gradation

10


 有希子がはっとして顔を上げると同時に、ドアが開いて母がひょっこりと顔を出した。視界の隅に、瀬名も同じようにして母を見ているのが辛うじて見てとれる。
「お風呂、たまったよ。瀬名ちゃん、入る?」
「あ、はい。ありがとうございます」
「えーと。着替えはあるのかな」
「あ――」
 何気ない問いに、瀬名は開きかけた口を閉じた。しばらく迷ってから、ちらりと有希子に視線を送ってくる。学校から半ば強引に辻本家に連れてこられた瀬名が、着替えの準備など持っていないことは明らかだった。
 さすがに有希子も答えかね、黙ったまま視線だけを返す。どうしよう、という疑問の視線に、たぶん有希子は、どうしよう、という疑問の視線で応えているのだろう。
 沈黙――。
 やがて瀬名は、困ったようにはにかみながら言った。
「洗面台だけお借りできますか。髪だけ洗います」
「あ、Tシャツくらいなら貸せるよ」
 有希子が付け加える。――また視線を交わして、二人はようやく少しだけ笑った。その様子を見てか、母もおかしそうに笑う。
「なんだか懐かしいわね」
「え?」
「いま思い出した。ほらほら、こういうことあったじゃない。中学生のときだったかな」
 笑いながら言う母に、有希子と瀬名は思わず顔を見合わせた。そういえば――そういえば、過去にも似たような状況があった。あれは、中学二年生の冬だったか。有希子の家に遊びにきていた瀬名が、突然の大雪のために帰れなくなってしまったのだ。否、帰れなくなった、というよりは、帰ろうとする瀬名を半ば無理矢理に引きとめて泊めた、というほうが正しい。引きとめたのは無論有希子の母である。
「こんな暗い中、しかもこんな大雪よ。やめときなさいって。お母さんにはちゃんと私が連絡しといてあげるから――悪いこと言わないから泊まってきなさいって」
 ほとんど無意識のうちに、有希子はそのときの母の台詞を暗唱していた。口調や表情までも鮮明に思い出され、一瞬おいて思わず吹き出す。人間の機能というのは、こういうどうでも良いことに限って発達するらしい。
「よく憶えてるなあ……」
「その記憶力、他のことに使いなさいよ」
「使えてたら苦労しない」
 苦笑した瀬名と母の台詞に、有希子は澄まして返した。あんたってそういう子だわ、と、母の苦笑が言っている。
 思い出したように、瀬名はゆっくりと立ちあがった。
「それじゃあ、あのときに倣って洗面台、お借りしますね」
「はいはい。ごゆっくりどうぞ」
「あ、瀬名ちょっと待って……マシなシャツ探すから」
「探さなきゃないの?」
 慌てて立ちあがった有希子を、からかうようなたしなめるような母の声が追う。放っといてよ、とわざとらしく溜息をつくと、有希子は部屋を横切り、隅の箪笥を開けた。
 そのとき部屋のドアの隙間から、黒猫がひょっこりと顔を出した。
 にゃあ――と、間の抜けた声がする。両腕を箪笥の引き出しに突っこんで中を探りながらも、有希子は「彼女」に向かってちょっとだけ視線を送り笑いかけた。
「なによ、カンナ」
 神無月に辻本家にやってきた、というただそれだけの理由で「カンナ」という名になった黒猫は、有希子の部屋に滑り込み、まっすぐに瀬名の傍へとすりよっていった。人懐こい猫というのも珍しいような気がする。それにしても――猫のほうでも、猫好きの人間というものを見わけるものなのだろうか。
 先程の中途半端な体勢からようやく立ち上がった瀬名の足元に、黒猫がやってくる。
「久しぶりー、カンナちゃん」
 自分をまっすぐに見上げている黒猫に向かって、瀬名は笑顔で言った。彼女の言っている内容が解っているのかいないのか、にゃあ、と、「彼女」はまた鳴いた。
「瀬名ちゃん、動物にはなつかれるほう?」
「さあ、どうなんでしょうね。でもカンナちゃんには結構なつかれてると思いますよ」
 有希子には箪笥の中の衣類しか見えていなかったが、足元に黒猫をじゃれつかせながらにこにこしている瀬名の姿は鮮明に想像できた。
