gradation

8


  エレベーターに乗りこみ、八階へのボタンを押す。ドアが閉まってようやく、有希子は瀬名の腕を離した。そして、脱力したようにエレベーターの壁に身をもたせかけた。ふう――と、長く深く、息をつく。学校と家とはわりと近いほうだと思っていたが、家までの道のりをこんなにも長く感じたのは初めてだった。
 手を離された腕をどこか心細そうに見、瀬名は小さな声で有希子の名を呼んだ。
「ユキ……」
「ごめん」
「え?」
 短く言う有希子に、瀬名が目を丸くする。有希子は彼女の顔を一瞬だけ見て、また目を伏せた。――自分がなにをどうしたいのか、自分でもよく解っていなかった。ただ、なんの考えもなしに瀬名を連れだしてしまったことは少しだけ後悔していた。瀬名が、そして有希子がもうあそこに居られないということだけは、少なくともはっきりしていたのだけれど――。
「全然、なんにも考えられなかった……ごめん、よく解んないけど、うちまで来ちゃったみたい」
 上昇を続けるエレベーターは、確実に、有希子と瀬名とを有希子の家へと運んでいた。
 両腕を組むふりをして、有希子は自分自身をそっと抱きしめた。
「……ごめん」
 うつむいたままでもう一度、今度はゆっくりと、謝った。
 瀬名がゆっくりとかぶりを振ったのが、辛うじて視界の隅に見えた。
「ううん……良いよ。ちょっとびっくりしただけ。むしろ、ありがとう」
「え?」
 今度は有希子が目を丸くする番だった。顔を上げると、瀬名と眼が合う。どこか困ったような微笑を浮かべて、彼女もまた、エレベーターの壁にもたれかかっていた。
「ありがとう、私をあそこから連れだしてくれて――あと、独りにしないでくれて」
 あれ以上あそこに居たら正直発狂してたかもしれないわ、と、瀬名は軽く肩をすくめて言った。照れ隠しのように。彼女の軽い仕草に半ばつられるようにして、有希子も曖昧に笑う。同じように軽く笑う気には、どうしてもなれなかった。
 ――チン、と音がして、エレベーターが止まる。ほとんど反射的に階数表示を見上げると、八階です、という無機質な声と共に、ドアが音もなく開いた。
 瀬名と一瞬、顔を見合わせた。
 それから、たぶん同時に頷いた。そうでもしないと――きっと永遠に、エレベーターの外に出られなかっただろうから。
 ローファーを履いた足を、ゆっくりとエレベーターの外へと踏み出した。慎重に二人並んで歩く様子は、傍から見たらさぞ滑稽に映ることだろう。
 ――それでも、私たちはこうするしかないんだ。
 私たち、と、無意識のうちに瀬名と自分とをひとくくりにしている自分に気づいて、有希子はほんのわずかに唇に笑みを浮かべた。困惑と涙と自嘲と、それから名前すらないような感情たちの入り混じった笑みを。
 最後に瀬名を家に呼んだのは、いつのことだっただろう。ふと、そんなことを思った。勉強を教えてもらったこともあったし、お菓子を片手に延々と喋り続けるようなことも多かった。瀬名が一人暮らしを始めてからは、ときどき一緒に夕飯を食べたり、家に泊めたりもしていた。だから、このマンションの八階の廊下も、数限りなく、瀬名と並んで歩いているはずなのだ。
 なのに――。
 辻本、と明朝体で書かれた見慣れた表札を、有希子はどこか複雑な思いで見た。隣を見ると、瀬名が立って同じように表札を見ている。彼女の心情を想像してみようかと思ったが、やめた。有希子になど想像できるわけがない――それは、間違いなく。
 努めて何気ない調子で通学鞄を開け、しばらく探ってからようやく鍵を取りだす。取りだしたそれを鍵穴に突っこんで回す、という、ただそれだけのことがやけにやりにくかった。手がかじかんでいるせいなのだろう――きっと。
 ガチャ、と音がして、鍵が開いた。ドアノブに手をかけ、今度はためらわずに勢いよくドアを開ける。
「ただいまー」
「おかえりー」
 リビングのほうからすぐに母の声がする。反射的に左腕の腕時計に視線を落としてみると、まだ四時半になったばかりだった。さすがにこの時間では夕飯の支度などしていないらしい。
 とりあえず入って、と眼で合図し、有希子は靴を脱いだ。勝手知ったる他人の家、とでも言うのか、瀬名もごく自然に靴を脱ぐ。有希子が客用スリッパを引っぱり出して彼女の前に出すと、ありがとう、と、はにかんだような小さな礼が返ってきた。
 瀬名と二人でぱたぱたとスリッパを鳴らしながら、有希子はひょいとリビングを覗きこんだ。案の定、母はソファに座ってコーヒー片手にテレビを見ていた。膝の上には、指定席とばかりに黒猫がうずくまって眠っている。他に暖かい場所はいくらでもあるだろうに、どうもこの飼い猫は、人の膝の上が好きらしかった。
 母はふと、顔を上げた。
「おかえり、早かったね?」
「うん……まあ、ちょっと、いろいろあってね。それであの、今日瀬名がうちに泊まるから。だよね瀬名」
 そう早口に言って、瀬名を振り返った。完全に――事後承諾だ。それでも瀬名は不審そうな顔ひとつしないで、ややこわばってはいたものの微苦笑すら浮かべてぺこりと頭を下げた。
「すみません、突然押しかけて――」
「あら、それは構わないけれど。なんだか久しぶりね、瀬名ちゃんがうちに泊まるのも?」
 ねえ、と嬉しそうな顔をして、母はおっとりと有希子に言った。どうにも笑うに笑えず、有希子は「そうだね」と適当な言葉で適当に流すことにした。
「じゃあ、とりあえず部屋に居るから……あ、おやつだけもらってこ」
「大したものないよ?」
「良いよ別に、大した女子高生でもないんだから」
 からかうような母の物言いに、いつもと同じ調子で返す。
「そうだ、晩ごはん、なに?」
 徹底的にいつもと同じである自分自身に、なぜだか違和感すら覚えた。
「肉じゃがかな……瀬名ちゃん、肉じゃがは好き?」
「……はい、大好きです」
 瀬名がはにかんだように笑う。今度は自然に。
 ああ――そうか。
 瀬名の言葉を聞いて、瀬名の表情を見て、それから自分の振る舞いを見て、有希子はようやく気がついた。
 そうか、だから瀬名は、徹底的にいつもどおりだったのか。
 いつもの瀬名と、みんなに忘れ去られつつある瀬名とは、彼女の中では、たぶん既に別人なのだろう。行くところまで行きついてしまったと――それはきっと、そういうことなのだろう。
 いったいなにが、穏やかなものか。
「瀬名、先に部屋行っといてくれる? 私コーヒー淹れてから行くから」
「OK」
 笑顔で応え、瀬名は有希子の母に会釈してから、くるりとこちらに背を見せて有希子の部屋へと向かっていった。彼女の後姿に微笑を向けながら、有希子はほとんど無意識のうちに襟元に手を触れた。――氷のように冷えきった手がじかに首に触れ、その冷たさに思わず目を瞑る。そしてようやく気がついた。そこに、外すべきものは存在しないということに。
 いつもしているマフラーも手袋も、通学鞄の中で静かに眠っているということに。
 今更のように、冷たい両手に息を吐きかけ、それからこすりあわせて温める。全然寒さなんて感じなかったのに、と、口には出さずにそう呟いた。そして一瞬置いてから、――泣き笑いのように、わずかに唇を歪める。
 馬鹿みたい。そんな余裕もなかったんだ。


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