gradation

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「だから、ここでaベクトルとdベクトルの内積を取るの。解る?」
「aとd? ちょっと待って……えーと?」
「これと、それからこれね」
 瀬名のシャープペンシルが、問題集の図の上を指す。それからゆっくりと滑って、止まった。確認するように、彼女はそこで顔を上げて有希子を見る。その瞬間、有希子は右手で弄んでいた自分のシャープペンシルをぴたりと止めた。思わず背筋を伸ばし、シャープペンシルを持ち直す。
「あー。解った解った! なあんだ」
「OK?」
「OK、ありがとう」
「いえいえ」
 ほう、と息をつく有希子ににっこりと笑いかけ、瀬名は紅茶の入ったマグカップを手に取った。――本当はカフェオレを作るつもりだったのだが、気がついたら紅茶を淹れていた。そういえば帰宅直後もそうだった。自分の無意識を複雑な気持ちで思いやりながら、有希子も砂糖だけ入れた紅茶を手に取った。
 二人同時に口をつけ、たぶん二人同時に、視線だけを上げてお互いを見た。そして苦笑する。――ベクトルの演習にかまけている間に、すっかり紅茶がぬるくなってしまった。
「レンジであっためてこようか?」
「ううん、良いよ悪いし。このままでもおいしいしね」
「そう? 私とティバッグじゃ紅茶に怒られそうな紅茶しか淹れられないよ」
「それにも負けないくらい良い茶葉なんだね、きっと」
「……瀬名ぁ」
 澄まして紅茶に口をつける瀬名に、有希子はどこか恨みがましい眼を向けながら冷めた紅茶を飲んだ。そういえば、夕飯のあとに紅茶を飲むのなんて久しぶりだ。紅茶に限らず、有希子はそもそも、夕飯を食べたあとにはほとんど飲み食いをしない。せいぜい麦茶がいいところだった。
 瀬名を見ながら今更のように思う。家の中に客が居るという、ただそれだけのことで、ずいぶん変わってしまうこともあるものなのだと。
「とりあえずありがと瀬名、やっと解った。知ったかぶりはするもんじゃないね」
「ううん、このくらいだったら。――私も、助かったし」
 応えた瀬名は、微妙な、笑みを浮かべていた。
 気づかないふりをして、有希子はまた一口、紅茶を口に含む。マグカップを両手で包みこむが、ぬくもりは中途半端なものしか残っていなかった。濃い琥珀色の液面に、白い湯気はない。そこには形容しがたい表情をした自分の顔が映っているだけだった。
「……あのさあ、ユキ」
 名を呼ばれて顔を上げると、瀬名が、有希子と同じように両手でマグカップを持って液面を見ていた。中身はもう少ないのか、意味もなくゆっくりとカップを回し、紅茶を弄んでいる。
「なに?」
 有希子が応えると、瀬名はカップを回す手を止めて顔を上げ、微笑みながら言った。
「私がここに来ていちばん安心したこと、なにか解る?」
「……え?」
 いちばん、安心したこと?
 ――一瞬有希子が表情をこわばらせたことに、瀬名はたぶん、気づいているのだろう。けれどその問いは、軽々しく答えられるような種類のものではない。そしてたぶん瀬名自身も、それを解っていて有希子に尋ねているのだろう。
 じっと、有希子は瀬名の眼を見た。なにを考えて彼女がそんな質問をするのか、少しでも見極められないかと思って。けれど解ったのは、彼女がいま笑っているという、ただそれだけだった。
 諦めて、と溜息をついた。紅茶の液面に波紋が広がる。それからしばし考えた。一つは瀬名の問いの答えを。もう一つは、この問いに答える資格が、本当に自分にあるのかどうかを。瀬名は有希子に問うているのだから、答えるべきはもちろん有希子なのだろう。しかし本当にそれで良いのか――本当に私などが答えて良いのか、という迷いがないわけではなかった。
 たぶん滑稽なほど慎重に、有希子は口を開いた。
「……解らない。瀬名がなにを考えてるのか、いまの私には解らない。でも、瀬名があそこに居られないってことだけは解ったから……だからあそこから離れられたっていう、そのことなのかな」
 瀬名は有希子の言葉を最後の一文字まで聞いて、こくりと頷いた。そして微笑した。
「それもある。……そのことはありがとう、ユキ」
「ううん。どっちみち、私もあそこにはもう居られなかった」
 有希子も微笑した。けれど瀬名のそれに比べて、なんて不自然な微笑なんだろうと思う。
「でもね、そうじゃないんだ。いちばんはそれじゃない」
 瀬名は――うつむいて、またマグカップを回しはじめた。微笑しているはずの彼女の横顔が、まったく別の表情をたたえているように見えるのは――有希子の気のせいなのだろうか。