 小綺麗な部屋着をなんとか引っぱりだすと、有希子は振り返りざまに瀬名に放り投げる。
「瀬名、パス」
「え? ――わっ」
 条件反射で伸ばされた瀬名の手が、なんとかTシャツとパンツとを受け止める。多少バランスを崩したのを敏感に感じとってか、黒猫はいつの間にか瀬名から母の足元へと移動していた。
 目を白黒させた瀬名が、有希子を見る。それでようやく、彼女は事態を飲みこんだらしかった。
「――いきなりだなあ」
「反射神経チェック、みたいな?」
「こんなときにしなくても良いよ……とりあえずありがとう」
 溜息をついてから微笑し、瀬名は渡された部屋着を抱えなおした。それから首だけを回して有希子の母を振り返る。
「それじゃあ――お借りしますね」
「はいはい、ごゆっくり」
「ごゆっくりどうぞー」
 母の声に有希子も便乗する。
 唇に微笑を浮かべながら、瀬名は部屋から出ていった。その足元にまだ黒猫がじゃれていることに気づき、有希子は思わず母と顔を見合わせて笑った。瀬名は動物に例えるなら猫だな――と、唐突にどうでも良いことを思う。
 次いで、母も部屋を出ていった。
 ――母の後姿を見送るや否や、有希子は急いで通学鞄の中を探った。教科書やノートをかきわけ、ようやく目的のものを手にする。
 携帯電話。
 冷えきったそれが、有希子の鼓動の速度を急速に上げた。電話を持つ手がこんなに震えたことが、今までに一度でもあっただろうか。
 知らない間に、メールが何件か入っている。けれどそれを見ることもしなかった。
 ――だから家族も大丈夫だって、そう思うことにしたの。
 どこか寂しげな瀬名の台詞が蘇る。
 福田瀬名の登録番号を無意識のうちに探している自分に気づいて、有希子は指を止めた。しばらく考え直してから、机の引き出しを開けてアドレス帳を探す。携帯電話に登録してあるのは、あくまで瀬名の携帯番号だ。瀬名の実家の――引っ越していった瀬名の家族の電話番号は、訊きはしたけれど入れていない。
 ――確かめてやろうじゃない。
 引き出しの中身をかきまわしながら、有希子は声には出さずに呟いた。瀬名の家族が瀬名を忘れていないかどうか、この耳で確かめたい。瀬名のために。あるいは、有希子自身のために。
 やっとのことで小さなノートを引っぱり出す。開くと、福田瀬名の名は一ページ目のいちばん上に記してあった。慎重に人差し指でページをなぞりながら、低い声で音読する。
「福田瀬名……実家」
 瀬名を残して福田一家が引っ越していったとき、念のためにと訊いておいた番号だった。それとも、母が訊いていたものを書き写したのだったか。辻本家と福田家とで、家族ぐるみの付きあいをしていたから。
 ――訊いといても、使わないだろうけどね。まあ一応だよ、一応。
「使うときがきたよ、有希子」
 なにも知らずに笑っていられた過去の自分に、有希子はどこか自嘲めいた微笑みを浮かべながらまた呟いた。手の震えはいつの間にか止まっていた。
 たとえお節介だと言われても良い。ただ確かめたかった。あの聡明な瀬名の父親が、優しい母親が、あどけない弟が、瀬名のことを憶えているかどうか。瀬名にはまだ家族が残されているのかどうか。否、残されているのかどうか、と言ってしまうと少し違うのかもしれない。――瀬名の家族は瀬名のことを憶えている。瀬名にはまだ家族が居る。瀬名はまだ、この世界に存在している。それを、確認したかった。もしも忘れていたら、ということはあえて考えずにいるのかもしれない。その「もしも」を考えるのは、あまりにもおぞましかったから。
 考えずにいられるのは、有希子が所詮は第三者に過ぎないからだ。
 けれど、第三者にしかできないことをするのが第三者の務めである、とも思う。
 何度も何度も番号を確認してから、有希子は一つずつ数字を押した。画面に表示された番号を、また確認した。早くしないと、瀬名が髪を洗い終えて帰ってきてしまう――。焦りはあったが、不思議と落ち着いていた。今まであまりに狼狽しすぎたせいで、とうとう麻痺してしまったのだろうか。確かに、この程度で狼狽していたら、有希子の精神はとっくの昔に崩壊していただろう。
