眠る繭

〈情報局‐4〉


「変換ミス」
 小さく呟いて指摘すると、氷室が椅子の上で飛びあがった。驚きすぎだ、と思ったが、それだけ仕事に集中していたというのなら良い傾向だ。
 だが、彼のディスプレイを見直して認識を改めた。書類を作っているウインドウの裏に、タイピングゲームのウインドウが隠れている。呆れると同時に、こんなことをして鍛えていたのかと妙に感心した。
「いきなり話しかけるなよ」
「そこはfatじゃなくてdeath」
 口を尖らせてこちらを睨んでくる氷室を横目で見ながら、海棠は必要最低限の言葉だけを告げた。氷室がきょとんとしてディスプレイに視線を戻す。しばらく沈黙したあと、あ、という小さな呟きに次いで、キーを叩く音がした。最後に、エンターキーを叩くひときわ高い音。脂肪が死亡に変わったことを眼の端で確認し、そのまま自分の作業に戻る。
「……耳の場合は地獄耳だが眼の場合は地獄眼で良いのかね」
「嫌味を言われる筋合いはないと思うけれど」
 わざとらしい呟きに、指を動かしながら応える。応えてしまった自分が少しだけ意外だった。聞き流しても良かったが、なんとなく返事をしてみる気になったのだ。しかし、隣人の変換ミスを見つけたのはあくまで偶然である。考え事をしていて自分のディスプレイから眼を逸らすと、たまたま氷室のウインドウが見えたのだ。そこに「脂肪」の二文字を見つけて違和感を覚えただけである。死者の一代記には、あまり登場することのない単語だ。ぼんやりと文の前後を眺めてみたらやはり間違いだった。タイピングは速くても、変換ミスはどうしようもないらしい。大方、キーボードどころか画面さえよく見ずにスペースキーを叩いているのだろうと思う。一時期は、もう少し慎重だったように思うのだが。
「最近熱心だったのは班長に絞られたから?」
「失礼な奴だな」
「ほとぼりが冷めたからまた手を抜きはじめている」
「うるせー」
 反発はあれど反論はない。たぶん図星なのだろう。
 自分のキーボードを一瞥して長音記号を叩く。このキーだけは苦手だ。未だに位置が巧く掴めない。
「裏方に手抜きは許されない」
「裏方裏方って煩いな」
 不意に、苛立ったような声が聞こえた。
 海棠は手を止める。拗ねて口を尖らせた声とは、どこか違う響きを帯びていた。
 氷室を見ると、彼も同じように手を止めてこちらを睨んでいた。情報局員のくせに表立って出しゃばるつもりかと皮肉を言いかけたが、氷室が口を開くほうが早かった。
「情報局だろうが管理局だろうがやってることは同じだろ。そうやって裏側に隠れるようなことは嫌いだ」
 氷室は回転椅子を回して真正面から海棠に向きあった。小柄な身体が、なぜだか一回り大きく見える。
「堂々としてろよ」
 それは彼の本心だったのかもしれない。
 手抜きの言い訳にはなっていないと思ったが、海棠は黙っていた。黙ったまま、しばし相手を見つめる。氷室もしばらくは唇を結んでこちらを見返していたが、やがて居心地が悪くなったのかぷいと視線を逸らしてしまった。それでも、海棠は幼い横顔を見つめていた。
 少しだけ、笑った。
「……そうかもしれない」
 氷室の視線がこちらに戻ってくる。嫌そうな眼だった。
「なんだよ、気味悪いな」
「別に」
 またひとつ小さく笑んで、海棠は視線を画面に戻した。氷室を相手にこんなに喋ったのは久しぶりだ。それも、自分から話しかけてまで。
 ――その饒舌さはなにかの前触れだったのかもしれない。
「あ」
 氷室の頓狂な声。視線をやると、彼の眼は海棠ではなくもっと遠くを見ている。つられて振り返ると、コーヒーメーカーの前をポニーテールの人影が横切っていった。いつもと同じルートを通り、賢木のデスクの前で立ち止まる。パソコンから顔を上げた賢木が、ほっとしたような笑みを浮かべたのが見えた。
「こっち寄るんじゃね?」
 そんなことは、言われなくても解っている。
 手短に報告を済ませ、詫びを入れながら賢木に書類を手渡している彼女の後ろ姿を、海棠は眺めている。
 彼女がこちらを振り向いた頃合に、海棠は小さく右手を上げた。――良い顔をしている。
 憑き物の落ちたようなさっぱりとした顔をして、夕凪は笑顔で手を振った。

《了》


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