眠る繭

〈情報局‐1〉


 死者にプライバシーはあるのだろうか、と、海棠[かいどう]はキーを叩く手を休めずに考えた。生きている間は、個人情報保護だのなんだのといって、名前も住所も勤務先もきっちりと守られている。しかし死んだ途端に、名前や住所どころか、初恋の相手や上司への憎悪といったごく私的な事柄まで暴かれてしまうのだ。それがネットワークに乗ってしまっているというのだから始末に負えない。ましてやその情報を書類に起こす仕事など、生者の世界であれば犯罪者に違いなかった。
 打鍵の音はBGMと化している。仕事をしている自分と、取り留めのない考えを遊ばせている自分とは、ある意味既に別人だ。画面を流れる情報を無表情に見つめながら、頭の半分ではそんなことを考えている。
 左側に開いたウインドウには、ある人物の一生が綴られている。入学、入社、結婚、といった人生の節目はもちろんのこと、親友と喧嘩したこと、一人ひっそりと失恋を味わったことなど瑣末な事柄までもが網羅されている。見れば見るほど恐ろしく無駄の多い文章だ。どこから調達してくるのかは知らないが、いずれも絶えず勝手にパソコンに流れ込んでくる情報である。別ウインドウに開いている当人の顔写真も然り。これほど膨大な量のファイルを溜めこんでおきながら、パソコンの調子は今日も快適そのものだった。魔法の箱とはよく言ったものだが、確かに化け物のような箱ではある。この情報はどこから来たのか、この情報は何物なのか、この情報はどこへ行くのか――しかしそんなことは、一介の情報局員には関係のないことだ。
 膨大な死者の一代記。そのほとんどを斜め読みで済ませ、死の前後の情報だけを熟読する。
 ――信号が青に変わるのを待たず、横断歩道を渡る。
 ――右折車に[]ねられる。
 ――死亡。
 人を撥ねた車の色やナンバー、運転者の名までもがご丁寧に記されている。過剰だ。少なくともこの死者の場合、そんな情報は必要ない。
 ――一人娘を気にかけ、現世に残留。
 その一文に辿りつくと、画面をスクロールさせて数年前の記述に戻った。この男に一人娘が生まれたのは四年前のことだ。確かその二年後には妻が死んでいる。一人残された娘と死んだ妻の名前を控え、妻の死の状況を文書ファイルに書き加えた。
 それはいわば、死者の履歴書である。
 死者がどのように死んだかを記す、書類。
 海棠は無言でキーを叩く。
 書類の右上に、男の顔写真を貼りつけた。それから手を休め、書類に不備がないかどうかを元情報と突き合わせて確認する。――氏名、享年、住所、死亡日時、死亡状況、死亡原因、現世残留理由、そして死の状況。最後に写真が当人のものかどうかをもう一度確認した。精悍な顔をした、若い父親の写真だった。
 保存してからプリントアウトをする。そこでようやく、彼女はひとつ息をついた。今日は調子が良い。いくらキーを叩いていても疲れなかった。
 カフェオレでも飲んでからもう一つ手をつけようか、と思うと同時、隣から氷室[ひむろ]の声がした。
「よく働きやがんの」
 見ると、彼は画面を睨みながら猛烈な勢いでキーを叩いていた。たぶん数秒前までの海棠と同じ体勢だろう。せいぜい中学生といった外見だが、異様にタイピングが速いのが彼の特技だった。幼い顔をして実はキャリアが相当長いのでは、という噂もまことしやかに流れているが、彼の隣人をして長い海棠に言わせれば、彼はただ単に才能があり、態度が尊大なだけの中堅組だった。
 瞬きをして眼に涙を足してから、海棠は応えた。
「仕事しているんだからよく働くのは当たり前」
「そんな真面目な奴居るかよ」
「君が不真面目なんだ。班長がぼやいてた」
「賢木が?」
 言うと氷室は、意外そうな眼を向けてきた。そこで手を止めるから不真面目なんて言われるんだ、という言葉を、海棠はゆっくりと飲みこむ。
「そんな仕事量少ないわけじゃないぞ」
「質の問題」
