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【 3 】


 湯に浸かっているような心地良さだった。
 吐き気も頭痛も耳鳴りもない。ああ、ようやく楽になった。
 目を閉じている。真っ暗だ。重力を感じない。身体などないかのように。
 身体などないほうが良いのだ。重ければ疲れる。頭があれば痛む。耳があれば幻聴がする。消化器官があれば吐き気もする。眼があれば幻視が視える。いや、眼ならもともと片方しかないのか。それなら、幻視が見える確率は普通の人の半分。そりゃラッキーだ。
 自分の呼吸を感じている。
 恐ろしく穏やかだ。ここしばらく、気の休まるときがなかった。ようやく楽になったのだろうか。眠っているのだろうか。眠ってしまえば眩暈など恐るるに足らない。
 眠って――いるのか?
 小さな違和感。
 じわりと、意識が輪郭を持ってきた。煩わしいだけの身体などなかったはずなのに、微かに動く指先がある。脚がある。どこかに座っている。その感触がある。無意識に右手をあげると、掌が顔に触れた。顔を半分覆った前髪は、傷んでいるのかあまり触り心地が良くない。
 ――リアルすぎる。
 この現実感は、夢ではない。
 夢でなければ、瞼の裏だ。
 そこまで至ったとき、ようやく自分の状況が視えた。閉じたままの瞼の裏に、自分の脚が視える。細身のジーンズと黒いスニーカー。いつもと同じ服装だ。しばらくは目を開けてはなるまいと、いつものように自分に言い聞かせた。
 左右を視ると、白く光る板の上に腰かけているようだった。いつぞやの吊橋だろうか、と思ったがそうではないらしい。下を視ると、金属板のようなものがいくつも立てられている。景彦の座る白い板も、その一部分であるらしい。いくら下を視ても終わりはない。もしここから落ちたら、と思うとぞっとする。ベンチに腰掛けるような気軽な姿勢でいた身体に、妙な力が入った。
 上を視上げると、二三段上がもう頂上だった。それを視てようやく、この物体の正体に思い至る。
 ――トランプのピラミッドだ。
 白く光る薄い板で、トランプピラミッドが組み立てられている。その頂上近くに、景彦は座っているのだった。
 ――不安定だな。
 口には出さずに呟いた。
 あの吊橋も不安定さにかけては一級品だったが、このトランプピラミッドは、それに輪をかけて不安定だ。
 吊橋は、どれだけ傷んでいようと橋である。人を支え、道となるのが役目だ。人を支えられる程度の頑丈さは持ちあわせている。現に、景彦はあの吊橋の上に立っていた。
 しかしこれは――風が吹けば崩れてしまうような、儚い手慰みの産物だ。
 瞼の主はどんな人間だろう、と、無意識のうちに気を引きしめる。瞼の裏に持つものは、瞼の主の心象風景。あるときは花壇であり、またあるときは滑り台であり、ときには電柱と電線が延々と続いていることもある。トランプピラミッドとは――返す返すも、群を抜いて不安定な風景だった。
 無意識のうちに、胸に手をあてた。鼓動は、いつもより少しだけ速い。
「誰か居るの?」
 唐突に、少女の声がした。
 反射的に声のするほうを探す。
「……誰?」
 再度降ってきた声で、景彦は主の位置を特定した。そちらに顔を向け、条件反射のようにへらっと苦笑を向ける。こちらは他人の領域に、文字通り土足で上がりこんでいる身だ。知らぬ間に身につけた愛想の良さは、ある意味では罪滅ぼしなのかもしれなかった。
「ごめんね、迷子なんだ」
「もしかして、カゲ、さん?」
「え?」
 苦笑が凍りつく。それとは反対に、不安げだった少女の声が一気に高くなる。
「やっぱり」
「……なんで」
 呟くと同時に思い出したのは、眩暈のことだった。思い出してしまえば、忘れていたことが不思議になるほど酷い眩暈だった。
 頭痛の名残の鈍痛。頭の右側に手を添えながら自問した。――此処に呼ばれていたのか?
