眠る繭

三、


 自分以外の「葬儀屋」であれば、この魂をどう捌くのだろうと――仕事中、そんなことを考えることがある。
 例えば雲雀なら、相手に平手打ちでも食らわせて、呆然としている死者に向かって柔らかな口調と笑みでこう言うだろう。
 ――やっとお目覚めですね。
 それから糸竹が、相棒の所業に苦笑しながら続けるだろう。
 ――ある意味自業自得なのは否定しませんよ。でも、貴女は貴女のままで良いんです。他を拒絶するまでもなくね。
 そうやって、眠りつづける死者に優しく語りかけるのだろう。じわりと核心を衝いて、ゆっくりとこちら側に引きもどす。そして目覚めた死者の言葉に、ひたすらに耳を傾けつづける。そんな方法を取るのだろう。あの二人なら。
 けれどこれは、彼ら二人の仕事ではない。夕凪の仕事だった。
 海棠が書類を夕凪の手に委ねたその瞬間から、沖田綾は夕凪の許に居る。それなら、この仕事をするのが雲雀や糸竹ならばと仮定すること自体が無意味だ。引き受けた死者に対して失礼ですらある。
 ――そんなことを、夕凪は、沖田綾のベッドの傍で考えている。
 もう眼はだいぶ慣れた。灯りのない真夜中など、降り立ったときにはどうなるかと思ったが、慣れるのは思ったよりも早かった。外の街灯がカーテンに透けているせいかもしれない。
 行っておいで、と背中を押してくれた飛鳥の笑顔が蘇った。背に残る、ふくよかな手の感触が頼もしい。彼女は今頃どうしているのだろうか。仕事は二人一組で行うという原則を破った相棒のことを、執務室で思ってでもいるのだろうか。否、案外散らかしすぎたデスクの整理に精を出しているのかもしれない、と思い、夕凪は一人笑みを漏らした。
 二対一より一対一を、夕凪は望んだ。飛鳥はそれを許容した。それだけの話だ。追いつめるにしても説き伏せるにしても、一対一で真正面から向き合うことが望ましいこともある。
 仕事は二人一組で。そんな原則はなんのためにあるのだろう。片方が新人であるなら解る。また、間違いなく始末を伴うような危険な仕事であるならそれも理解できる。けれど大抵の場合、仕事は一人でもできるものばかりだ。そんな仕事にも、「葬儀屋」は二人一組で出かけていく。下手をすれば、死者に圧迫感を与えてしまいかねないというのに。
 なぜだろうと、一度飛鳥と話をしたことがある。そのときは――なにが起こるか解らないから、という曖昧な結論に落ち着いてしまったのだったか。相手が人間である以上、全ての可能性を予測することなどできない。それなら二人分の頭を持って死者に相対したほうが良いのではないか、と。ただでさえ、死者とは不安定な存在だ。念を入れるに越したことはない。――現世に留まる魂も、生死の番人たる「葬儀屋」も、不安定な死者であることには変わりないのだから。
 けれどそんなささやかな原則さえ無視して、夕凪は一人で現世に立っていた。
 隣に飛鳥は居ない。それを心細く思うほどキャリアは浅くなかったが、少し緊張しているのは確からしかった。無意識のうちに唇を噛んでいることに気がつき、慌てて力を抜く。力んではいけない。ただスピーカーになるためだけに、夕凪はここに居るのだから。
 ――語るために。
 それだけを思って、執務室で眼を閉じた。頭に思い描いたのは、マンションの扉の外ではない。淡いイエローのカバーリングと、淡いグレーの絨毯――。乗り物酔いのような不快感を経て次に眼を開けたときには、暗い洋室に相変わらずの姿勢で眠っている死者の姿があった。
 そうして夕凪は今、沖田綾のベッドの傍に立っている。
 辺りを見回す。
 滑稽なほど、なにも変わっていない。
 よく見れば埃が積もっていたり細々としたものが運び出されたりしているのだろうが、真夜中の暗さではそんなものは認識できなかった。この部屋はわざと保存されているのだろうか。それとも、もう明日にでも家具が運び出されようとしているのだろうか。
 ――そんなことは、私にも彼女にも関係がない。
 佇立[ちょりつ]したまま、口には出さずに呟く。目の前に居る死者を、夕凪はしっかりと見つめた。
 ――私はあなたを終わらせにきた。あなたの眠りを。あなたの夢を。あなたの悪夢を。
 そしてたぶん、逃げ道を塞ぎにもきている。
 自分に言い聞かせるように、夕凪は無言でその言葉を噛みしめた。夢から引き戻されることを、恐らく彼女は望んではいまい。けれどそれが掟だ。生死の境を乱すことは許されない。まして、個人的な感慨などで。
