gradation

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 部活をやっていない人はいったいなんのために学校に行くのだろう。――ぎいぎい音のする掃除用具入れの扉を閉めながら、有希子はふとそんなことを思った。勉強だとか友達だとか、帰宅部員にもそれなりの言い訳があるのだろうがいまひとつぴんとこない。もちろん勉強も大切だとは思うし友達とのお喋りも楽しいが、それでも有希子にとっては、美術室に行って絵筆をとっているときがいちばん楽しいのだ。部活に行けば絵を描けるし、友達と喋ることもできるし、時には勉強を教えてもらえる――要は心地良いのだろう。美術部、という空間そのものが。
 ふ、と息をつく。それから思い出したように肩をすくめた。
 なにを突然、突拍子もないことを考えはじめているのだろう。学校へ行く目的なんて、それこそ生徒の数だけあるだろう。時間割変更のおかげで、退屈な授業ばかりの一日だったせいだろうか。一時間目開始のチャイムが鳴った瞬間から既に部活のことを考えていることなど、さすがの有希子でもめったにない。
 気持ちを切り替えてくるりと振り返り、確認のように言った。
「じゃ、これで終わっとくってことで……そういえば先生は? 今日も?」
「来てなーい。良いんじゃない?」
「まあねえ。でも森センセらしいというかなんというか」
「あれだって、生徒を信用してるんだよきっと。良いじゃん、教室掃除のカントクは掃除時間中に教室に居た試しないんだから」
「確かにー」
「あ、そういえば男子は?」
「さっき帰ったよ」
「うわ、薄情者」
 同じ班の女子生徒たちが笑いながら言いあう。言われてみれば確かに、ここの掃除当番になってから監督の教師を見たのは最初の一度だけだった。もう一週間は経つはずだが。――まあ良いか。
 掃除用具入れの隣に放り出していた通学鞄を手に取り、埃を払う。掃除用具入れの傍というのはどうしてこうも埃っぽいのだろう。こういうところこそ掃除のし甲斐がありそうなものだが、どういうわけか掃除のときになると綺麗さっぱりとそこだけ忘れてしまう。四角い部屋を円く掃くとはよく言ったものだ。
「じゃあね」
「バイバイ」
 型どおりに右手を振り、有希子はあっさりと彼女たちに背を向けた。そして、授業中とは明らかに違う雰囲気をまとった紺色のブレザーの波に同化する。
 窓の外では、ユニフォームに身を包んだ生徒たちが走り回っていた。――授業と部活は別世界だと、よく思う。例えば、美術の授業中の美術室と美術部員が占領している美術室。例えば、体育の授業中の体育館と運動部員が走り回っている体育館。グラウンド。挙げればきりがないだろう。今こうしていそいそと部活に向かっている彼女自身も、あるいは授業中とはまったく違う雰囲気をまとっているのかもしれない。
 掃除場所の昇降口を離れ、渡り廊下を渡って特別棟へ移る。かすかに聞こえる吹奏楽部の練習音をBGMに、階段を駆けのぼった先の三階。――そこが、放課後の有希子の居場所だった。
 美術室の扉は開いていた。たぶん誰かが既に来ているのだろう。中に誰か居るときには大抵美術室の扉は開いている。真冬でもそうなのだから、ストーブの暖房効率はじつに悪いと思う。思うのだが、どうも閉めると落ちつかないのでみんながみんな揃って開けっ放しにしている。換気だということになっているが、実際大した理由はないのだろう。一度閉めてみたが誰も文句は言わなかった。その代わり、しばらくするとまた開いていた。
「こんにちはー」
「こんにちは」
 儀礼的な挨拶をしながら中に入ると、それよりもっと形式的な挨拶が返ってきた。
「あれ、瀬名ひとり?」
 明るい窓際にイーゼルを寄せてキャンバスを見つめていた瀬名に、有希子は声をかけた。授業の用具と美術部の備品がごちゃ混ぜに存在している美術室が、瀬名一人ではやけに広く見える。
「まだひとり」
 そう答えると、思い出したように、瀬名はようやく顔を上げた。くるりと教室内を見渡し、少しだけ首を傾げる。セミロングの髪が陽に光った。
「みんなまだ掃除じゃないの? ユキこそいやに早いじゃない」
「例によって森先生の監督放棄で、適当に済ませてきちゃった」
「うわ。知らないよー、あとで痛い目見るの自分たちなんだから」
「そのときはそのときさ」
 くすくすと笑いながら、有希子は適当な机の上に荷物を置いた――が、まだ乾ききっていない絵の具を見つけて慌てて隣の机に移す。危ないところだった。
「調子どう?」
「どうかな」
 振り向きざまに軽く言葉を投げると、瀬名はパレットと筆を持ったまま、苦笑して肩を竦めた。パレットに並んだ色が、今日はやけに暗い。どの辺りを描いているのかなと、少し気になった。
「そろそろ形になってきたから……楽しい時期脱しちゃうかも」
 言って彼女は、またつと視線だけキャンバスに移動させた。
 真っ白なキャンバスに絵の具をのせて、おおまかな形と明暗をとるまでには大して時間はかからない。時間がかかるのは、そこから先である。少なくとも有希子はそうだった。色を重ねる。形を整える。そして、自分を満足させる。言葉にすればたったそれだけのことに、時には数ヶ月を費やす。
