瀬名が絵を描いている。 たったそれだけのことに、有希子はひどく安心した。 美術室の中に足を踏みいれる前に、ほうと溜息をつく。それから意識的に苦笑した。なにやってるの、馬鹿みたい。 できるだけ何気なさを装って、美術室の中に入る。 「こんにちはー」 「こんにちはー」 儀礼的な挨拶をすると、いくつかの儀礼的な挨拶が重なって返ってきた。掃除に時間をかけたせいか――現場監督の教師が久しぶりに顔を見せたせい、かもしれない――今日は瀬名だけでなく、既に数人の部員が美術室に集まっていた。黙々と絵を描いている人、お喋りに高じている人。 そして、瀬名のすぐ近くの机につき、お喋りに高じる部員の姿をちらちらと見ている史織。 ――デッサン? クロッキーかな。 スケッチブックを抱えて鉛筆を走らせている史織の姿にそんなことを思いながら、机の上に重い鞄を置く。絵の具チェックは大してしなかったが、たぶん大丈夫だろうと根拠もなく納得した。 とりあえず妙に疲れていたので、椅子を引き出してきてそこに腰掛けた。 「今日は遅かったね、珍しく掃除ちゃんとしたの?」 笑みを含んだ瀬名の声でふと顔を上げる。 見ると、いつものようにパレットと筆を持った瀬名が、いつもの笑顔とからかうような視線をこちらに向けていた。 ずいぶん離れているはずなのにいやに近く感じる。 ――瀬名のことだけがわからない、って子が、うちのクラスに。 昼休みに聞いた史織の台詞が再び鮮やかに思い返され、有希子は、一瞬思考回路が真っ白に凍結するのを感じた。 「あ、うん……そんな感じ」 「さすがにまずいと思ったのかなあ、森先生も」 有希子の「異常」には気づいていないらしい瀬名は、なにがおかしいのか、くすくすと笑いながら言った。右手に筆が一本、左手にはパレットと五本の筆。いったいどうやったらそんなにたくさん筆が持てるのだろうと、ときどき不思議になる。――どうでもいいところにばかり、思考回路は通じるようになる。肝心なときに。 どうしよう。 ひらりと、脳裏にそんな言葉が舞った。 あれから後、昼休みを挟んでさえ、午後の授業にはちっとも身が入らなかった。ただでさえ集中力の途切れる時間帯だというのに。 蘇るのは史織の言葉。あの狼狽しきった口調。表情。 最初は、それでも冗談だと思っていた。エイプリルフールまであと何ヶ月あると思ってるの、と思いさえした。教室からの去り際に瀬名に呼び止められたことを思い出したときでも、まだそう思っていた。そんな馬鹿なこと、あるわけないじゃないか。瀬名のことだけがわからなくなるなんて――逆ならまだしも。瀬名と牧ちゃんと二人で、私をからかっているんだろうか? そう思っていたからこそ、訊いたのだ。 ――ねえ、瀬名のことわかる? 掃除中にふと手を止めて、有希子は訊いた。去年、瀬名と同じクラスだった女子生徒に。仲が良いといえるほどの友人ではなかっただろうが、一年前のクラスメートだ。名前くらいは記憶にあるだろう。 そう、思って。 冗談半分だった。 しかし彼女は、箒を動かす手を止めもせずに答えた。 ――知らなーい。誰それ? ――知らないって……。福田瀬名だよ、去年六組だったじゃん。 ――そんなこと言われてもなあ……だめ、思い出せない。忘れてるのかも。やだなあ、ボケるにはまだ早いのに。 きゃはは、と、甲高い声で笑う彼女とは対照的に、有希子の頭はそのときも真っ白になった。 瀬名のことだけがわからない、って子が。 それからずっと、史織の言葉が頭の中に満ちている。 「ユキ」 ――当の史織の声で、再び我に返った。 首だけを回して振り返ると、スケッチブックと筆箱を抱えた史織が神妙な面持ちで有希子の傍に立っていた。