遠藤景彦は、ぼんやりとした少年だった。 それは今でも変わらない。ただ、幼かったせいか今よりも輪をかけてぼんやりとしていた。どことなく夢見がちで、長い間飽きずに水溜まりの中を覗いていられるような子供だった。そのわりに妙に勘が鋭く、友人の考えていることがなんとなく察することができるようなことがあった。もちろん超能力者などではないのだから、百発百中というわけにはいかない。ただ、相手に共感しやすい性格だったのだろうとは思う。 どうしてそんな性格になってしまったのかは解らない。確かだったのは、それらの性質は、周囲が景彦を異物扱いするには充分すぎるほどだったということだけだった。 小学校の中学年になった頃から、友人が減りはじめた。なんとなく避けられている、ということに気づくくらいの繊細さは持ちあわせていたが、大した問題ではなかった。友人が皆無というわけではなかったし、上靴に画鋲を入れられるようなこともなかった。たぶん、気味悪がられていたのだろう。靴に画鋲を入れるという形でさえ、景彦と関わりあいになりたくなかったのだろう。相変わらずぼんやりと、鋭いのか鈍いのか判らないような性格をして、本を読んでは登場人物に感情移入しすぎて泣いて、クラスメートの眼を見てはなんとなく自分を嫌っていることを感じとって、そんな毎日を過ごしていた。 幸か不幸か、景彦の小学校生活はそのまま終わった。 問題は中学校だった。 市内でも評判の「荒れた」学校だった。あとで両親に訊いてみたところ、中学受験を考えたこともあったが時既に遅し、だったらしい。マイペースなのは遺伝だったようだ。 景彦は変わらなかった。相変わらずマイペースな中学生だった。単に馬鹿だったのだろうかと、今になって思う。 当時はまだ小柄だったことも災いしたのかもしれない。気がつけば、大柄な男子生徒を筆頭に、クラスメイト全員が景彦をクラスの輪から弾き出していた。初めて上靴に画鋲を入れられたのはゴールデンウイークが明けて一週間も経たない頃だったし、五月が終わって六月に入る頃には、画鋲などは日常の一部と化していた。体操服はときどき妙な汚れかたをしたし、掃除のときに景彦の机を動かしてくれる者はほとんど居なかった。机を運んでくれた少女が、あとで念入りに手を洗っていたのを見たこともあった。そんなとき、自分がなにを考えていたのか――全く思いだすことができなかったけれど。 転機は、中学二年生の夏休みにやってきた。 暑い夏だった。 景彦は、夏休みのほとんどを図書館で過ごしていた。涼しい場所で宿題をして、それから気紛れに本を読む。普段景彦をつけ狙っているような生徒たちは、基本的に図書館とは無縁だ。現れたところで、騒いで司書に摘まみ出されるのが関の山である。だから、なんの気兼ねもせずに時間を過ごすことができた。しかし彼らは彼らで、なんとかして景彦を痛めつけようと模索していたのかもしれない。他人の不幸を画策することは、時に震えるほどの快感をもたらすものだから。 本を一冊だけ借りて、景彦はその日も、五時に図書館を出た。 左に曲がって坂道を上る。上りきった先を更に左折すると、小道に出た。その道をひたすら真っ直ぐに行って、郵便局の角を右に曲がると家に着く。 坂道を上った先で小道に入った瞬間、景彦は思わず立ち止まった。 久しく顔を見ていなかった生徒たちが四五人、五十メートルほど先に集まっているのが見てとれた。いちばん大柄なリーダー格が、なぜか原付に 肥大した影法師が、アスファルトにくっきりと影を落としている。 原付のエンジン音が聞こえる。 ――エンジン、切れば良いのに。 他人事のように思った。 ――逃げなきゃ。 本能的に思った。 変声期を過ぎた少年たちの歓声。ライトが両眼を射た。手も足も石化したように動かない中で、目だけは辛うじて閉じた。 ――逃げなきゃ。 右眼を薄く開けた。 ライトの向こうに、凄まじい笑顔を浮かべた運転者の顔が見えた。最後に見たのはそれだったはずだ。 視界が唐突に深紅に染まり――そのとき、景彦は右眼を失った。 「左は無事だったんだけど、右眼はライトの破片が刺さったとかで駄目になった。詳しくは知らないけどね」 息を呑んだ鈴華を半ば放置して、景彦は軽薄な口調で続けた。 「ただよりによって、最後に見たのがリーダー格とやらの顔らしくてね。……俺としては、そんなもの見たくもなかったのに」 病院では何度もうなされた。あの歪みきった笑顔と現実離れしたライトの光が、空洞しかないはずの右眼に何度も浮かんだ。 忘れるために、闇を塗りこめた。少年たちは何度か見舞いにやってきたが、その顔でさえも闇の奥に押しこめる。彼らとて、どうせ見舞いにきたのではない。連れてこられていただけだ。残念なことに、片眼を失ってもその程度の顔つきは読めていた。 眼球を失った眼窩に、少しずつ、少しずつ、闇を溜めていく。