 瀬名ほどの絵描きなら、簡単に自分を納得させられるのだろうか。それとも瀬名ほどの絵描きだからこそ、自分に厳しいのだろうか。――どちらにせよ、所詮は有希子などには知ることのできない世界である。付き合いの長さは、こういうときには関係なさそうだ。ただ瀬名の性格を考えると、たぶん後者だろうな、と思うのだが確信には至らない。
 ほう、と、有希子は息をついた。
「大変だねえ……頑張って」
「頑張るよー。ユキはどう?」
「わりと順調かな」
「良いなあ」
 順調なのはスピードだけだよ、と言おうかとも思ったがやめておいた。代わりに曖昧に苦笑する。しかしそんな表情の有希子に向かっても、瀬名は羨ましそうに、微笑した。それから――ふ、と遠い目になる。気がついたときには、彼女の心はもう既にキャンバスに戻ってしまっているようだった。 
 まだ、美術室には彼女たちしか居ない。もうそろそろ掃除も終わる頃じゃないだろうか、と腕時計を見ながら、有希子は油絵の道具を取りに棚のほうへと小走りで向かった。
 画材一式の入った木箱を手に、いつもイーゼルを置く「指定席」へと向かう途中――意識して、瀬名の後ろを通った。そしてちらりと、彼女がじっと見つめつづけているキャンバスを見る。立ち上がった瀬名の肩の辺りまでは優に届くであろう、大きなキャンバス。
 紺色のブレザー。真っ白なブラウス。臙脂色のリボン。見慣れた制服を着た見慣れた瀬名が、少しだけ目を伏せて佇んでいる。――キャンバスの中に。
 淡い色調の自画像が、有希子の視線の先に在った。
 一瞬息ができなくなった。
 たぶん、見とれていた。
 ただでさえ整った顔立ちをしている瀬名が、絵の中ではまた違う雰囲気をまとっている。
 毎日のように目にしている仲間の絵であるのに、見るたびに思う。ぞっとするほど――綺麗なのだ。まだ描きはじめて日も浅いために、キャンバスの中の彼女はずいぶんと荒削りであるのに。いくら瀬名の筆が早いからといって、この大きさの絵が、描きはじめて数日で完成するはずなどないのに。
 瀬名は迷いながら絵の具を混ぜ、ゆっくりと、しかし確実にキャンバスの上に置いていく。心なしかここ数日描く速度が遅いような気がするのは、なるほど、確かに「不調期」に入りつつあるのかもしれない。
 けれど、綺麗な絵だと思う。それとて、きっと有希子が傍観者として見ているからに他ならないのだろうけれど。
「こんにちはー」
 ――形式ばった、けれど明るい挨拶の声で我に返った。
「こんちはー」
「なに、まだ二人しか来てないの? 一年生は?」
 ほとんど脊髄反射で振り返った有希子が挨拶を返すと、三人目の部員が、どさり、と盛大な音を立てて彼女の鞄の隣に自分のそれを置いていた。その位置に目を留め、思わず声をあげる。
「あ――」
「なに?」
 彼女――史織がきょとんとしてこちらを見る。有希子は彼女の鞄を指差した。
「そこ、机に絵の具ついてたよ」
「え?」
 史織が鞄を持ち上げて底を見る。――ぺたりとはりついているのは、空色の油絵の具だった。
 一瞥しただけで、なあんだ、と、彼女は声をあげた。
「大丈夫大丈夫、こんなの汚れたうちに入んない」
「そう言うとは思ったけどね」
 からりと笑う史織に対し、有希子は苦笑を返す。史織の鞄は――絵の具汚れでしっかりと美術部長の風格を漂わせていた。絵の具汚れの一つや二つ、今更気にはしないだろう。たださすがに二次災害が起こると危険だと思ったのか、史織は小走りで雑巾――筆を拭くときに使っているものだ――を取りに行き、それで軽く机の絵の具をぬぐっていた。ついでに鞄も拭いておく。
 雑巾をどけ、指でこすって安全性を確かめながら、史織はどこか愚痴っぽい口調で言った。
「あたしは別に良いけどさ、この規模、もしあたしじゃなかったら結構問題になってたんじゃないの?」
「牧ちゃん、それ『汚し魔』の台詞じゃないよ」
 笑いながら有希子が指摘すると、一瞬間があった後、史織からも苦笑が返ってきた。
「……ごめん、それもそうだ」
 ときどき思う。牧史織の制服がちゃんと原型をとどめて紺と白と臙脂をしているのは、実は驚異的なことではないのかと。
 ちらり、と――不意に、史織の視線が有希子を外れて少し遠くに移った。
 つられて有希子も振り返った。
 ――瀬名が、視線の先で絵を描いている。
 せっせとパレットの上で絵の具を混ぜ、混ぜては描き、描いては混ぜる。筆を替える。また混ぜる。描く。ときどき遠く離れて注視する。――それは、あまりにも見慣れた美術部員の姿だ。
 硝子越しの陽の光が、真剣な瀬名の横顔とキャンバスとを穏やかに照らしだしていた。
 真剣なひとは綺麗だなと、柄にもないことを思う。
 ――頑張れ、瀬名。
 口には出さずにそう言って、有希子は、自分の画材を手に自分のイーゼルへと向かった。完成まで、あと一息だ――。


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