gradation

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 一人暮らしを早くしてみたい、と思う。だから初めて瀬名の家に遊びに行ったとき、有希子が最初に思ったのは、ただ単純に「羨ましい」ということだった。――炊事洗濯掃除とかいろいろ大変なんだよ、と、苦笑した瀬名に教えてもらっても。
 高校一年生の冬に両親の転勤が決まり、幼い弟を連れた両親だけが引っ越した。高校は卒業したいと頼みこんで瀬名だけが残り、小さなアパートを借りての一人暮らし――そう聞いたのは、いったいいつのことだっただろうか。引っ越し前ではあったが、そんなに昔ではないはずだ。瀬名が一人暮らしを始めたのが一年前のことなのだから、せいぜいここ一年くらいのことだろう。もうずいぶん昔のことであるように感じてしまうのだが。そういえば、福田家が引っ越していくときにも、瀬名がこのアパートに引っ越してきたときにも、有希子は手伝った覚えがある。
 それなりに古いはずだが小綺麗な一室。小さなキッチンでインスタントコーヒーを淹れている瀬名を見ながら、有希子はつらつらとそんなことを考えていた。猫を飼いたいんだけど一人暮らしじゃ無理かなあ、と、そうも言っていたような気がする。あれは、有希子の家で黒猫を撫でながらの台詞だったか。
 やがてマグカップを両手に一つずつ持った瀬名が、有希子のもとへ歩いてきながら言った。
「チョコ食べる?」
「あ、ポテチ持ってきたよ」
「じゃチョコ要らないかな」
「要る要る」
「がっつくなぁ」
 苦笑してみせる瀬名からマグカップを受けとり、有希子は悪戯っぽく笑った。瀬名は瀬名で、近くにあった小さなテーブルを引き寄せてきて上にカップを置き、大袈裟に肩をすくめてから有希子に背を向けた。近くの棚を開けたかと思うと、中からはすぐにチョコレートの箱が出てくる。これがもし有希子の一人暮らしであったら、きっとこうはいくまい――考えることもせずにそう確信した。根拠は日頃の行いに在る。
「サンキュ。こっちも開けるよー」
「開けて開けてー。あ、でも全部食べたりしないでよ」
「冗談」
「やりかねない」
 ポテトチップスの袋を勢いよく開け、二枚取って、瀬名に渡す。瀬名も慎重に手を入れ、一枚つまんでから、マグカップの隣に置いた。
 ポテトチップスを二枚同時に齧りながら、マグカップを両手で包む。
 ミルクと砂糖をたっぷり入れた、不透明なカフェオレの液面。そこから白い湯気がゆらりゆらりと出ては、空気に溶けて消えていく。――どんな色の飲み物からでも白い湯気が出るというのは、なんだか不思議なことのように思える。昔誰かにそう言ったら笑われたっけ。
 有希子は熱い甘い液体を喉に流した。ほう、と息をつくと、やはり白い息が空気に溶けて消えていく。
 瀬名がチョコレートの箱を開けている。そちらにも遠慮なく手を伸ばしながら、有希子は言った。
「瀬名ん家来るたびに思うんだけどさ、どーやったらこんなに綺麗にお部屋を保てるんですか……私の部屋なんか悲惨だよ」
 有希子の部屋の様子を思い浮かべたのか、瀬名はくすり、と笑った。散らかっていることは十分承知しているがいざ笑われるとちょっとだけ悔しい。
「そんなひどくもないと思うけど……でも、どうやったらって言われてもなあ。別に私は普通にしてるつもりだよ」
「いや、絶対普通じゃない。この綺麗さはおかしい」
「そりゃどうも。A型だからね」
「私もAだって」
「知ってるよ。でもアテにならないものよ、血液型なんて」
「じゃあソレを理由にしない。矛盾してんじゃん」