 短く答え、ぽかんとしている氷室を残して素早く席を立った。タイミングを逃すと、延々とお喋りに付き合わされかねない。仕事時間はなるべく減らして効率良く遊び、得意の高速タイプで一気に仕事を片付けてしまう――そういう妙に幼くて狡い手を使うところは、年齢相応に子供じみている。ただし、その分質が下がっていることは否定できないらしい。海棠は単に賢木の独り言をそのまま告げただけだが、ぼやきの原因が誤字脱字の類だろうということは、彼女でも容易に想像がついた。
 ふと賢木のデスクに視線をやると、当の本人と視線がぶつかった。意味深な表情でにやりと笑いかけてくるところを見ると、今の一言を聞いていたらしい。海棠は黙って会釈を返した。
 コーヒーメーカーに向かい、コーヒーを淹れる。ミルクは多め、砂糖はスティックで一本。もう一本砂糖を入れたい誘惑を堪えて、自席に戻る。コーヒーメーカーに近い席というのも考えものだ。カフェインと糖分の誘惑は払うのが難しい。今更身体の心配をしたとて無意味なのだが、それでも「甘さ控えめ」を心がけてしまうのは、まだ生者のつもりでいるのかもしれない。
 席に座りなおし、熱いカフェオレを一口啜る。
 椅子の背凭れに体重を預けながら、見るともなしに画面を眺める。片隅に常時開いているウインドウには、現世の情報が絶えず流れていた。時折、誰かもわからないような死者の名前が現れる。しばらくすると、字の色が変わって隣に同僚の名前が現れる。書類作成を引き受けた印だ。ふと思いついて画面をスクロールさせてみると、この一、二時間のうちにぽつりぽつりと氷室の名前が見えていた。彼にしては珍しいことだ。昨日も一昨日も大して働いていなかったのだから、流石の彼も追い詰められているのかもしれない。賢木が愚痴を零すのも[むべ]なるかな。
 隣から、流れるようなタイプ音が聞こえてくる。
 マグカップを両手で包みこむ。――どこからともなくやってきてウインドウの中を流れていくのは、現世を彷徨う魂の情報だった。
 人は死ぬと、輪廻転生の輪に戻っていく。しかし稀に、なんらかの理由で現世を離れず、その場に留まりつづける魂が居る。「なんらかの理由」とは即ち「未練」であり、「魂」とは所謂「幽霊」のことである。
 だが、生者の世界である現世に死者が留まりつづけることは許されない。死者はおとなしく、在るべき場所に還り、速やかに転生しなければならない。それが、生死の掟だ。
 それがため、現世を彷徨う魂の導き手が必要となる。
 その役目を担うのが、「葬儀屋」だった。
 黒い髪と赤い眼を持ち、喪服に身を固めた――彼らもまた、死者。
 直接死者を導くのは管理局の役目であり、一方の情報局は、管理局員に死者の情報を提供する。そして今パソコンを眺める海棠は、情報局配属の「葬儀屋」だった。
 裏方だ、と思う。
 管理局員が具体的にどんなふうに仕事をしているのか、そんな細かいことは知らない。もちろん、情報を管理局員に扱いやすい形で流すということが仕事である以上、友人の管理局員から少し話を聞いたりはする。だが、それだけだった。情報局員の仕事は、情報を[さば]いて流すところまで。裏方はおとなしく裏方に徹するべきであるというのが彼女の持論だった。
 少し冷めて適温になったカフェオレを一口啜り、それから一気に飲み干した。
 瞬きをする。ドライアイなどという言葉とは無縁の身であるはずなのに、画面を見つめていると眼が疲れるような気がするのは妙なことだった。
 両手の中で、まだ温もりの残るカップを名残惜しげに弄ぶ。それからようやく、机の端に置いた。
 ――沖田綾。
 開きっぱなしのウインドウに死者の名前が現れた頃合いを見計らって、海棠はエンターキーを叩いた。
 ――海棠。