 ――既に崩壊したとも言えるけどね。
 耳に当てた携帯電話からコール音を聞きながら思う。一度、二度、三度。
 カチャ、と、回線が繋がる音がした。
 全身が一瞬、緊張した。
「もしもし、福田で御座います」
 懐かしい声が、電話の中に聞こえた。瀬名の、母の声だ。
 小さな小さな携帯電話を、きゅっと、一瞬強く握りしめる。
 もしもし、こんばんは。夜分遅くにすみません。辻本有希子です。
 たったそれだけの台詞を言い渋っている、その理由にはとっくに気づいていた。瀬名の母が、有希子のことを認識するかどうか――それはたぶん、瀬名の母が瀬名を認識しているかどうかに繋がることだろうから。
 だから。
 この一言で、決まる。
「……もしもし?」
 怪訝そうな声。
 意を決して、有希子は声を絞りだした。
「もしもし」
 こんばんは、辻本有希子です――そう続けようとした有希子を、瀬名の母が遮った。警戒を緩めた、穏やかな声で。
「あら、有希子ちゃん?」
「あ……はい、こんばんは」
 呆気なく――希望は呆気なく、ごく当たり前のように訪れた。
 笑みさえ含んだ弾んだ声で、瀬名の母は言った。娘の友人に向ける、ごく当たり前の口調で。
「お久しぶり。瀬名がお世話になってます」
「あ、はい」
 瀬名がお世話になってます。
 その言葉を、有希子は頭の中で何度も何度も繰り返した。繰り返すたびに、恐怖が溶けて脱力していく。安心感が押し寄せる。
 瀬名がお世話になってます。
 瀬名がお世話に。
 瀬名が。
 瀬名――。
「おばさん」
「はい?」
「瀬名が……瀬名が、判りますよね?」
 思わず、有希子は口走っていた。
 一瞬、沈黙が流れる。受話器を手に、あるいは受話器を耳から離してそれを見つめながら、きょとんとしている瀬名の母の姿が鮮明に浮かんだ。けれどそこで笑ってみる気にはなれなかった。
 ぎゅう、と、携帯電話を握りしめる。冷えきっていたはずのそれは、既に生ぬるい。
「瀬名が……どうか、したの?」
 どこか不安そうな声で、電話の向こうの声は言った。
「瀬名になにか……」
「ごめんなさい、変なこと訊いて。瀬名は大丈夫です、なんにもないです。ただ、おばさんが、瀬名のことが判るかどうか、それだけ訊きたいんです」
 早口に言って、返事を待つ。
 瀬名は大丈夫です、なんにもないです――嘘をついている、という意識は、辛うじてあった。
 瞬きを二回して、それから首を傾げられるほどの時間が流れた。
「判るわよ、当たり前じゃない……自分の娘ですからね」
 判るわよ。
 当たり前じゃない。
 自分の娘ですからね。
 ――救われた。有希子がそう思うのは、妙なことなのかもしれない。けれど、確かに思った。瀬名の母の、ごく当たり前の言葉に。
 救われた、と。
「そう……そう、ですよね。当たり前ですよね」
「ええ。……ねえ、ちょっと、有希子ちゃん大丈夫? さっきからおかしいよ。瀬名になにか」
「大丈夫です、瀬名は平気です――あ」
 閉めた部屋のドアの外で、有希子はかすかに、洗面所の扉が閉まる音を聞いた。
 ――瀬名が戻ってくる。
「すみません、おばさん、訊きたかったのはそれだけです。すみません、失礼します」
「え? ちょっと、有希子ちゃん――」
「――ただいまー」
 なにかを言いかけた電話を強引に切ったのと、部屋のドアが開いて瀬名がひょっこりと顔を出したのと、ほとんど同時だった。
 どこか吹っ切れたような自然な笑顔が苦しくて、
 一瞬息をつめた。
 そして、ほう、と吐いた。
 意味もなく携帯電話を隠すようにしながら、有希子はようやく振り返った。有希子のTシャツとパンツとを身につけた瀬名が、きょとんとしながら有希子を見つめている。
「おかえり」
 笑顔を浮かべたが、もしかしたらぎこちなかったかもしれない。