――この暗闇は自ら寄せあつめたものだ。 相手の顔が見えなくなるまで塗りこめた暗闇は、いつの間にか、他人の瞼の裏と共鳴するようになった。暗闇は暗闇同士、引きあってしまうのかもしれない。もともと変に勘の鋭い部分があったから余計にだ。 「そんなわけでね」 景彦はそっと、腰かけた薄い板を撫でる。いまにも崩れ落ちそうな、トランプの楼閣。 「俺のこっちの眼は、あちこちの瞼の裏と繋がるようになったってわけだ。おかげで方々で迷子になって、いろんな人に迷惑かけてる」 鈴華の声がしていたほうを見上げると、辺りの空気が若干こわばったような気がした。こわばったのは、たぶん鈴華の表情なのだろう。 ふ、と微笑した。 「驚いたかい」 「……嘘」 「嘘だったら、そもそも俺は君の兄さんのところに迷いこまなかったし、君に呼ばれることもなかった」 ――怯えてくれれば、この子は俺を「友達」にしようだなんて思わなくなるだろう。 そんなささやかな策略。 ――俺だって、こんなに長く瞼の裏に居たくない。 あくまで自分を護ろうとする本音に、少しだけ胸が痛んだ。 ――好きで飼いこんだくせに。 「君の世界は君だけのものだ。こんな異物は抱えこまないほうが良い」 「でも」 「下手に化け物抱えると、ホントにここから出られなくなるぜ」 鈴華は黙っている。 辺りの暗闇が深さを増していく。反比例するように、温度は下がっているような気がした。 ――なんとかして出ないと。 焦りはじめている自分に気がついた。 「わたし……一人じゃ寂しいのに」 「俺一人を抱えこむより、外に出る方法を考えたほうがよっぽど良いと思うよ。兄さんだってきっと待ってる。……俺一人抱えこんだせいでここから出られなくなるなんて、ぞっとしないだろ」 御託を並べながら、それは有り得ることだ、と他人事のように思う。 瞼の裏は暗闇だ。景彦が右眼に飼っているのも暗闇。瞼の裏に共鳴して――景彦の闇は容器を喰い得る。所詮、景彦などは暗闇の入れ物に過ぎないのだから。そして闇が深さを増せば、鈴華の昏睡は、当然深くなるだろう。 ――そのとき俺はどうなるんだろう? 「行かないでよ……」 「俺はそんなに良いもんじゃないよ」 自嘲的に笑いながら、一度口にした台詞を繰り返す。そのとき、――微かに揺れを感じた。 どくん。どくん。それは心臓の早鐘のような。誰の? 斜め後ろを見る。六十度ほどの角度で傾いた白いカードは、恐ろしく脆いトランプピラミッドの一部。そのまま視線を落とすと、ベンチのつもりで腰かけていたこの板も、オブジェの一部でしかないことを突きつけられる。 仄白い二等辺三角形の中に囚われていた。 ぞっとした。 「嫌だ」 泣き出しそうな声が降ってきた。 背筋に寒気を感じ、慌てて前に向きなおる。ゆらり、と、ピラミッドはまた頼りなげに揺れた。風に晒されているかのように。 どくん。どくん。これはなんだろう。誰の鼓動だろう。終わりを恐れているのは鈴華か。それとも景彦なのか。 右眼の奥の 「一人にしないで」 「無理だよ」 懇願に絶望を投げかえす。 「……俺だって、表側で生きてるただの学生だ。帰らないと」 言いながら、右手で右眼を押さえる。偏頭痛のような、じくじくとした痛み。激痛に変わりそうな予感を漠然と感じている。そういえば、こんなに長く瞼の裏に居座ったのは初めてだ。 ――帰らないと。 「行かないで……一人ぼっちになんてしないで」 鈴華の声がダイレクトに響いた。身体を支えるはずのピラミッドがぐらりと揺れる。――落ちたら下は底無しの闇だ。右眼の中の闇と同じ。下に視線を投げ、すぐに後悔した。白いカードが一枚、ひらりと闇に呑まれていくところだった。 「やめてくれ」 咄嗟に言った。 右眼の疼痛が、徐々に輪郭を持ちはじめている。気持ちが悪い。吐きそうだ。それはどこかで経験した感覚。 ――崩れる。 「鈴華ちゃん、落ち着い――」 「独りにしないでって、そうやって、わたしお願いしてるじゃない――!」 景彦の叫びを鈴華の悲鳴が掻き消した。 「なんでわたしを置いていくなんて言うの」 腰かけた板がゆらりと傾ぐ。反射的に上を見上げた。薄い板のオブジェが音もなく崩壊していた。目の前のカードに左手を伸ばす。触れた薄い板はひんやりとつめたかった。端に手をかけることはできたがそのカードも崩れ落ちる運命だ。こんなものに今まで体重を預けていたのかと蒼白になる。板を掴む手が躊躇したその一瞬に――身体が板の上を滑りおちた。後悔する。時既に遅し。そのまま宙に投げ出された。右眼の疼痛に輪郭。闇が暴れている。瞼を喰い破ろうとしている。その想像に頭が暗くなった。 重力に負けた右手が眼から離れた。意志とは無関係に四肢が舞っている。それを他人事のように感じている。重力を感じる。下へ。下へ。漆黒が口を開けている。 