 ロングスカートとカットソー。緩くウエーブした黒い髪。もはや見慣れてしまった彼女の姿を眼に捉えて、夕凪は意味もなく息を吸った。空の肺が膨らむのを感じる。それを包むのは、虚像の身体と墨色の喪服。腰に帯びるのは銀色の銃。それが「葬儀屋」の、正装だ。
 カーテンの隙間から、金貨のような月が見えた。
「――沖田綾さん」
 影法師の「葬儀屋」は、静かに口を開いた。
 風のない海のような口調で。
「あなたは手島伸晃さんとお付きあいをしていました。……けれどそう思っていたのはあなただけだった。手島さんにとって、あなたはただの遊び相手にすぎなかった」
 陰鬱な声が真夜中に沈んでいく。自分が喋りさえしなければ、この場は穏やかな静寂で満たされているというのに。
「彼には婚約者が居たんです」
 死者は身動ぎもしない。
 逆に揺らぎそうになる気持ちを叱咤した。仕事はまだ始まったばかりだ。眼を閉じるとなぜか海棠の顔が浮かぶ。
「三山こずえさんという人でした。あなたとお付きあいをするずっと前から、彼と一緒に居た人です」
 文字の羅列が頭の中に蘇る。今にも蠢きそうな、黒く細かい文字。読んで咀嚼している内に、こんな時間になってしまった。
「ただの二股ならまだ良かったんです。けれどそれだけでは済まなかった。手島さんはあなたに飽きてしまった。三山さんと、正式に婚約をしたこともあったのでしょう。言い忘れましたが、三山さんのお家はそれなりにお金持ちだったそうですよ。その分、結婚には慎重になるでしょう。あなたが邪魔になった手島さんは、あなたに別れを告げた。けれどあなたは、現実を受けいれることを拒否して彼に[すが]った。頭に血が上った手島さんは――あなたに、殺意を向けたのです」
 ――嘘でしょ? なんで?
 ――何度も言わせるな。鬱陶しいんだよ、お前。
 ――でも、
 ――いい加減にしろ!
「そう怒鳴って、手島さんは灰皿を手に取りましたね」
 恋人のために買った、硝子の灰皿。それは一瞬で凶器と化した。
 振り下ろされた鈍器は、確かに綾を破壊した。物理的にも、精神的にも。
 綾はその場に崩れ落ちた。
「手島さんは逃げました。真っ青になって。悔いていたかどうか……それは判りませんけれど」
 確かにその瞬間、手島伸晃は動転していた。沖田綾を自分の手で殺してしまったと思ったのだ。ただ、それはたぶん驚いていただけだったのだろう。彼のその後の行状を考えれば。
 もしかしたら、綾はそのまま死んでいたほうが良かったのかもしれない。そんなことをちらりと考える。
「眼が覚めたあなたは、絶望したことでしょう」
 けれど、彼女にはまだ時間があった。絶望する時間がたっぷりと与えられた。
 朦朧とする頭で、彼女はなにを考えたのだろう。そもそもなにかを考える余裕があったのだろうか。ただ脳裏に、何度も恋人の顔が蘇っただけだっただろうか。それとも耳の奥に、恋人の言葉が大音量で響き渡っただけだっただろうか。
 否。
 目の前に広がる暗闇。それだけが彼女の真実だっただろう。
「だからその現実を受け入れずに、死を選んだのですね」
 自分で自分の首を――絞めもした。
「苦しかったですか。絶望と死はどちらが苦しかったですか」
 綾の崩壊を二度の死とを、暗い声が忠実になぞっている。死という言葉を口にした瞬間、綾の身体が微かに震えたのを見た。待ち望んでいた反応だったが、見ないふりをした。
「けれどあなたは、自分で選んだ死までも受けいれることを拒否したんです」
 綾の繭に、小さな[ひび]が入ったことを悟る。気づいていないふりをして、その罅を少しずつ広げていく。
「でもよく考えて、綾さん」
 静かな語り口は揺らがない。そのまま、彼女の隙間へするりと入りこむ。
「手島伸晃は、ただの詐欺師」
 断定的に囁いた。
「あなたを殴打したことについて、彼にどれくらいの罪があるのか……それは、私にはわかりません。殺人未遂にでもなるのかな。少なくとも彼はまだ、その件で逮捕されてはいないようです。捜査中なのか、泳がせていただけなのか。でもつい先日、別件逮捕されました。詐欺容疑だそうですよ。あなたを弄んだだけでなく、他の人からはお金まで騙しとっていた」
 たぶん、いずれは婚約者からも金品を毟り取るつもりでいたのだろう。婚約者の実家が裕福だという事実は、判ってみればそうでなかったほうが不思議なくらいにごく当然の帰結だった。
