ベッドサイドに佇んだまま綾を見つめ、視線も交わさず呟きあう。自然と小声になるのは、無意識のうちに、眠る死者に遠慮しているのかもしれなかった。
 膝を抱えた姿勢。もし顔を上げたなら、彼女はどんな顔をしているのだろう。ぐったりと倦み疲れた顔か。涙に濡れた悲愴な顔か。それとも無表情か。どの場合であっても、なにかしらの言葉をかけることはできる。言葉があれば、綾は動くかもしれない。けれど今の綾は、夕凪の呼びかけに応えるはずもない。
 ――「葬儀屋」の呼びかけさえ拒絶したなら、こちらも強硬手段を取らざるを得なくなってしまう。
 綾に触れた右手を、夕凪は握りしめた。
「彼女は」
 ぽつりと問う。
「彼女は始末対象なのでしょうか」
「理論上はね」
 飛鳥の即答は予想以上に事務的だった。思わず口を開きかけた夕凪を制するように、更に事務的な質問を重ねてくる。
「始末条件言ってごらん、ナギ」
「説得を聞き入れず現世をどうしても離れようとしないとき――現世の人や事物に影響を与えたとき――正当防衛――でも」
「はい、よくできました」
「飛鳥さん」
「だからといって『殺して』良い理由になるのか、でしょ?」
 のんびりとした口調で先回りされ、夕凪は口を噤んだ。――解ってるわよ、貴女の言いたいことくらい。状況にそぐわないほど穏やかな微笑に、気勢をそがれた思いで黙りこむ。
 始末条件と形式ばった名前はついているが、ある意味では不文律のようなルールだった。平たく言えば、言って聞かない魂は殺してしまえと――そういうこと。そうして現世から離れた魂も、「葬儀屋」の説き伏せによって自ら現世を離れた魂も、還る先は同じ輪廻だ。だから飛鳥も夕凪も、喪服に不釣り合いな銀色の銃を持ちもする。死者が死者を殺すために。
 でも、嫌いだ。ひとごろしは嫌いだ。
「でも寝て拒絶してるっていうことは、充分『説得を聞き入れず』に含まれるわ。そうでしょう?」
「そう……ですけど」
 段々と自分の声が小さくなっていくのが解る。情けない、と思った瞬間、飛鳥のふくよかな手が伸びてきて肩を叩いた。
「しっかりしてよ、私たちは番人なんだからね。生死の掟には忠実でないといけない――もっとも」
 堅苦しい台詞をいやに楽しそうに良い、気を持たせるようにわざと言葉を切る。夕凪が顔を上げると、飛鳥の紅い眼が悪戯っぽく煌めいた。
「適用するか否かは、やりかたによるけどね」
 相棒を見つめ、夕凪はゆっくりと二度瞬きをした。
 それから、ちらりと笑った。――仕切りなおしだ。
「さて、さて」
 飛鳥は大袈裟な身振りで辺りを見回した。夕凪も、彼女に倣うようにぐるりと首を回す。
 死人が二人集って話しこんだところで、現世の風景は変わらない。陽の高さは変わっているのかもしれないが、基準になる影がないのでよく判らない。眼の前では相変わらず、死者が一人眠っているだけだ。こんな場所に居ると、時の流れなどほんとうにあるのかと疑いたくなる。
 状況は、変わらない。少なくとも現段階では変えようがない。
「とりあえず、今日のところは引き揚げたほうが良さそうね」
「作戦会議しないと、ですね」
「そういうこと」
 飛鳥が軽快にウインクをした。だが瞼の奥の眼は真剣だ。
「ひとまず状況把握だけして、出直しましょう。海棠にもうちょっと情報貰わなきゃ。……あの子の書類ってすぐ判るわ、ほんとに必要最低限しか書いてないんだもの。出しゃばっていろいろ書いてあるのも鬱陶しいけど、裏方意識もここまでくると病的ね」
 軽口に笑みを返そうとして、――やめた。
 視界の中に飛鳥の真顔。視線は夕凪を微妙に逸れている。たぶん自分も、同じ顔をしているのだろうと思う。
 ――なんだか騒がしい。
 ざわめきが近付いてくる。微かな音を追って視線を動かすと、飛鳥と同じように玄関に落ち着いた。――ドアの外に誰か居る。大方生者だろう。死者ならそれと判るはず。しかしただの生者にしては嫌な雰囲気だった。
 ちらりと飛鳥を見ると、彼女も玄関扉を鋭角的な眼差しで見つめていた。
 数人の話し声。
 ――やっとですねー。
 若い男の声が無邪気に言った。
 ――思ったより綺麗だな。
 通りの良いバリトン。声は不満げだったが、咄嗟に浮かんだのは笑みを含んだ顔だった。
 飛鳥が眉をひそめたのが見えた。鏡を見ているようだ、と思う。
 ――あんま画にならないですかね。
 ――まぁ、幽霊マンションって雰囲気じゃないよな。
 ――逆にリアルじゃないっすかね。殺された女子大生の取り憑くマンション! ウケますって、絶対。夜に来たらもっとソレっぽいだろうなあ。
「飛鳥さん」
 気付いたときには呼びかけていた。
 行きましょう。そう言葉を継ぐよりも、飛鳥の呟きが早い。
「悪気はないのよ、たぶん」
 飛鳥が不意に玄関から視線を外した。能面のような真顔にどきりとする。けれど彼女が見たのは、夕凪ではなく、ベッドの上の沖田綾だった。なにも知らずにうずくまり、すべてを拒絶する綾。なにを拒絶しているのかも知らずに。
「だって私たちは、存在しない存在だもの、ね」
 綾を見つめる横顔は、複雑な憂いを[はら]んでいた。


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