 こちら側に、正確にはこの少女の瞼の裏に引かれていた。けれど景彦はあちら側に留まろうとした。それがゆえの――眩暈だったのか。
 景彦が質問を投げるよりも、少女が明るい歓声を上げるほうが早かった。
「本当に、カゲさん? 本当に来てくれたの?」
 戸惑った。名乗る前から名を呼ばれたのも、迷いこんでいきなり喜ばれるのも初めての経験だった。
 思わず辺りを視回す。周りは暗闇ばかりで、ただ仄白いオブジェがそびえているばかりだ。少女の姿は視えない。当たり前だ。瞼の主は、瞼の裏に姿を見せない。けれど相手の姿が視えないことは、今の景彦を酷く不安にさせた。らしくもない。
「君は……俺のこと、知ってるの」
「もちろん」
 少女の声は明らかに喜びを帯びている。ほとんど興奮しているといって良い。いくら耳を澄ましても、その現実は変わらなかった。
「お兄ちゃんが教えてくれたのよ」
「お兄ちゃん?」
「そう」
 少女の声はなぜか誇らしげだった。彼女はいったい何歳なのだろう、とどうでも良いことを考える。声から年齢を当てることは難しい。小学生とも中学生とも高校生ともとれる。もしかしたら大学生なのかもしれないが、少なくとも、声の上では「少女」だった。ただ声以上に話しかたが幼い。
 景彦の混乱をよそに、少女は指折り彼の特徴を数えあげた。――曰く、全身黒尽くめの服。ずっと目を閉じていて開かない。なのに見えているように振舞う。髪の毛はぼさぼさで、前髪が右眼を覆っている。人懐っこい笑みを浮かべる青年。等々。えらくしっかりと描写されてるな、と変に感心した。ここまで詳しく見られているということは、確かに少女の「お兄ちゃん」は景彦と出会ったことがあるのだろう、と思った。瞼の裏で出会った人間が、昼の世界で別の繋がりを持っているということが景彦には新鮮だった。
「お兄さんが、俺のこと教えてくれたの?」
 問うと、うん、と嬉しそうな声が暗闇から返ってきた。
「瞼の裏で会えるから、わたしでも寂しくないねって。友達になれるねって。だからずっと会ってみたかった」
 ――同じ瞼の裏なら、妹のところに行ってやってほしいな。
 その言葉はどこかで聞いた。たぶん、仄白く光る吊橋の上で。
 ――あのときか。
 眩暈を起こす数日前に引きこまれた、あの男。
 繋がった、と思った。
 彼が、この少女に景彦の話をした。そして少女は、景彦に出会いたいがために彼を引き寄せた――そういうことだったのだろう。
 景彦はひっそりと、苦笑した。
 ――そこまでして俺に会いたがるか?
 瞼の裏に迷いこんで気味悪がられることこそあれ、まさか望まれることがあるとは思いもしなかった。
「わたし、新田鈴華」
 そうして瞼の主は名乗った。にったすずか。主の名を聞いたのも、たぶん初めてだ。
 景彦は黙って聞いている。名乗ろうかとも思ったが止めておいた。下に視線を落とすと、果てしなく続くピラミッドと暗闇と、ぶらぶらと浮いた二本の脚が視えた。今日はジーンズなどはいていなかったはずなのに、ここに来るといつでも黒ジーンズだ。
 ――さて、どうしてくれようか。
 鈴華と名乗った少女が再びなにかを言おうとする。それを制するように、景彦は下を視たままで呟いた。
「随分不安定なもの持ってるんだね」
「え?」
 気勢をそがれたような声。
「不安定って?」
「このトランプピラミッド」
「カゲさん、見えるの? 目を瞑ってるのに?」
 少女の声は驚いているようでもあり、嬉しがっているようでもある。景彦はわずかに逡巡してから、にこり、と声のほうへ笑顔を向けた。目を閉じたままで。
「瞼の裏のことはね、こうしておいたほうがよく視えるんだ」
 へえっ、と感心したような声。理科の実験のようなものだ。結果は教師から聞いて知っていても、現実の現象を眼にすればやはり嬉しいものである。だから――こんな答えかたをした。わざわざ芝居がかった台詞を口にした自分は、たぶんお人好しなのだろう。あるいはサービス精神旺盛とでもいおうか。そう分析してみる。鈴華の表情が見えないことが残念だった。見えればやり甲斐もあるのだが。
 自分の呟きが無視されていることにふと気づいたが、そんなことはどうでも良かった。どうせ独り言である。
「カゲさん、カゲさん」
 親しげに名を呼ばれ、再び顔を上げる。期待に満ち溢れた声に、なんだか嫌な予感がした。
「どうしたの」
「友達になって」
 ――その言葉は予期していた。
 けれど、身体がわずかにこわばった。
「……友達?」
「うん」
 鈴華が浮かべているであろう期待に満ち溢れた表情を、見ないでいられることに感謝した。
 ともだち。
 無邪気な言葉が酷く重く響いた。
 人は疑え、というのが、景彦が二十年間の人生で得た教訓のひとつだった。簡単に信用すれば手酷い竹箆[しっぺ]返しを喰らうことになる。だから、人づきあいには慎重にならねばならない。友達だとか、仲間だとか、その手の言葉には特に敏感だ。例え相手が少女であったとしても。
 ただでさえ、ここは瞼の裏なのだから。
 黙りこくったまま、吊橋の上で聞いた言葉を思い返す。鈴華の兄が呟いた台詞だった。
 ――同じ瞼の裏なら、妹のところに行ってやってほしいな。
 ――あいつ、瞼の裏しか見られないから。
 景彦に向かってそう口にしたということは、当然、妹にも似たような台詞で語っているはずだ。瞼の裏しか見られなくても友達になれるだろうね、とでも。
 瞼の裏しか見られないとは、どういうことだろう。
 ――厄介なところに招かれたかな。
 腰かけた白い板に手を触れる。ひやりとした感触。これは金属なのだろうか。なにでできているのだろう。先日の吊橋は木とロープでできていたようだったが、まさかこのピラミッドの材質が紙ということはあるまい。否、プラスチックカードということは有り得るか?