 警察は、その逮捕をきっかけに、綾の殺人未遂に関しても追及をしようとしているのかもしれない。それともそれはそれとして、全く別の事件として扱っているのかもしれない。
 しかしそんなことは、既に死んだ者には関係のないことだ。
 ――要するに、どうしようもなく自分のことしか考えられない男だったのだ。
 甘い言葉を囁きもしただろう。強い力で抱きしめもしただろう。けれどそれは、自分の利益を求める手段にすぎなかった。
 沖田綾は、ただ騙されただけだった。
「それを理解したから、あなたは絶望したんじゃないんですか」
 夕凪は穏やかに問いかける。
「そんな人間のために死を選んだ自分にも、絶望したんじゃないんですか」
「……嘘」
「嘘かもしれない、本当かもしれない」
 ようやく発したか細い声を覆い隠してしまうように、歌うように、言葉を続ける。
「でも、あなたには関係のないことではなかったんですか? あなたはこの現実を拒絶したはず。拒絶したという現実でさえ」
 ――ゆるりと、ベッドの上で人影が動いた。
 緩くウエーブした髪の隙間から、見開かれた黒い眼が見える。柔らかそうな白い頬は、心なしか蒼白い陰りを帯びていた。
 それは初めて見る、沖田綾の素顔だった。
 喪服の女を見つめながら、綾は泣き出しそうに顔を歪めた。華奢なのは、身体だけではないのだろう。
「嘘」
「私の言葉で目を覚ました、その事実が、なにもかもが嘘ではない証拠です」
 意図的に言葉を区切って発音しながら、夕凪は微笑した。たぶん、哀しげな微笑になっていただろうと思う。
「あなたの未練は……棄てた現実そのものだったんですね」
 膝を抱えた細い腕に、綾はぎゅっと力をこめた。
「……違います」
 彼女は首を横に振った。
 仕草の頼りなさとは裏腹に、夕凪に固定されたまま動かない視線。
「嘘よ」
 その一言だけを決然と言って、綾は不意に、立てていた膝を崩した。スカートの裾から脚が覗く。眠っていた時間などなかったかのように、皺ひとつないスカートだった。
 白い脚が、絨毯を踏みしめる。ゆっくりとベッドから下りて、綾は夕凪と対峙した。
「嘘」
 死者は譫言のように、その言葉を繰り返す。夕凪より少しだけ背の高いはずの彼女が、心なしか小さく見える。
「なにが嘘なんですか」
 喪服の「葬儀屋」は、首を傾げて問い返す。
 綾はまた首を振った。
「全部、全部よ」
「全部というのは」
 夕凪は、赤い眼で黒い眼をひたと見据えた。
「手島伸晃さんと出逢ったことも、手島さんとお付きあいをしていたことも、手島さんがお金持ちのお嬢様とお付きあいをしていたことも、手島さんとたくさんの思い出を作ったことも、泣いたことも笑ったことも、手島さんに別れを告げられたことも、あなたがそれを拒絶したことも、手島さんに殺意を向けられたことも、手島さんに殴られたことも、あなたが絶望して死を選んだことも、その死すら受けいれられなくて此処に留まっていることも――全てですか」
 瞬間、爆音のような悲鳴が響き渡った。
 両手で耳を塞ぎ、死者は身体を縮めて絶叫する。
 リングの光る薬指が、そのとき、じわりと漆黒に染まった。
 ――来た。
 ためらわずに腰から銃を引き抜いた。死者に銃口を向ける。固く眼を瞑り身体をこわばらせて両耳を塞いだ彼女に。
 死者は知らない。恋人と買ったペアリングから、自分の身体が感情に喰われかけていることを――自分が人間の形を失くそうとしていることを――感情の塊に豹変しかけていることを――。
 眼を細め狙いを定める。薬指を侵食していく墨色に。
 悲鳴は耳に届かない。
 引金を引いた。
 ――闇夜に、銃声。
 ひっ、と一度引き攣った声がして、そのままぴたりと悲鳴が止む。黒い粘りが飛び散った。ベッドカバーに点々と黒い染み。歪んだ金属片が床に落ちる。
 久方ぶりの静寂。
 固く瞼を閉じていた綾が、突然眼を見開いた。
 黒い眼が夕凪を凝視する。たった今、頭の真横を弾丸が通りすぎていったことを信じかねているような眼で。掌越しにもびりびりと振動している鼓膜を扱いかねているような眼で。
 夕凪は身動ぎもせず、鋭い眼で死者の右手を見つめている。
 機械人形のようなぎこちない動きで、綾は自分の右手を、見た。そしてまた、息を呑む。
 右手の薬指は、根元から跡形もなく消え去っていた。
 ただその断面は、墨で塗りつぶしたように黒い。あってしかるべき血も肉も骨も、そこにはない。少なくともその部分だけは、綾の身体は人間ではなくなっていた。
