gradation

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  緑色と群青を筆にとって混ぜ、調子を見る。少し迷ってから水色を足す。またしばらく混ぜてようやく、有希子は筆をキャンバスの上に下ろした。色だけは神経質に調子を見るけれど、一度キャンバスに筆を下ろしてしまえばあとは豪快なものだった。豪快じゃないと油絵なんてやってられない――とは、史織の弁だったか。
 青みの緑、黄みの緑、淡い緑。キャンバスの上で、緑色が乱舞する。
 風景画が、好きだった。
 どうしてなのかは自分でもよくわからないけれど、ただ好きなのだ。人物画より、静物画より、風景画が。普段見ている何気ない景色を自分の手でキャンバスの上に描きだす――その過程が好きなのかもしれない。そう自己分析をはかってみたこともあったけれど、いまひとつしっくりこなくてやめた。好きだから好きなのだ。それで良い。どちらにしろただの趣味なのだから。
 慎重に筆を動かし、木に葉を一枚描き加えた。
 ついでに筆を換えて枝も描き足した。
 ふう、と息をついて――キャンバスから離れる。数歩離れて立ち止まり、近くにあった椅子を引いてきてそこに座った。
 街路樹から漏れでる陽の光――描きはじめたときには我ながらなんて無謀なことをするんだろうと思ったものだが、やってみたらやってみたでそれなりに様になるものである。まだまだ未熟な絵ではあるけれど。
 ふと筆を止め、大した意味もなく視線を宙に泳がせた。
 土日、なにしようかな――。
 ぼんやりと考えはじめたとき、視界の隅に瀬名の姿が見えた。相も変わらず黙々とキャンバスに向かっている瀬名の姿が。
 ――そして今日もきっと、何人かの生徒が瀬名のことを無視していったのだろう。根拠はないけれど、確信を持ってそう思った。
 あれから、史織と例の嫌がらせについては話していない。というよりも、お互いに、意図的に避けているかのような節がある。今日こそは近況を訊いてみないと、と毎日のように思っているけれどできていない。しかも幸か不幸か、史織は今日は部活に姿を見せていなかった。元気がとりえの部長様が、珍しいこともあるものだ。補習でもあるのかもしれない。
 つまるところ、所詮は二年三組の一員である有希子は、二年二組における瀬名の現在の状況を知らない。だからはっきりどうだということは言えないけれど――でもきっと間違いなく、あれは水面下で進行中の現象なのだろう。
 あの、ただの嫌がらせは。
 もちろん、瀬名のことをちゃんと知っている、という人のほうがずっと多い。けれど、福田瀬名なんか知らない、という生徒が――もともと知っているはずなのに――学年内に、もしかしたら学校内に増えていく。それが不安で仕方がないのだ。常識的に考えてそんなことはありえないのだと解ってはいても。
 段々と瀬名が消えていってしまうのではないかと。
 繋ぎとめておかないと。
「瀬名」
 ――気がついたときには、有希子は瀬名に声をかけていた。皆がそれぞれにイーゼルやら絵の具やらを広げていて静かであったせいか、小さかったはずの呼び声がやけに大きく響く。
 瀬名の白い顔がこちらを向いた。キャンバスに向かっていたときのままの真顔がまともに有希子を見て、思わずどきりとする。
「なに?」
「……ちょ、そこまで怖い顔しなくても」
「え? ――あ、ごめん」
 思わず言った言葉に瀬名がきょとんとし、それから自分の表情に気づいてかふっと頬を緩ませて苦笑した。よほど真剣に描いていたらしい。邪魔して悪いことしたかな、と一瞬思ったがもう遅い。
「ええと……土日暇かな、って思ってさ」
 やや口ごもりながらもなんとかそれだけ言うと、瀬名の表情が、すぐにそれと知れるほどにぱっと明るくなった。
 ――ああ、やっぱり応えてるんだ。ほとんど反射的にそんなことを思い、思うと同時にどこかがちくりと痛くなる。
「空いてるよ」
 笑顔と一緒に答えが返ってきて、有希子もようやく笑った。
「じゃ、久々に遊びに行っても良い?」
「もちろん。……また数学でも解らなくなったの?」
 からかうように言う瀬名に、有希子は筆を垂直に立てながら真顔で言った。
「解らないのはいつものことだけど、そっちは大丈夫、たぶん」
「たぶんって」
 くすくすと、瀬名が笑う。つられて、有希子もまた笑った。
 有希子と瀬名に触発されたかのように、美術室の中にお喋りの波が静かに、しかし賑やかに広がっていく。静寂も良いが、適度なお喋りの中も心地良い。――賑やかさには種類があって、その種類にはやはり向き不向きがあるのだ。かねがね思っていたことを、再び実感した。
「じゃあ、部屋を片づけておかなくちゃ。――土曜にする、日曜にする?」
「私はどっちでも良いけど、じゃあ土曜、明日」
「うわ、どこまでも掃除させない気だな。ひどい」
「掃除なんかしなくても綺麗でしょ、瀬名の部屋なんか」
「馬鹿なこと言わないで、平日に掃除できないんだから金曜土曜なんていちばん汚いのよ――まあ良いか、悪あがきして片づけとくよ」
「よろしくー」
 手を振る代わりに、立てた筆を笑いながら左右に振る。勢いをつけすぎたのか筆が頬をかすめたが、大して気にしなかった。手の甲でごしごしとこすってごまかす。――けれど、こすったあとの手の甲に鮮やかな青がついているのに気づいて思い直した。あとで鏡を見ておこう。
 机を隔てた向こう側で、一年生がどっと笑い声をあげた。瀬名と一瞬顔を見合わせて苦笑し、そのままの表情で一年生たちのほうを向く。
「音量はほどほどにねー。まあ私も人のこと言えないけど」
「あ、すみません」
「でも先輩、ふみちゃんってば凄いんですよー」
「え、なになに?」
 パレットを持ったまま、彼女たちの話の中を覗きこみに行く。絵はどうしようかなと少しだけ思ったけれど、息抜きくらいは良いだろう。息抜きしかしていないような気がしなくもないが。
 輪の中に混ぜてもらう前に、有希子は瀬名を振り返った。特に意味もない行動だったけれど、それでも彼女が微苦笑を返してくれたことに安心し――ミイラ取りがミイラになってるんじゃない、と彼女の眼が言っていた――、そして有希子は、ささやかな息抜きのために後輩との交流に出かけていった。


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