「変なトコ細かいなあ。やっぱりA型だね、ユキは」
 ころころ笑いながら、瀬名はチョコレートをかじった。変ってなによ変って、とぶつぶつ言いながら、有希子もポテトチップスを食べる。――わりと大きいサイズだったはずだが一気に口に入れてしまったことに気づいて、噛みながら思わず苦笑した。
「A型といえばさあ、うちの担任A型なんだって」
 有希子はポテトチップスを飲みこみ、笑いを噛み殺しながら言った。
「……嘘、田嶋先生が?」
 半端な沈黙のあとで、瀬名はわずかに笑う。
「そうそう――田嶋先生が」
 そのときの状況が鮮明に思い出され、有希子は笑いをこらえるので精一杯だった。いったいなにが引き金になったのかは忘れてしまったが、とにかく、授業中に彼が自分から言ったということは確かだ。じつに大雑把な性格をしていることで有名な教師だが、おかげでその「告白」の瞬間、大ブーイングが起こってしまったのだ――。かく言う有希子も、隣のクラスから苦情がくるほどのブーイングを構成していた一人である。
「ねえねえ、稲村先生は何型なの? 瀬名知ってる?」
 思い出し笑いを隠すこともせずに、有希子はなにげなく、瀬名のクラスの担任の名前を口にした。
 ――反応は、返ってこなかった。
 中途半端な沈黙が訪れたことに気づいて、有希子はようやく笑いを引っこめた。なんとなく気まずくなって瀬名を見る。なにか変なことを言ってしまっただろうか。そう気にしながら。
「稲村先生……か……」
 瀬名はマグカップを持って、口元にこわばったような笑みを貼りつけながらカフェオレを見つめている。――小刻みに、液面に波が広がる。
 震えている?
「瀬名」
 思わず名を呼ぶと、彼女ははっと顔を上げた。同時に、マグカップが手の中から滑り落ちる。
「あ――」
 目を見開く有希子の前で、マグカップがまっすぐに落ちる。床に当たる。カフェオレ色が跳ねる。傾く。倒れる。こぼれる。無様に中身を撒きちらしながら転がったそれは、有希子の膝に当たってようやく動きを止めた。
 温かい、甘ったるい匂いがした。
「ちょ、瀬名、大丈夫?」
 瀬名の白いスカートに、くっきりとカフェオレの染み。染み抜きしなくちゃ――と、最初に思ったのは、そんな日常に埋没しきったことだった。
 ほとんど反射的に、スカートに手を伸ばす。指先が触れた瞬間、――びくり、と、瀬名は大袈裟なほどに反応した。
 顔を上げる。瀬名は、マグカップを落とす前と寸分違わぬ姿勢で呆然としていた。
「……瀬名?」
 再度名を呼ぶと、彼女はようやく有希子を見た。ほんの一分前にはいつものように――いつものように?――笑っていたその顔に、今や笑みはない。代わりに、久しく見たことのなかった表情がそこに居座っていた。
 怯え?
「どうしたの」
「……思い、だした」
 小さな声で答え、瀬名はぎこちなく、力なく、笑みを浮かべようとしてみせた。ただそれは笑みにはなりきれず、彼女の顔はどこか泣き顔に近い歪みをみせている。
 無意識のうちに、有希子は床に手をついた。ぶちまけられたカフェオレに指が触れ、慌てて引っこめる。先程までは確かに温かかったはずの液体は、奇妙にべたついてぬるくなっていた。
 カフェオレに触れた右手を左手で包みこみながら、問うた。
「思い出したって――」
 なにを。
 言葉は喉に引っかかって、なぜか巧く出なかった。
 笑みになりきれない奇妙に歪んだ顔が、有希子を見ている。焦点が揺れていた。
「稲村先生が……先生で、思い出した」
 ――瀬名のこんな顔、見たのいつ以来だろう?