 瀬名あのね、瀬名のお母さんは、ちゃんと瀬名のことわかってたよ。忘れてないよ。だから安心しても良いんだよ――。そんな言葉が喉元まで出かかったが、無理矢理飲みくだした。わざわざ有希子のほうからこの話題を蒸し返すことはためらわれる。
 それに――もし瀬名に、彼女の母親が彼女のことをきちんと娘として認識していると、そう伝えたとしよう。しかしそれは、あくまで「今」、厳密に言えば「過去」のことなのだ。これから先、瀬名の母が瀬名を娘と認識しなくなることがないとも限らない。否、母親に限らず誰もがそうだ。あるいは、有希子自身も。事実というものは、想像よりももっとずっと不安定で変わりやすいものだから。変わるのは、想像ではない。いつだって事実のほうなのだ。変わる事実に、人はいつだってくるくると振り回される。
 決して変わることない、可能性の上での安心。
 それで、良いのかもしれない。たとえそれが、後ろ向きで不安定な安心だったとしても。下手に安定した安心だったら、足場が崩れたときが怖い。
 現状維持。
 結局はそれを選んだ自分自身に、有希子は思わず苦笑した。お節介にも程がある。緊張に満ち溢れたあの数分間は、いったいなんだったのか――。
「……ユキ、どうしたの? いきなり笑いだすとか気持ち悪いよ」
 瀬名が言うのを聞いて、我に返った。いつの間にか瀬名は部屋のドアを閉めていて、有希子の隣にぺたりと座りこんでいた。シャンプーの匂いがする。いつも当たり前のように着ている部屋着だったが、瀬名が着ていると妙に洒落て見えた。モデルの問題か、と少し悔しく思う。
 開けっ放しの引き出しに、さりげなくアドレス帳を放りこむ。引き出しを閉めるとようやく落ち着きを取り戻して、有希子はにっこりと笑ってみせた。
「別に、なんでもないよ」
 問題集を閉じてテーブルの隅に重ね、空のマグカップを二つまとめて持ち上げる。
「……逆に怪しいわ、その笑顔。ま、良いけどね」
「良いってことにしといて。じゃ、私お風呂入ってくるから。……そうだ、カンナはどうしたの?」
 立ち上がりながら問うと、瀬名は思い出したようにくすくすと笑った。事実思い出し笑いなのだろう。
「私が洗面所のドア閉めたあとも、しばらくドアの前に居たみたいだよ。ときどきにゃーにゃー鳴いてたから。でもそのうち聞こえなくなってね。どうしたんだろうって思って、今、ここに来る前にちょっと見てきたんだけど……お食事中でした」
「あいつらしいや」
 思わず有希子も苦笑した。部屋のドアを開けながら、そういえば、と言いながら振り返る。
「でもマイペースって意味では瀬名も引けを取らないと思うよ、カンナに」
「ええ?」
「瀬名って猫に似てるもん、いろんな意味でね」
「そう? ――あー、そうかもね……そういえば」
 瀬名もどこか納得したように呟く。
 じゃ、お風呂入ってくるよ――。ドアを閉めた有希子の言葉を瀬名がちゃんと認識したのかどうか、有希子には判らなかった。
 妙に気分が高揚していたような気がするのは、たぶん気のせいではないのだろう。
 瀬名の母が瀬名のことを認識している。
 有希子の母が瀬名のことを認識している。
 有希子が瀬名を認識している。
 その「今」という瞬間が存在している、というだけで十分だった。誰もが瀬名のことを認識している、という瞬間を、有希子は確かに確認した。もう、それだけで良いような気がした。その一瞬を抱えたままで過ごせそうな気がした。例え「今」、有希子の母が瀬名のことを忘れてしまったとしても。
 少なくとも――有希子にとっては。
 そうだ。この高揚感は、あくまで有希子だけのものなのだ。瀬名のことなどなにも考えていない。
 どこか捨て鉢になっている、という自覚はあった。
 瀬名も同じ気持ちなのだろうか。
 けれど、
 ――それなんだったら私はこのまま、絶対に崩れない足場の上に立ち続けていたい。
 そう言った瀬名の気持ちは、少し、ほんの少しだけ解るような気がした。


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