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「あ、こんにちはー。ユキせんぱーい、クッキーいりません?」
 美術室に入るなりそんな声に出迎えられ、挨拶のタイミングを逃してしまった。
「……へ?」
 目を白黒させながら辺りを見回すと、美術室の真ん中辺りに数人が集まっている。その中で顔を上げた瀬名が、にっこりと笑って手招きしてきた。
「早く早く、ふみちゃんの手作りクッキーよ」
「……クッキー?」
「クッキーです。私、昨日焼いてきたんですよ」
「あのね先輩、聞いてくださいよう。ふみちゃんったら好きな人の誕生日にクッキーあげようとしたんですけどその人今日休みであげそこねて」
「――余計なこと言わない!」
「だから半分ヤケになってるんですこの子」
「黙れー!」
 顔を真っ赤にしながら、彼女が大袈裟な身振りで残りの二人に殴りかかる真似をする。――賑やかな一年生の三人組がきゃあきゃあ言っている中、呆然としながらもう一度瀬名を見る。彼女の苦笑で自分を落ち着かせてようやく、苦笑を返した。事情がよく飲みこめないことには変わりなかったが、後輩たちが口にしたことですべてなのだろう、たぶん。
 とりあえず荷物を近くの机の上に置き、小走りで人垣へと向かう。なるほど、人垣の中心にある机の上には、確かに手作りと思しきクッキーが広げられていた。それなりのラッピングがされていた形跡があるが、今は無残に引き裂かれて、パステルグリーンの袋がパステルグリーンの紙ナプキンへと退化を遂げていた。――それにしても、「好きな人へのプレゼント」にしては量がいささか多いような気もしないではない。だがそこは詮索しないのが華なのだろう。きっと。
「で、なになに? そんな大事なクッキー、私たちが食べ散らかしちゃっても良いわけ?」
「良いんです」
 有希子の問いに真顔で答えた後輩に、瀬名がくすくす笑いながら駄目押しをする。
「まあ、そのほうがある意味傷は浅くて済むかもね」
「……それがいちばんダメージ大きいですう」
 大袈裟に彼女が肩を落とし、途端にどっと場が沸いた。
「じゃあ、早速頂きますかね」
「どうぞどうぞ、遠慮なく」
「ふみちゃんの傷をお癒し申し上げるために、いざ!」
「だーまーれー」
 わけの解らないことをそれぞれ勝手に言いながら、人垣がほとんど同時にクッキーの小山に手を伸ばした。こんがりと狐色に焼きあがったチョコチップクッキー。この賑やかな後輩が一体どこの誰に誕生日プレゼントをあげようとしたのかは知らないが、それにしても今時珍しいことをする高校生が居たものである。天然記念物モノだ、と、有希子は口には出さずに思った。相手が欠席していたというのが惜しい。じつに惜しい。
 ――まあ、笑っちゃ悪いんだろうけどなあ……ふみちゃんもマジだったんだろうし。
 クッキーをかじりながらそんなことを思う。解ってはいるのだが、それでも妙に笑いを誘われてしまうことに変わりはなかった。ただ、場を和ませる類の笑いではある。
 チョコチップの量が少しばかり多いような気もしたが、おいしいクッキーだった。
 瀬名と視線を交わしてくすり、と笑い、有希子は遠慮なく二枚目に手を伸ばした。それからちらりと後輩三人組を見る。顔を真っ赤にしながらもなんとか「正常モード」に戻ったらしい彼女にまたくすりと笑って、クッキーを口に入れた。――青春、してますねえ。
「ねえねえ、これ作りかた教えてくれない? 私も作ってみようかなあ」
「良いですよ。でも普通のチョコチップクッキーですけど」
「あんまりお菓子とか作んないからさ、作りかたわかんないんだ」
「じゃ、今度レシピ持ってきますよ」
「ありがとー」
 右手を顔の前で垂直に立てて有希子が言うと、瀬名が楽しそうに、独り言じみた言葉を転がした。
「クッキーは良いよねえ。チョコチップとかココアとかアーモンドとか、アレンジし放題だもん」
「あ、じゃあ今度美術部クッキー大会やる? みんなでいろいろ作ってくるの」
「絵描きなさいよ、絵。部展に間にあうの?」
「良いじゃん良いじゃん、なんとかなるって」
「絶対誰かゲテモノ作ってきますよ、そんなのやったら」
「じゃ、ちりめんじゃこと葱とか」
「香ばしいなあ」
「もっと行こう、納豆!」
「えー、ねばねばじゃないですか」
「ていうか結構ベタだよね納豆ってさ」
「ゲテモノの代表格?」
「納豆に失礼だよそれ」
「――こんにちはー」
 誰かの言葉に重なるようにして、聞き慣れた声が美術室の中にやってきた。
 顔を上げてその姿を認め、有希子は彼女に向かって、その場の勢いで意味もなく右手を振った。
「あ、牧ちゃん、こんちはー」
「なになに? いやに賑やかじゃん。このあたしを差し置いて!」
「牧ちゃんが遅いからでしょ。ていうか、なんかあったの?」
「君には関係ないかもしれないけど、今日は英単語の再テストなのだよ、辻本君」
 真顔で言いながら、史織は適当な場所に荷物を下ろした。――思わず、瀬名と有希子は吹きだした。一年生三人組は笑うに笑えないらしく、互いに顔を見あわせてわずかに苦笑している。そういうところは妙に固いらしい。
 荷物を置くや否や、興味津々といった面持ちで史織がこちらにやってくる。その途中でふと、史織と瀬名の眼が合った。条件反射でふわりと微笑む瀬名に、史織も無邪気な笑顔を返す。
 そして言った。

「あ、お客さん? いらっしゃい」

 顔が引き攣るのをはっきりと感じた。

「牧ちゃん……今、なんて?」
 思わず口にした言葉がこわばっていた。
 視線を瀬名から有希子へ移すと、史織はきょとんとしながら首を傾げた。
「え、いらっしゃいって言っただけだけど……なんかまずかった?」
「そうじゃなくて、お客さん、て」
「違うの? 部員じゃない子はお客さまでしょ」
 有希子は、絶句した。
 史織も――史織も、瀬名を忘れてしまった?