 死者の名の隣に自分の名前が表示されると同時、「沖田綾」のウインドウが開く。一瞬遅れて、はにかんだような笑みを浮かべた若い女性の写真が表示された。柔らかそうな細い髪が緩やかにウエーブしている。彼女の写真を一瞥だけしてから、沖田綾の物語を読み進めた。彼女もまた、現世に留まる「幽霊」だった。
 県立高校を出て、私立大学の法学部に入った。勉強は真面目にするけれど語学は苦手。アルバイトに精を出す。それは、どこにでも居る、なんの変哲もない女子大生の物語だった。
 少なくとも、途中までは。
 一年前に現れている手島伸晃[てしまのぶあき]というのが、どうやら彼女の恋人らしい。ただ、記述を読む限りではそう幸せな恋愛でもなかったようだ。有体に言うなら、手島伸晃は浮気をしていた。浮気どころか、むしろ綾のほうが「浮気相手」だったといったほうが正しいようだ。もう一人居た「恋人」をこそ、伸晃は愛していたらしい。もっとも、その「恋人」というのも上司の娘だというから、胡散臭い雰囲気が絡みついているのも確かだった。打算的な男、というのが、無機質な文章から得たその男の印象だった。綾がそれに勘付いていたのかどうかは解らない。ただ、はっきりとその事実を知ったのは死の直前になってからのようだった。
 長い物語を拾い読みしながら、死者の人生を組み立てる。
 自室で別れを告げてきた恋人に、彼女はすがりつき――そして恋人は、逆上した。
 ――手島伸晃、灰皿を掴み沖田綾を殴る。
 次いで撲殺の状況が、詳細かつ淡白に綴られていた。彼女を殴った恋人が放心から我に返り、顔面蒼白になって逃走するまでを。
 恋人に殺されるというのはどんな気分なのだろう、と考えた。それを幸せだと考える者も居るかもしれない。だが少なくともこの状況において、沖田綾の死を幸福だと考えることはできないだろう。そもそも幸福な魂は現世に留まったりなどしないものだ。――けれどその先を読んで考えを改めた。彼女は殺されたのではなかったのだ。少なくとも、直接的には。
 ――沖田綾、目を覚ます。
 彼女は生きていた。
 しかしそこで終わっていれば、彼女の物語はこうして海棠の眼に[さら]されてなどいない。
 ――絶望してベルトで首を吊る。
 救いようがない、と思った。
 絶望したくなる気持ちも解らないではない。恋人に殺されたときの気持ちは想像できなくても、それが絶望を伴うことだということくらいは察することができる。だが、そこで安易に死を選んでしまうことが納得できなかった。――なぜそこで、拒絶しか選ばない。更にその上、拒絶したはずの現世に留まるなどと――矛盾も甚だしいというのに。
 ――現世残留。
 お決まりの四文字。普段ならそこで終わっているはずの文章には、しかし、短い続きがあった。
 ――状況を拒絶して眠りに就く。
 海棠はしばし、手を止めた。
「……眠り?」
 小さく呟く。
 だが画面の表示は変わらなかった。
 画面から視線を外し、斜め上を見上げて考える。
 眠りとは――どういうことだろう。
 死者も眠ることはある。疲れれば眠りたくもなる。だが、「状況を拒絶して」という一節が引っ掛かった。ただ単に眠っているだけ、いずれは覚める休息を味わっているだけ、という悠長な眠りとは、どこか違う響きを感じた。
 ましてや彼女は恋人に殺されかけた身だ。
 殺されていたほうがまだ楽だったかもしれない。彼女の場合、恋人の仕打ちを顧みる時間があったことこそが不幸だった。
 ――全て拒絶したくなる気持ちは解らなくはない。
 眠り。それは、ことごとく予想を裏切った後の、極めつけの一言だった。
 再び画面に視線を戻しながら、海棠は隣人の名を呼んだ。
「氷室」
「はいよ」
 間延びした返事。彼の反応を確認することもせずに、海棠は自分の画面を指差した。
「どう思う、これ?」
 なんだよ、と面倒臭そうに漏らしながらも、彼がわざわざ椅子を回してこちらを向くのが気配で判った。キャスターが軋んだ音を立て、氷室の椅子が海棠の隣につく。彼に仕事から離れる口実を与えてしまったことに気付いたが、さして後悔はしていなかった。