「ユキの、お母さんがね」
 瀬名は言った。
「――ユキのお母さんが、私のことを憶えててくれたこと。それで、凄く凄く安心したんだ」
 一息ついて、また続ける。
「良かったよ、ほんとに。私が福田瀬名だってわかってくれる人が、ユキの他にもちゃんと居るんだって解って。まだ私は、社会的に抹消されたわけじゃないんだって解って。……だから、まだ期待しても良いんだろうなって思ったんだよ」
「なにを――」
 寂しげに微笑した瀬名の横顔に、思わず、有希子は声をかけた。かける必要などないのに。瀬名が期待するものなど決まっているのに。――世界から完全に忘れ去られないこと。とにかく誰かが自分を憶えていてくれること。それ以外に、彼女が望むものなどあるのだろうか。
 瀬名が手を止める。手を止めてもマグカップの中の紅茶はまだ回りつづけていた。もう冷えきってしまっているに違いないそれをなおぼんやりと見つめながら、彼女は意識してか軽い口調で言った。
「これなら大丈夫だって。お父さんもお母さんも、それから弟も、私を憶えていてくれるだろうなって」
 不自然なほど自然な微笑。
 有希子はたぶん――絶句した。
 両親と弟。
 家族。
 当たり前じゃないか、家族が自分のことを識別してくれるのは。
 否。そんな当たり前のことですら、もう瀬名には当たり前ではなくなってしまったのか。
 瀬名は顔を上げて、申し訳なさそうに微苦笑を浮かべた。先程の微笑に比べわずかにぎこちないそれは、けれどよほど自然に感じられた。
「ごめんね、こんなこと言って。これじゃあ、ユキにもユキのお母さんにも失礼だよね」
「いや、そんなことはないけど……」
 口ごもる有希子に微笑みかけると、瀬名は思い出したように、マグカップを両手で包みこみ冷えきった紅茶をあおった。――ほう、と息をついても、彼女の息は白くない。ヒーターをつけているせいだろうか。
 それからまた、喋る。
「……でも、安心したのは事実なんだ。わざわざ向こうに電話かけたりするのは馬鹿馬鹿しいし、それ以前に怖い。だけど、ユキのお母さんが私のこと憶えててくれて、なんだか妙に安心した。だから家族も大丈夫だって、そう思うことにしたの。正直、最近は怖くてお母さんにも電話できなくて。でも、下手に連絡つけるより、もしかしたらそのほうが安心できるかもしれない。根拠はないでもないし。……後ろ向きで不安定な安心でも良い。下手に安定した安心だったら、足場が崩れたときに怖いから。だから――それなんだったら私はこのまま、絶対に崩れない足場の上に立ち続けていたい」
 急に饒舌になった瀬名を、有希子はただ見つめている。かけるべき言葉も見つけられずに。瀬名は、彼女自身は気づいているのだろうか。話せば話すほど、自分の表情が消えていっていることに。自分の顔を映すべき紅茶の液面は、もう彼女のカップの中にはない。
 瀬名は、かすかに唇を歪めた。微笑、と呼んでしまうには、あまりにも自嘲めきすぎた微笑だった。
「瀬名」
「ごめん、変なこと言って。今の忘れて、全部。……あーあ。駄目だなあ私。せっかくユキが気を遣ってくれたのに、私のほうで全部無駄にしちゃったみたい」
 冗談めかしながら、瀬名はマグカップをテーブルの上に置き、うんと伸びをした。彼女の置いたマグカップの隣に、瀬名と有希子のシャープペンシルが仲良く 二本並んでいる。――広げっぱなしの問題集の上に散らばった消しゴムのかすを片手で集めながら、有希子は言葉を探していた。
 瀬名と自分とのギャップを、感じていた。
 例えば、必要以上に明るく見える瀬名と必要以上に塞いでいるのかもしれない有希子。例えば、不安を語り安心を模索する瀬名と心配するばかりで前に進めない有希子。
 ――よっぽどしっかりしてるじゃないか、瀬名は。
 そう思う。けれどそうは思わない自分も居る。
 ――無理してるだけなんじゃないか。私がなにか手助けをしてあげなくちゃいけないんじゃないか。私がどうにかしないと、瀬名は崩れて堕ちていってしまうんじゃないか。
 思い上がりなのかもしれない。有希子より瀬名のほうがよほどしっかりしているというのは、確かに事実なのだから。
 けれどなんとかして、瀬名を安心させてやりたかった。なんとかして。どうしたら良いのだろうか。どうしたら――
 ――あ。
 思いついた、と思った、
 その瞬間。
 コンコン、と、ノックの音がした。


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