「ちょ……ユキ、どうしたの? あたしなんか変なこと言った?」
 史織がうろたえている。困ったような眼が有希子を見つめ、それから諦めたように一年生の集団へと向いた。
 ――そうだ、一年生。
 がばりと振り返ると、三人同時に身を縮めた。まるで怯えるように。
「ふみちゃん――ふみちゃんは」
「あの……」
「答えて、福田瀬名のことがわかる?」
 名を呼ばれた彼女は困惑に満ちた表情を浮かべ、左右に居る友人たちを盗み見た。有希子の視線もそれに沿って移動し、更に呼びかける。
「あいちゃん――」
 名を呼ばれた彼女がうつむいた。
「さっちゃん――?」
 名を呼ばれた彼女が視線を逸らした。
 そして、いつもとは打って変わった調子で言った。
「ずっと……ユキ先輩の、お友達だと……」
「嘘」
 ずっと――ずっと?
「ずっとって――ずっとって、いつから? いつから瀬名のこと――!」
「ユキ」
 驚くほど穏やかな瀬名の声で、有希子ははっと口をつぐんだ。
 振り返ると、瀬名はただ、いつもどおりの顔をしていつもどおりに立っていた。美術室の中に瀬名が立っている。そんな当たり前の光景が、有希子の目の前に在る。
 違うのは一つだけ。
 瀬名を見つめる皆の視線――。
「瀬名……」
 自分よりよほど落ち着いている瀬名の姿に、有希子は急速に落ち着きを取り戻していった。ただ、心臓の鼓動はどくどくと大きく速く続いている。そういえばいつからこんなにも速かったのだろう。史織の言葉を聞いたときに一度止まって、それから跳ねあがったのだろうか。
 史織――そうだ、史織だ。
 昨日は、彼女もはっきりと瀬名のことをわかっていた。けれど今日突然、瀬名のことを「知らない人」だと認識した――。
 それだけだった。
 前兆などない。昨日まで知っていた人物を、今日突然忘れてしまう。瀬名は忽然と、史織の中から姿を消した。
 そんなものなのか。その程度のものだったのか。牧史織にとっての、福田瀬名という存在は。瀬名の担任教師にとっての。瀬名のクラスメートにとっての。
 後輩たちはどうなのだろう。彼女たちの明るさのおかげで――「後輩」であるがゆえなのかもしれない――彼女たちが瀬名を忘れていたということに、気づかなかった。誰も。たぶん、当の瀬名でさえも。
 記憶というものは、こんなにも儚いものなのか。
 私も。
 ――私もそのうち、瀬名を忘れてしまうのだろうか?