彼女の不安定な表情は、自分の表情とたぶん重なっているのだろう。瀬名のほうがよっぽどいつもどおりじゃないかと、どこか遠くのほうで思った。 「……ごめん、急に妙なこと言ってさ。でも」 「解ってる」 自分でも意識しないうちに、史織の言葉を遮っていた。思い出したように椅子の向きを百八十度変える。がたがたと、必要以上に大きな音を立てながら。 そして、彼女を見上げた。 ひどく遠くに見える瀬名の横顔をちらりと気にしながら、有希子は声をひそめた。他の部員のお喋りで、きっと自分の声などかき消されてしまうだろう。 「クラスの子にさ、訊いてみたんだ。瀬名のことわかるか、って」 「うん」 「最初は信じてなかったんだよ、私。牧ちゃんと瀬名で私のことからかってるんじゃないかってさ」 「あたしだってそう思ってたんだよ――でも」 強い調子で言い、ふと、口をつぐむ。でも、の続きは、聞かなくても解っていた。たぶん史織も有希子も、同じ気持ちでいるのだろう。 笑い声が聞こえる。自分たちと同じ美術室に居る、自分たちと同じ美術部員の笑い声。それでも、自分たちとはずいぶん遠い世界のことであるように感じられた。 「新手のいじめかなんか?」 ふと思いついて、呟いた。瀬名がいじめを受ける理由など見当たらないけれど、大体いじめという行為そのものが理不尽だ。理不尽に忘れ去られる、という理不尽なことへの理由付けにはちょうど良い言葉かもしれない。 けれど史織は、首を振った。 「そういうのじゃ……ないと思う、たぶん」 「だよね」 自分で言い出しておきながら自分で否定する。瀬名の隣のクラスにまで現象が広がっていることを確かめたのは、ほかならぬ有希子である。例えいじめだったとして、隣のクラスにまで広まっていると考えるのは――どこかぎこちないような気がした。それに、完全に「部外者」である有希子にまで、瀬名を知らないふりをする必要はない。第一いじめの方法としてまわりくどすぎる。 けれど、 「なにかの間違い……ってことは?」 再び呟いた自分にふと気づいて、有希子はどこか自嘲めいた苦笑を浮かべた。さっきからなにを言っているのだろう。結局いま自分がしているのは、頑として現実を認めないという、ただそれだけのことではないか。なんの解決にもなっていない。 「そうなら良かったんだけど」 史織も小さく溜息をついた。頭がおかしくなりそうなのは、きっと彼女とて同じなのだ。 「でも……現実的にありえないじゃない? 瀬名だけが忘れられていく、なんて」 更に声のトーンを落として有希子は言った。うつむいた視界の中に、いつだったかつけてしまった油絵の具の小さな染みが入る。ずいぶんと薄くなってはいるがまだそれと判別できるエメラルドグリーンをじっと見つめ、続ける。 「逆ならまだありえるよ。瀬名のほうが周りの人を判別できなくなるっていうのなら」 そうなっていく病気が、最近やけに脚光を浴びている、と思う。 「でもそうじゃない。……まるで」 「まるで私が透明人間になっていくみたい――」 史織の言葉を遮った声にはっとして、有希子はがばりと顔を上げた。史織が同じように背後を振り返っているのが見える。そして有希子と史織の視線が交わったところに―― パレットを持った瀬名が立っていた。 「瀬名」 そう呼んだのは、有希子だったのか史織だったのか。 目を見開いて硬直する二人とは対照的に、瀬名は当たり前のようにふわりと微笑んだ。 「私の話でしょう? あの、タチの悪い嫌がらせ」 何気ない調子。 それが装ったものなのか彼女の素なのか、そんなことでさえも今の有希子には判別できなかった。その代わりに、言葉が勝手に口をついて出る。 