閉じていた両眼を思わず見開く。見えたのは、虚空。その暗闇が自分の右眼から噴き出していることに気がついた。暗闇の向こうに歪んだ笑顔。原付に乗った、あの顔は。 ――これは報いか? 恐怖と同時に意識が暗転した。 ――とくん。とくん。 静かな心音を聞いている。 意識は穏やかに凪いでいる。辺りは暖かい。 嵐のようなあの長い一瞬は、夢だったのだろうか。ついそんな想像が浮かんでくるが、それはあくまで想像でしかない。ここでこうして心音に満たされているという事実それ自体が、これが現実であるということを物語っているのだ。そんなことを、微睡みながら考えている。 ――どこ? 声が響く。聞くべき耳は既にない。音は響く。意識はそれを認識する。 ――カゲさん? 俺はここだよ。君の中だ。 ――中? 中って……どういうこと? 少女の狼狽を直に感じている。けれど彼の気持ちは凪いでいる。半分眠った意識は酷く穏やかだった。 中は、中さ。俺は君に取りこまれた。ついでに俺自身にもね。 ――嘘。 嘘じゃないよ。じゃあ聞くけど、俺の声はどこから聞こえる? 問うと、少女は沈黙した。あとに残ったのは戸惑いだった。 とくん。とくん。とくん。とくん。 心音が次第に速くなるのを感じている。 少女を哀れだと思った。孤独だった彼女が、客人が去ってしまうことを恐れたのは当然の帰結だっただろう。だが去らねばならなかった。そうしなければ、飼い慣らしたつもりの闇に呑まれてしまうことは解りきっていたから。そんな分析をしなくても、本能的に知っていたから。ここは長く居てはいけない場所だと。 希望を見せるだけ見せておいて、それを一方的に摘みとってしまうことほど残酷なことはない。それなら少女の世界を殺したのは、自分だ。 これは報いだ。 少女の危うい世界を崩壊させた報いだ。 自己保身のために闇を抱えこんだ報いだ。 見たくないものから眼を逸らしてきた報いだ。 そうだ。闇は瞼の裏を繋ぐものではなく、光を消すものなのだから。 ――やだ。 泣きだしそうな少女の声。 ――こんなのが欲しかったんじゃない。 皮肉だね。 同情するように呼びかけた。或いはあやすように。 俺は異物であるからこそ、君の「友達」になれるらしい。いま君は、俺を失うことを恐れたんだ。光栄なことにね。 外に出られないことへの恐怖はなかった。あるとすれば、この感情はたぶん悟りなのだろう。取りこまれた意識は、分離することなど考えもしない。もう既に大きな意識の一部になってしまっているのだから。 だから君は、俺を自分の一部にすることを選んだんだ。 ――だって、これじゃ独りと同じ……。 それはそうだ。君の中に居るっていうことは、君の一部になることなんだから。君から俺は見えないよ。 でも、これを望んだのは君だけじゃない。たぶん俺の右眼も――そうしたくって暴走したんだ。 闇は闇同士、共鳴する。今になって思えば、これまで平和に飼い慣らしてきたことのほうが不思議だった。瞼の裏に迷いこむだけで、誰の闇にも共鳴しなかったことのほうが不自然だった。 ――ごめんなさい。 少女は啜り泣きながら、唐突に謝罪の言葉を口にした。 ――こんなのが欲しかったんじゃないの。違うの。 それはたぶん、無邪気な我儘のつもりだったのだ。引き起こされた結果を、彼女はそれこそ唐突に意識したのだろう。責めるつもりもその資格も、全くなかったけれど。 あるのは心地良い浮遊感。それだけだ。 じゃあなにが欲しいの? 優しく問いかけると、ぽつりぽつりと言葉が湧いて出る。 ――一緒に話したり、笑ったり、喧嘩したり……こんな暗いところに居ても寂しくないような友達が欲しい……。 ここの外になら、たくさん居るんだよ。 呟くと、少女は一瞬口を噤んだ。 ――そと? 初めて聞く異国語のような発音だった。 彼女の世界はこの暗闇がひとつきり。その外のことなど、考えたこともなかったのか。――否、問うまでもない。考えたことなどなかったのだ。一度も。きっとそんなことなど忘れていたのだろう。自分がもともと外側に居た人間だったということも。 彼女は驚いている。表情があれば、目を見開いてこちらを凝視していただろう。意識を共有するということは、感情を共有するということだ。 ――外? 彼女は再び繰り返した。 君の兄さんだとか。お父さんだとかお母さんだとか。それこそ友達だとか。外で待ってるんだ。 少女は沈黙している。彼の意図を汲みかねているかのようにじっとしている。 君が俺を取りこむっていう以外の選択肢も、あっても良いと思うけどな。 闇を飼いこむ以外の選択肢とて、きっとあったのだろう。 彼は久しぶりに、自分の意識で思考した。それだけのことに疲れ果て、またとろとろと微睡みに落ちる。昏い洞穴を意識した瞬間、遠くから少女の声が聞こえた。 ――ごめんなさい。 それは何度目かの謝罪の言葉だった。 |