gradation

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「あ、現国ない」
 机の中を覗きながら、有希子は思わず呟いた。――見間違いかと思ってもう一度、一冊一冊丹念に教科書とノートの束を見直すが、やはり、現代国語の教科書だけが見あたらなかった。ノートはある。おかしなこともあるものだ。
 ――ノートだけ忘れたんだったら、ルーズリーフで代用できるのに。
 今度は口に出さずにそう呟き、諦めて立ちあがる。手首を返して腕時計を見ると、四時間目の開始までにはまだ五分と少しあった。隣のクラスに行って戻って くるくらいの時間はあるだろう。隣のクラスで現代国語がなかったら――とりあえず、時間の許す限り他のクラスも回ってみるか。
 騒がしいという言葉を通り越したような甲高い笑い声に、思わずきゅっと目を瞑る。気を取り直して目を開けると、机の間をすり抜けて廊下に逃れた。賑やかさは好きだったが、有希子にも、「好き」な賑やかさと「苦手」な賑やかさがある。
 人口密度がぐんと低くなるせいか教室に比べて冷え冷えとしている廊下に、有希子は思わずブレザーの襟元に手をやった。ブレザーの襟など、かきあわせたところで暖かくなるはずもないのだけれど。
 二年二組、と書かれたプレートを仰いでクラスを確認する。やや緊張しながら、閉まっている扉に手をかけた。――自分の所属するのとは違うクラスというのは、自分が異質なものとして排除されているような気にさせられるものだ。
 がらり、と扉を開けて、ひょいと顔だけ教室内に入れた。やはりこの教室も賑やかな喧騒に包まれている。けれど三組のそれに比べてよほど穏やかだった。
 しばらくきょろきょろと眺めていたが、ようやく探す顔を見つけてほっとする。灯台下暗し――廊下側の、後ろから二番目の席だ。そう扉から遠くなくて幸いだった。
「瀬名」
 心なしか控えめに声をかける。二度目の幸い。読書中なのか一人うつむいていた瀬名は、有希子の一度目の呼びかけに反応してゆっくりと顔を上げ、こちらを見た。
「……ユキ?」
 向こうが反応してくれれば、もう入室許可を得たも同然だった。
「現国ある?」
 まっすぐに瀬名のもとへと歩みよりながら、そう問うた。このクラスでは人ごみは教室の前半分に集中しているらしく、後ろ半分はすいている。
「あるよ」
「助かった! 貸して。次なんだ」
 三度目の幸い。大袈裟に右手を立ててきゅっと片目を瞑ると、瀬名はくすくすと笑いながら文庫本を置いた。水色のカバーがついている。机の中に手を突っこんで、彼女はすぐに現代国語の教科書を取りだした。
「はい。――ツイてたね、うちのクラスで現国あって」
「ほんとにね。ここで借りられなかったらどーしようかと思ったもん……あ、つぎ現国じゃないよね?」
「それは大丈夫。一時間目に済んでるから」
「じゃ、ありがたく借りていきますね。昼休みに返しにくるから」
「――あ、待ってユキ」
 言うや否やすぐに踵を返した有希子を、瀬名の声が呼び止めた。
「なに?」
 顔だけで振り返る。
 視線の先には瀬名の顔。
 首を傾げる。
 数瞬の間があったあと、彼女が――わずか、不安そうな顔をしていることに気がついた。
 自然と、返した踵を元に戻して身体ごと瀬名に向き直る。
「……どうしたの?」
 問うと、ふ、と彼女の表情がいつもどおりのそれに戻った。
 きょとんとしている有希子の目の前で、瀬名は、ゆっくりとかぶりを振った。髪がさらさらと揺れる。頬にかかった髪を耳にかけながら、彼女はうっすらと形だけ微笑んだ。
「なんでもない……ごめんね、変なこと言って」
「そう? なら良いけど」
 首を傾げて応える。――良い、などと口にしてはいたが、実際、それで有希子の気持ちがすっきりと晴れたわけではなかった。
 けれど、訊いたところで教えてはくれまい。瀬名はそういう少女だった。出会ったときから、たぶんずっと。
 下手につつきまわしてもかえって良くないだろうと判断し、今回は潔く引くことにする。
 借りたばかりの教科書をひょいと挙げて、有希子は思い出したように笑った。
「じゃ、ありがたく借りてきます」
 一度使った台詞であるような気もしたが、まあ良いか、とも思う。
「うん、じゃあせめて寝ないように頑張ってね」
「あー……努力はします。でもお腹すいたし無理かも」
 控えめな笑みを浮かべながらしっかりと忠告をくれる瀬名に、浮かんだ笑いが苦笑に変わる。それからようやく、有希子は瀬名に背を向けた。視界の隅で、瀬名が再び文庫本に手を伸ばしたのが見えた。
 やはり依然違和感を感じる教室の、出口に向かう。やはり有希子のの居るべき場所は、あの二年三組らしい――。どこか自嘲的にそう思いながら廊下に出ると同時、後ろから名を呼ばれた。
「ユキっ」
 押し殺した控えめな、しかしどこか切羽詰まっているような鋭い声。条件反射で有希子も緊張しながら、振り向いた。
 そして、目の前にある顔に拍子抜けする。
「……牧ちゃん?」
 切羽詰まった声と快活な史織が、どうしても結びつかなかった。
 史織は確かに、瀬名と同じクラスだ。けれど――けれどどうして、わざわざ瀬名が場に居ないときに、有希子一人に話しかけてくるのだろう。最初にちらとかすめたのは、そんな考えだった。
 なんだか嫌な予感がした。
 どうしたの? そう問う前に、緊張と不安をはらんだ史織の声が飛んでくる。
「いま、瀬名と喋ってたよね?」
「喋ってたけど……いや、教科書借りただけだよ」
「そんなことは良い、喋ってたよね?」
 こちらを見る史織の眼に、すがるようなものが見え隠れする。事実をそのまま伝えるというよりはそれに気圧されるような形で、有希子はこくりと頷いた。
 それを見たのか、あるいは見えていなかったのか。史織はなおも同じ口調で続けた。
「ユキは――ユキは、瀬名のことがわからない、なんて言わないよね?」
「え?」
 言っている意味が、解らなかった。
 ――瀬名のことが、わからない?
 なにを突拍子もないことを。そう笑い飛ばしてしまいたくても、目の前の史織の表情がそれを禁じている。
 彼女は、なにかに、――怯えていた。
 深呼吸をしたのは、史織だったのか。それとも有希子だったのか。
 ついで史織の口から漏れたのは、焦燥感の抜け落ちた、ただただ不安げなか細い声だった。
「二週間前に一人。先週は三人。今日で、もう五人になった……あたし、もう、わけが解んなくなって」
「だから、なにが……」
「瀬名のことだけがわからない、って子が、うちのクラスに」
 二年二組の教室に入ってからずっと感じていた違和感のほんとうの正体を、有希子はようやく悟った。
 ――授業開始のチャイムが鳴った。


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