「……カゲさん?」
 不安げな言葉から視線を逸らしたまま、景彦は逆に問いを返した。
「俺を呼んでたのは、君?」
「そうだよ」
 はにかんだような、安心したような声。一瞬だけ間をおいてから、鈴華はまた滑らかに喋りだした。まるで話し相手に飢えていたかのようだった。
「お兄ちゃんからカゲさんのこと聞いて、もし会えたら寂しくないなって、思ったの。わたしずっとここに一人ぼっちだったから……カゲさんが来てくれたら寂しくないなって。だから嬉しいんだ、久しぶりに人に会えたから。だから、友達になってもらって、もっと仲良くできたらなって、外のこともっとお喋りしたいなって。一人ぼっちで寝てるばっかりじゃ寂しいから」
「……寝てるって、どういうこと?」
 ぼそりと疑問を挟む。
 返事は、すぐには返ってこなかった。
 嫌な予感。闇と同じように深さを増していく。――俺はここに呼ばれたのだ。あんなに強い力で。
「起きられないの」
 辛うじて聞き取れるくらいの呟きを、少女はためらいがちに口にした。
「どうしても起きられないの。去年車に轢かれてからずっと」
 鈴華の声は陰りを帯びている。思ったほど幼くはないのかもしれなかった。自分の身になにが起きているのか、たぶん彼女は知っているのだろう。
 ――あいつ、瞼の裏しか見られないから。
 言葉を返しかね、そう、とだけ呟いた。予感することと、それが現実になることとは全く別のことなのだと痛感する。
 辺りの温度が急に下がったような気がした。無意識のうちに腕を組んでいた。辺りはひたすらに暗いのに、なぜか脳裏に白い色が浮かぶ。白い部屋と白いベッド。その中で眠るのは、チューブに繋がれた蒼白い少女。顔は見えなかった。その傍に、男が一人座っているのが見える。たぶん少女の兄なのだろう。年の離れた兄妹だ。
 辺りは暗い。
 下から上へ、今にも崩れそうなピラミッドだけが続いている。景彦はその頂点近くに座っている。
「だから友達になって」
 おずおずと口にした言葉には、無邪気さは欠片も残っていなかった。
「寂しいから」
 それは切実な、願いの言葉だった。
 ――景彦は、長く溜息をついた。そして小さく首を振った。
「申し訳ないけど、たぶん無理だ」
 空気の温度がまた少し下がる。景彦の体感気温だけなのか、それとも鈴華が蒼白になったせいなのか。
「……どうして?」
 ようやく降ってきた声は微かに震えていた。
 救世主につき放された思いででもいるのだろう、と冷静に分析する。だがそれならそもそも、景彦を救世主扱いすること自体が間違いだ。景彦はただの大学生。少なくとも、瞼の裏側の存在ではない。
 大袈裟に肩を竦めて、景彦は鈴華の声を見上げた。そして明瞭な発音で言った。
「俺は異物なんだ」
 眩暈の記憶が蘇る。
 ――誰に言い聞かせているのだろう?
「ここに居ること自体がそもそもおかしい。君は俺を呼んでくれたみたいだけど」
 瞼の表側に残してきた自分の身体は今頃どうなっているのだろう、と唐突に考えた。玄関などに突っ伏して、風邪を引いていないと良いのだが。
 景彦は――友達だとか仲間だとか、そんな言葉に怯えるただの人間にすぎない。他人の瞼の裏に土足で上がりこむ異物でしかない。どちらにせよ、彼女と人間関係を結べる立場ではないことは同じ。
 鈴華の声は聞こえない。じっと息を殺すようにして景彦の声を聞いている。或いは観察している。もしかしたら、恐ろしく脆い心象風景を眺めているのかもしれない。
「君の世界は君だけのものなんだ。俺はあくまで迷子であって、君の中に居座れる者じゃない」
「……でも、わたしが呼んだら来てくれた」
「抵抗できなかっただけさ。君があんまり強く引っぱるから。俺は、こっちから迷いこむことには慣れてるけど、残念なことに必要とされることには慣れてない」
 景彦はピラミッドの頂点を見上げた。ぴたりと静止した薄いカード。少し揺らせば簡単に崩れてしまうそのオブジェに、景彦は腰かけている。微妙なバランスで。
 ここから外に出られるのだろうか、と、不意に不安になった。
「俺はそんな良いものじゃないよ。ただ化け物を飼ってるだけの、場所の定まらない入れ物さ」
「化け物……?」
「そうさ、こっちの眼があった場所にね」
 言いながら、景彦は前髪の上から右眼を手で覆った。眼球の感触がないのは、もう慣れきった違和感だ。
 鈴華の声は聞こえない。
「……昔話をしようか」
 求められもしないのに、そんな言葉を口にした。いつの間にか、ここから出ることを第一に考えている自分に気がついた。


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