 瀬名は優しい眼で後輩たちを見ている。後輩たちは救いを求める眼で史織を見ている。史織は混乱した眼で有希子を見ている。有希子はどこかすがるような眼で、瀬名を見ている。
 視線がぐるぐる廻る。けれど完全であるはずのその輪の中には、いまや完全な溝が存在していた。
「いやだ……厭だよ」
 瀬名の横顔に、有希子はうわごとのように言った。
 声がかすれていた。
 たぶん、恐怖していた。
 瀬名と有希子以外には誰も知らない恐怖。
 瀬名と有希子以外は忘れてしまった恐怖。
 はっきりと、明確な形をもって、目の前に突きつけられた恐怖。
 忘れられるか、忘れていくか。
 どちらをとったとしても、それは間違いなく、抗いようのない強い恐怖と結びついていた。
 怖くないの、と、声には出さず瀬名に呼びかけた。出せなかった。声になど。――私はこんなに怖いのに。瀬名は、忘れられているんだよ。怖いんでしょう。怖いって言ったじゃない。なのにどうしてそんな顔ができるの。私は怖い。段々瀬名のことを忘れていくみんなが、瀬名という存在が抹消されてしまうことが、記憶の曖昧さが、瀬名を忘れてしまうかもしれない自分が、
 ――怖い。
「ユキ」
 瀬名の眼が有希子を見た。子供をあやす母親の眼に、よく似た眼だった。あの日見せた、焦点の合わない揺れた眼とは違う。違いすぎて、逆に心配になるような――
「もう良いよ」
「良いって……なにが良いの? 解んないよ、全然解んない……どうして」
 どうしてみんな、瀬名のことを忘れていってしまうの。
「良いの」
 にこり、と、瀬名は有希子に向かって笑った。それから振り返り、史織や後輩たちを見た。――まだ状況を飲みこめていないであろう史織が大袈裟なほど身を震わせたのを、有希子は見た。
「ごめんなさい、なんだか変なことになっちゃって」
 瀬名の仕草のひとつひとつが寂しそうに見えるのは、気のせいなのだろうか。
 後輩たちと顔を見あわせた史織が、おずおずと口を開く。
「いや、その……。あたしたちこそ、なにか変なこと言っちゃったみたいで」
「ううん、なんにも変じゃない」
 いつもどおりの穏やかな優しい笑みを崩さないままで、瀬名はゆっくりと首を振った。セミロングの髪がさらさらと揺れる。恐ろしく重い空気の中、その動きだけがいやに軽やかだった。
 ――有希子の気のせいなのだろうか。彼女の仕草のひとつひとつが、どうしようもなく痛々しく思えるのは。
「部員でもない人が他人なのは当たり前ですよね」
 歌うように、独り言のように、それでいて他人行儀に、瀬名は言っている。いつもと同じ、穏やかな表情で。彼女以外の者だけが、戸惑っている。あるいは強く恐怖している。
「当たり前のことを言うのは当たり前……」
 それとも逆なのか。彼女だけが、戸惑う余裕も恐怖する余裕も失くしている――
「瀬名、やめて」
 耐えきれなくなって、有希子は強い調子で言った。
 気づいたように、瀬名は振り返る。両の眼で有希子を見て、わずか目を見開いた。まるで、たったいま有希子の存在に気がついたとでもいうかのように。ずっと隣に立っていた有希子の存在に。
 ――もう駄目、限界だ。瀬名も、それから私も。
 隣に呆然と立っている瀬名の腕を、有希子は強い力で握った。驚いて視線を落とす彼女に、はっきりと言う。
「帰ろう」
「え……」
 顔を上げた瀬名の眼をじっと覗きこむ。眼の奥になにかが見えはしないかと思ったが、よく判らなかった。
「帰ろう。――もう、持たないよ」
 もしかしたら、揺れているのは有希子の眼のほうなのかもしれない。震えているのは、瀬名の腕を強く強く握っている有希子の手のほうなのかもしれない。制服のブレザー越しにもはっきりと伝わる震えなんてあるものか――。
 ぎゅ、とひときわ強く瀬名の腕を握り、有希子は無理矢理に彼女の腕を引っぱって歩きだした。
 驚いてはいるものの、瀬名はさして抵抗するような素振りも見せず、されるがままに歩きだした。自然と人垣が割れ、有希子はなにも言わずにその間をすり抜けて歩いていく。こわばった表情の間を、こわばった表情の有希子が唇を結んだ瀬名の手を引いていく。けれど途中できちんと自分の荷物を拾っていくあたり、瀬名は完全に平静を保っているように思えた。――慣れか、麻痺か、それとも本当になにもダメージを受けていないのか。いずれにしろ問題ではある、と思う。
 通学鞄を持ち上げた左手が震えて仕方ない。
 例のごとく開け放しの入り口から廊下に出ようとした瞬間、史織が有希子の名を呼んだ。
「ユキ……」
 どうして良いのか判らない、というような揺れた口調。
 振り返ると、半分泣きそうになっている後輩の姿が見てとれた。史織は史織で、胸の前で拳を握りしめ唇を結んでいる。
 たぶん、誰も彼もが混乱しているのだろう。原因はそれぞれに違うのだろうけれど。なにを言って良いのかわからないのは、有希子とて同じだった。
 そのとき、有希子に手を引かれている瀬名が後ろを振り返った。
「……ごめんね」
 あくまで優しい声で、困ったような穏やかな声で――いつもの口調で。瀬名は、それだけを口にした。
 彼女に呼びかける名前を知らない美術部員たちは、ただ、戸惑いに満ち溢れた表情でじっとこちらを見つめていた。
 有希子は、きゅっと唇を結んだ。
 意図的に、史織たちから視線を逸らす。
 視線の先では――どこか哀しげな眼をした瀬名の自画像が、消え入りそうな淡い色をして、キャンバスの向こうで目を伏せていた。


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