 ――影。
 感情の塊を、「葬儀屋」はそう呼ぶ。
 自らの持つ感情に喰らわれ、人ではなくなってしまった感情の塊を。
「あなたはまたそうやって逃げるんですか」
 銃を構えたまま、夕凪は静かに問うた。砕けたリングの破片が、立ちすくむ綾の足元で鈍く光る。形を失い歪みきった金属片。
 恐怖に染まった眼が、また機械的にこちらを向く。
「なん、で……こんな……」
「あなたは現実の負荷に負けようとしていたんです」
 死者の眼をまっすぐに見つめて、夕凪は断じた。
 綾はこちらから眼を離さない。離させないように捉えて離さない。
「現実に負けて、あなたではないモノに変わろうとしていた……人格もなにもかも忘れて、ただ絶望に満たされた感情の塊に。そこで食い止めなければ、あなたはただの黒い影に変わっていました。そうなったら私は……あなたの胸を撃っていたでしょう」
 綾の眼がわずかに動いた。黒く潰された薬指に視線が落ちる。その小さな動きを逃さずに、夕凪はゆっくりと語りかけた。
「よく見てください。欠けたその指とその痛みが、あなたが紛れもなく此処に存在する証です」
 綾は、指の欠けた右手を握った。
「あなたはそこに居るんです。生からも死からも逃れることは許されない」
 ――居るべきところに収まること。
 それは、生者にも死者にも共通の義務だ。なぜと問うことすら許されない絶対の掟。
 ――逃げたくなるのは理解できる。
 だから死に逃避したのだろう。逃避する者が居るのだろう。しかし逃避を選ぶのであれば、その結果を引き受けるのもまた義務だ。
 繭の中に眠っても、彼女が死者であることには変わりない。そして死者が居るべき場所は、少なくとも、自室のベッドの隅ではない。
 綾は虚ろな眼で、欠けた薬指を見つめていた。全てを拒絶した眼ではなく、固執を失くした眼で。
 カーテンの裾一つ、動かない。
「……居る」
 否定以外の言葉を、彼女はぽつんと口にした。
「居るんです」
 ふっと微笑を浮かべて、夕凪は繰り返した。
 銃を下ろす。ホルスターに仕舞われていく銀色の銃を、綾の視線が追っている。その眼が焦点を合わせていることに、小さく安堵した。
 二人の死者は、夜の部屋の隅で対峙している。
 綾の眼が、銃から夕凪の眼へと戻ってきた。一呼吸を胸の内で数え、夕凪は口を開く。
「棄てるなら潔く棄てることです。逃げるなら潔く逃げること。その選択を否定はしません。けれど、選択をしたならその結果まで背負うのが……大人というものでしょう」
 我儘はいけません、と、優しい言葉でつけ足した。
 綾は黙っている。口を開かないままで、彼女はゆっくりと右手を持ちあげた。顔の前に手を開いてかざし、じっと見つめる。根元から吹き飛ばされた薬指が、夕凪からもはっきりと見えた。ちくりと胸が痛んだが、表情は変えなかった。
 薬指のあった場所に、綾は左手で触れる。指先に、粘ついたコールタール状の影がこびりついた。指の腹を擦りあわせながら、彼女は右手と左手を交互に見ている。五本の指が揃った左手と、薬指の欠けた右手。揃いの指輪と共に失った薬指は――固執の象徴だったのかもしれない。
 憑き物の落ちたような、そんな眼をしていた。
 ――それで良い。
 夕凪は心中で呟く。――私の銃は、武器ではないのだから。時間切れを示す、目覚まし時計のベルにすぎない。
「……もっと生きたかった」
 右手に視線を注いだまま、死者はぽつりと呟いた。自嘲的で哀しげな口調で。
「もっと生きて、伸晃くんといろんな思い出を作りたかった。それだけだったのに……全部失敗だった。私なんか、最初から駄目だったんですね」
「駄目だったのは、あなたというより」
 夕凪は口を挟み、俯いている綾に向かって悪戯っぽく微笑んだ。
「手島伸晃さんの人間性と、あなたの人を見る眼、ですかね」
 綾はきょとんとして夕凪を見た。
 にっこりと、夕凪は笑みを返す。
「次は、失敗しちゃ駄目ですよ」
 死者はしばし沈黙する。暗闇の中には、薄い月明かりと二人の死者だけが在る。部屋ですら死んでいる空間に、生者は誰も居ない。
 否。ただ、誰も居ないだけだ。
 ――やがて綾は、顔を歪めて泣き笑いの微笑を浮かべた。
「ひっぱたいてやりたかった……」


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