「先生が」
 ――もしかして初めてなのかな。
「私の顔を見て」
 ――長いつきあいなのに。小学校から一緒なのに。いじけてるのはいつも私。慰めてくれたのは、応援してくれたのは、激励してくれたのは、いつも瀬名。そうだ。そうじゃないとおかしいじゃないか。どうして瀬名がこんな顔をしなくちゃいけないんだろう。おかしいじゃないか。おかしい――
「君は何組の子だい、って」
「瀬名……」
「今まで不思議そうな眼で私のことを見ていた子たちが」
「瀬名!」
 叫んでも、瀬名の言葉は止まってくれなかった。
「――ほらやっぱり、って」
 泣いてはいない。泣きだしそうなのはむしろ有希子のほうだった。けれど瀬名が泣いていないからこそ、彼女を見ていられない。
 瀬名が有希子の眼の奥を見ている。
 眼が離せない。
「きっと」
 瀬名の歪んだ顔が、ようやく、なんとか笑みを形づくった。力ない、どこか自嘲めいた、意図的に明るくしているような、苦笑いに近いような、――微笑。

「忘れられていく、病気なんだ――」

 有希子は、瀬名を抱きすくめた。
 見ようとしていなかったものが、ありえないと思っていたものが、恐れていたものが、いま現実に此処に在る。
 ――嫌がらせなどではなかったのだ。彼らは本当に、瀬名のことがわからなくなっていたのだ。
 福田瀬名という人間が、少しずつ周囲の記憶から消えていく。
 それが現実だったのだ。
 瀬名を抱きしめた身体が震えていた。それは瀬名の震えなのか。それとも有希子の。
「ユキ」
「大丈夫――大丈夫」
 なにが、なにが大丈夫なものか。
 解ってはいても、言わずにはいられなかった。否、それ以外になにが言えただろうか。
 きゅっ、と、瀬名の身体が一瞬こわばった。抱きしめられているだけでただじっとしていた彼女が、唐突に、有希子のセーターの裾を握りしめた。
「怖いんだ……」
 絞りだすような、かすれた声で。
「そのうちみんなが私のことを忘れてしまうんじゃないかって。牧ちゃんも、ユキも」
「そんなことない――私は絶対、絶対忘れない」
 いったいなにを言っているのだろう。世の中に「絶対」などありはしないのに――絶対に。だからこそ、有希子はこうして瀬名を抱きしめて震えているのではないのか。
 自分が瀬名を忘れてしまうのではないかと。
 自分の言葉が軽すぎる。
 床にこぼれたカフェオレが冷たい。
 ふ、と腕の力を弱めて、有希子は瀬名の両肩に手を置いた。それからゆっくりと身体を離し、瀬名の顔を見る。眼はきちんと焦点が合っている。ただし、怯えはまだ消えていない。
 うつむいて顔を逸らし、有希子と眼を合わせようとしない瀬名に、有希子は言った。言いきかせるように。
「ね、まだ判らないよ……誰もがみんな瀬名のことを忘れてしまうって、決まったわけじゃないもの」
 解っている。こんな台詞、気休めにもなりはしない。
「そんなに仲の良くなかった子ばっかりでしょ? 私だって牧ちゃんだって、美術部のみんなだって、ちゃんと瀬名のことはわかってる」
 けれど沈黙は怖かった。
「……だけど」
 否定の言葉はもっと怖かった。
「病気なんだったら――」
 だから喋るしかなかった。
「病気って言ったよね、瀬名。病気だったら治るよ、治るったら治るんだから……」
 熱いものがこみ上げてきたが、必死の思いで抑えつけた。――私が泣いたらどうしようもない。私が瀬名を安心させてあげないといけない。その私がどうして泣けるだろうか。
 ともすれば口にしてしまいそうになる泣き言を、ともすれば流れそうになる涙と一緒に無理矢理飲みこんだ。
 瀬名はうつむいている。
 有希子は顔だけ瀬名に向けて、それでも視線は下に落としている。拭かれもせずに放置された、冷めきったカフェオレの水溜り。そこに、自分がぼんやりと映っていた。
「……部活には、行くよ」
 重い沈黙があったあとで、瀬名はぽつりと、呟いた。
 クラスには行けない――言外に、そんな言葉を滲ませて。


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