「知ってるの……?」 自分を知らない人が段々と増えていく、というこの現象を。 「わかるわよ、そんなに鈍いつもりはしてないもの」 口の端を上げて微笑し、それから瀬名は困ったようにちょいと首を傾げてみせた。相変わらず器用に片手に五本持っていた筆を右手でまとめて引き抜き、もともと持っていた物と合わせた六本を片手で適当に弄びながら続ける。 「嫌がらせするなら、もっと露骨にやってくれたら良いのにね。なんか、されてるのかされてないのか判らなくて落ちつかない――ああ、それが目的なのかな」 どこか他人事のように言う瀬名から、有希子は思わず視線を逸らした。痛々しく見えた、のかもしれない。例えこの現象がクラスメートからの嫌がらせだったとして、それでもなおいつもどおりに話せる瀬名の姿が。それとも、彼女はもともとこんな性格だっただろうか。確かに、現実世界から常に一歩引いたような眼をしてはいるけれど。――駄目だ、解らなくなりかけている。有希子も、瀬名という少女のことが。ぼんやりとではあるけれど確かにそれを感じ、ぞくりと背が寒くなるのを感じた。 そして思う。――いつの間に、私は「嫌がらせ説」を容れてしまったのだろう? 「なんて顔してるの、二人とも」 くすくすと笑う瀬名の声が降ってくる。再び顔を上げると、いっそ怖いくらいにいつもどおりの瀬名が居た。 「大丈夫よ、嫌がらせなんてのはこっちが無視ってたらそのうち勝手に消えてなくなるんだから」 「でも……」 ――それはほんとうにただの嫌がらせなのか? 「だーいじょうぶだって。ていうか、ユキと牧ちゃんが深刻な顔してるおかげで私が暗くなり損ねてるんだから」 言われて思わず、有希子と史織は顔を見合わせた。なるほど、史織は確かに当の瀬名よりよほど暗い顔をして見える――恐らくは有希子自身も。それに気づいて、二人同時に力なく苦笑した。 それから、瀬名を見る。 わかったよ、と、やがて史織が諦めたように苦笑しながら言った。 「――でも、無理しないでね」 「無理するような局面でもないじゃない」 気恥ずかしい台詞を大真面目に言った史織に、瀬名が軽く笑う。ぎこちなくではあったけれど、有希子もようやく微笑した。 瀬名は本当に、心の底から笑顔で居られているのか――。 それだけが、ただ心配だった。 「じゃ、それだけだから」 「うん」 最後にまたにこりと微笑むと、瀬名はくるりと踵を返してイーゼルのもとへと戻っていった。あの淡い自画像のもとへ。 笑い声が聞こえる。先程聞いたときよりも幾分近くに感じて、有希子は微苦笑を浮かべた。もしかしたら、安心していたのかもしれない。 いつもより余計に明るいような瀬名。その瀬名がイーゼルの前に立って「臨戦態勢」へと戻ったとき、有希子と史織は、視線だけで互いを見た。空気が、ようやく美術室のそれに戻ったような気がした。 「大丈夫……かな」 「考えすぎだったのかも」 ひょいと、史織が肩をすくめる。それがどこか芝居がかった仕草だったのは、彼女も有希子と同じ思いであるからなのだろう。 ――そう、考えすぎ。考えすぎだったのかもしれない。ただの嫌がらせ。それなら対処のしようもある。嫌がらせだって確かに気分の良いものではないけれど、それでも、突拍子もない恐ろしい考えよりは、よほどましに思えた。 とにかくそう言いきかせたいのだろう。自分自身に。 「無理させないようにしてあげないとね……あの性格だから」 「同感。クラスメートとして頼むよ、牧ちゃん」 「了解」 それからようやく――つめていた息をほうと吐きだす。有希子はゆっくりと立ち上がり、絵の具を取りにいこうと緩慢な動作で歩きだした。 |