「これって?」
「これ」
 指し示しながら、横目で隣人を見る。海棠の指の先を見た氷室は、一瞬間をおいてから小さく首を傾げた。
「……眠り?」
 同じ反応だった。
 次いで、嫌そうに顔をしかめてみせる。
「面倒臭えな」
「面倒?」
 問い返すと、氷室は当たり前だとでも言いたげに顎をしゃくってみせた。
「ややこしそうなオーラ出てるじゃん」
「ややこしい目に遭うのはわたしたちじゃないから」
「……夕凪が泣くぞ」
 管理局勤めの友人の名を挙げて、氷室が嘆かわしいとばかりに溜息をつく。しかし海棠は敢えてなにも言わなかった。夕凪がこの程度の台詞で泣くとは思えないし、第一彼女は海棠がこんな反応しかしないということなど熟知しているはずだ。突っ込みを入れたつもりでいる彼には悪いけれど。
 再び画面に目を向けた。手を止めてしまったせいで、仕事は進んでいない。画面に並ぶ文字は先程と同じままだ。変わっているのは、小さなウインドウに絶えず現れる死者の名前くらいか。
「ややこしい、か」
「ややこしいから俺呼んだんじゃないの?」
「まさか」
 怪訝そうな問いかけを一蹴した。――それは自意識過剰というものだ。そう付け足したかったが、流石に大人げないので自制する。それならなぜ彼に声をかけたのだろう、と考え直し、感想が聞きたかったのだ、と思い至った。
 妙な死者の情報が流れてきたから、それを見た他人がどんな反応をするのか見てみたい。恐らくは、そんな単純な好奇心から出た行動だった。大人げないというなら、その動機こそが大人げないかもしれない。
 面倒臭い、ややこしい、と氷室は言った。
 それは、管理局員の立場から見た感想だろう。情報をまとめるだけの情報局員に徹するならば、情報の中身たる死者がどんな人物であろうと知ったことではない。仮に事実面倒な仕事になったとしても、その面倒臭さを被るのは自分たちではなく、直に死者と相対する管理局員のほうである。
 あの友人はどうだろう? 面倒臭い、と顔をしかめるのだろうか。
「まあどっちにしたって、向こうの班長は『粘りの飛鳥』だし」
 氷室はそれだけ言って、小柄な身体を椅子にもたせかけた。無意味に偉そうな姿勢を取っているようでいて、画面を見つめる眼は局員のそれだった。意志の強そうな赤い眼。キャリアは長くなくても仕事はできる、というのが、この少年に対する海棠の評価だった。これでもっと真面目であれば文句はないのだが。
「あの班にはこういう面倒臭そうな仕事こそ向いてそうだから大丈夫だろ」
「仕事に時間がかかってしょうがないらしい」
「は?」
「飛鳥さんの話」
 短く答えると、氷室は物珍しげにへぇと呟いた。
「あの人でもそんなこと言うのか」
「あの人だって超人じゃないから」
「どっちかっていうと海棠のほうこそそーいうオーラ出してるけどな……。にしてもあんた、意外にいろんなところと繋がってるんだな」
「情報局員だもの」
 答えるのが面倒になってきて、わざと素っ気ない答えかたをした。それに、飛鳥の言葉を知っているのは、単に彼女が友人の相棒だからというだけにすぎない。大した繋がりであるとも思えなかった。海棠と飛鳥の関係くらい承知しているはずだから、氷室とて真剣に感心しているわけではないのだろう。結局は真面目さが足りないのだ、彼には。
 海棠は、キーボードの上に手を置いた。氷室も黙って仕事に戻る。なんだかんだといっても、徹頭徹尾無意味な会話というのは嫌いではなかった。
 ――沖田綾を書類に起こさねばならない。
 暗いスクリーンセーバーに、自分の顔が映りこむ。まっすぐに切りそろえた前髪の向こうから、猫のような吊り目がこちらを眺めていた。その鏡像を叩き割るかのように、海棠は指を躍らせた。


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