blackbox

【 5 】


 下宿の玄関に突っ伏したまま、景彦はぽっかりと眼を開けた。
 床がひんやりと冷たい。けれど金属のそれではなかった。緩慢な動きで左眼を動かすと、見慣れた二枚扉があった。少し身体を起こすと、視線もつられて上がる。空っぽのシンクと一口コンロ。見上げると換気扇が回っていた。いつのことだか知らないが、スイッチを切るのを忘れていたらしい。のろのろと立ち上がったところで靴を履きっぱなしでいることに気づき、まず靴を脱いだ。右足。左足。それから部屋に上がり、キッチンの前に立つ。換気扇のスイッチを切る。耳障りな音が止んで、突然静寂が訪れた。
 景彦は、立っていた。
 見下ろすと、ベージュのワークパンツが見えた。黒ジーンズではない。ならばここは――瞼の外側だ。
 右の瞼に手を触れると、慣れ親しんだ違和感があった。左の眼は、くすんだシンクを見ている。目を閉じてもただの暗闇があるだけだ。
 景彦は目を開けている。開けてもなにも起こらない。
 帰ってきたのか?
 呆然と自問した瞬間、右眼の奥が痛んだ。思わず両目を閉じる。痛みに耐えるうちに疲労の波が襲ってきて、そのまま床にへたりこんだ。くそ、と悪態をついたが聞く者はない。寂しい、という言葉がぽつんと湧いた。
 右目を強く瞑っている。右手を強く右眼の瞼に押しつけている。薄く開けた左眼で腕時計を見ると、日付が変わっていた。丸一日倒れていたということか。それならこの気だるさは、単に風邪を引いただけなのかもしれない。なにしろ玄関に倒れたまま一日過ごしてしまったのだから。――ずきり。ずきり。
 闇が暴れているのか、と、他人事のように思った。
 この闇が、あの少女と自分とを繋げたのだ。或いは、少女の兄と自分とを。
 それは酷く歪んだ在りかただ、と思う。
 闇は本来「消す」ものだ。「繋ぐ」ものではない。そんな前向きな用途など、本来暗闇は持たない。ただ、見たくないものを墨塗りにするだけのモノのはず。
 ――ずきり。ずきり。
 痛みに耐えながら唇を歪める。それは苦笑だったか、それとも自嘲だったか。
 失った右眼が最後に見たのは、原付を運転する学生服だった。本当は顔まで見たはずだが、そこだけが墨塗りに潰されている。髪は長かったのか短かったのか、笑っていたのか怒鳴っていたのか、もう憶えていない。二度と思いださないために、ひっそりと闇を飼いこんだ。眼窩の治癒を待つ間に、ゆっくりと、少しずつ。それがまさか、他人と繋がる橋に変わろうとは思いもしなかった。
 初めて他人の瞼に迷いこんだときに抱いた感情は、驚愕ではなく恐怖だったのだ。
 ――友達になって。
 一つの関係を断つために抱いたはずの闇が、他の関係を求めてきた。それをも断ち切ろうとして、景彦は――自分の闇にさえ裏切られたのだ。
 ――ずきん。ずきん。
 自分の闇? まさか。あれは勝手に暴れていたのだ。噴出した墨色は、鈴華の瞼の裏と溶けあって景彦を呑みこもうとした。あれはたぶん、闇の意志。飼い慣らせる道理など最初からないのだ。飼い慣らしたつもりになっていたのは、ただの思いあがりでしかない。今までは、単におとなしかっただけだ。解っている。
 ――ずきり。
 景彦はゆっくりと、息を吸った。そして時間をかけて、吐いた。帰ってこられたのだという安堵と、軽率に記憶を塗りこめたことへの後悔が緩慢に押し寄せてくる。
「……我儘だったんだ」
 口に出して呟いてみる。酷く掠れた声だったが、密かな含み笑いが交じっていた。
 そうだ。結局、ただの我儘に過ぎなかった。鈴華が自分の中から出ることなく「友達」を求めたことも、景彦が自分の記憶の一部を封じて消し去ってしまったことも。
 そういう我儘が、右眼に闇を飼わせることになったのだろう。
「我儘なのはお互いさまだ」
 もう一言呟いて、景彦は右手を眼から離した。相変わらずの隻眼で、ゆっくりと室内を見回す。メタルラックとベッドとデスク。グレーのカーテン。殺風景な狭い部屋。
 膝を立てて立ち上がった。気がつけば右眼の痛みも収まっていて、身体には気だるさだけが残っていた。
 ――新田鈴華。確かそんな名前だったか。トランプのピラミッドを従えた少女の名は。
 彼女が外側に出てくることができたら、似た者同士できっとささやかな友情を結べるだろう。そんなことを考える。
 自分の瞼の裏を、景彦は唐突に思い出した。遠い昔に一度だけ、見たことのある風景。そこにあったのは、立方体の蒼白い小箱だった。次に機会があれば開けてみよう、と、彼は独り決意する。最後に見た相手の顔が、たぶん入っているはずだった。


  top