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【 2 】


  文学部を評し、「趣味人の集い」と言った院生が居るらしい。それでも飽き足らず、「世捨て人の溜まり場」と言った教授が居るらしい。おまけに他学部の学生には「文学部なんて就職できるわけがない」と暴言を吐かれる。酷いものだと思うが、実学の徒に言われてしまえば反論のしようがないのが文学部の辛いところだった。確かに、神だの、言語の構造だの、絵画におけるモチーフの意味だの、そんなものを論じたところで現実社会の役に立つはずもない。しまいには、お前の学問はなんの役に立つんだと問われて「なんの役にも立ちません」と平然と言い放った教授が居るという噂が流れる始末だった。ただし彼は、そのあと「役には立ちませんが、そのありさまを記述することは大切なことです」と付け加えたという。あくまで噂である。
 現実世界にはまず役に立たないが、知的好奇心を満たすには充分な世界である。そうやって、地面から浮いたところで「知りたいこと」を徹底的に突きつめる。――確かに、世捨て人の溜まり場だと言われても仕方がないのかもしれない。そして、それを魅力的だと感じてしまう自分には充分に「世捨て人」の資格がある。古代ギリシア社会史を滔々と説く教授を見ながら、景彦はそんなことを考える。
 やや掠れたバスが耳に届いてはいたが、講義内容はそのまま脳を通りすぎていた。知識欲と好奇心から生まれる学問は、学ぶ者が熱意を失った瞬間に存在意義を失う。少なくとも今の景彦にとってはそうだった。
 二時間目も残り四十分を切った。そろそろ空腹が頭をもたげてくる。ついでに眠気との戦いにも負けかけていた。寝たら死ぬぞ、と自分を叱咤してみたが虚しいだけだ。生憎、外はうらうらと暖かい陽気である。
 ふっと耳に入ってきた単語をとりあえずノートに書き写した。アテナイ。自分の字を見て諦める。駄目だ、こんな字では書いても意味がない。
 教授の声が心地良い。
 こっそりと、シャープペンの芯を引っこめた。そして、ぐったりと目を閉じた。
 眠気に襲われているのは、外の天気のせいでも、教授の声質のせいでも、時間帯のせいでもないことを、景彦はきちんと承知していた。
 ――眩暈のせいだ。
 もう一週間ほどになるだろうか。
 最初は、下宿でコンロの火をつけたときだった。意識がぎゅうと後ろに引っぱられた。フライパンの下で青い火が遠のく。乗り物酔いに陥ったように気分が悪くなり、思わずその場にしゃがみこんだ。
 現実が遠くなった。
 行ってたまるか、と歯を食いしばった。生存本能だったのかもしれない。
 吐き気の酷さとは裏腹に、奇妙な眩暈は数秒で消えた。
 気分の悪さだけはいつまでも消えなかった。
 ――あれが最初。
 あれから何度か、同じような眩暈に襲われた。あるときは家で、あるときは大学で。一昨日は酷かった。眩暈自体はさほどでもなかったが、よりによって自転車に乗っている最中だったのだ。慌ててブレーキをかけて歩道の脇に寄せたが、あのときは肝を冷やした。
 ――どうしたんだろう。
 病院に行くべきだろうか、とも思ったがまだ決心がつかないでいた。というより、眩暈の原因に感づきはじめていたせいかもしれない。
 ――瞼の裏。
 あの日、久しぶりに迷いこんだ瞼の裏。眩暈が起きたのと同じ日というわけではなかったが、迷子になった数日後に眩暈を起こし、それから何度もそれに襲われているとなれば、関連性があってもおかしくはない。加えて、意識が引っぱられているという感覚。引っぱられた先に――誰の瞼の裏があるのか、と考えはじめている自分が居る。
 本当に「瞼の裏」が原因であるのならば、病院に行くことは無意味だ。瞼の裏に迷いこんだ初めの頃、両親が景彦を病院に連れていかなかったのと同じ。
 妙なことが一つだけあった。
 これだけ瞼の裏に引かれていながら、あれから一度も、誰の瞼の裏にも迷いこんでいない。
 眠りの中は静かなものだった。夢さえも見なかった。
 眠ってしまえば安全だ、と無意識に思っているからこそ、こんなにも眠くなってしまうのかもしれない。眩暈を警戒して過ごしていると、それだけで神経をすり減らしてしまう。その上眠ってしまったほうがむしろ安心できるとなれば、眠くならないほうがおかしいというものだった。
 そうして今日も、うとうととしている。
 教授の声が心地良い。興味があってとった授業とはいえ、専門外の授業はどうしても身が入らなくなる。そんな些細なことも、眠気に拍車をかける。
 ――疲れてるんですよ。
 目を閉じたまま、教授のバスに呼びかける。
 ――すみません、勘弁してください……。

 ぐらり、
 と、した。

 眠気が吹っ飛ぶ。
 閉じた目に力を入れた。思わず息を止めた。
 ――来やがった。
 脳がぐらぐらと揺さぶられている。そうやって取り外してどこかへ持ち去ってしまおうとしている。どこへ。誰の――瞼の裏へ。
 フィリア互酬性によって結ばれる親しさの関係ですね人間関係のネットワークを説明する上で大変重要な概念ですポリス社会ではあらゆるところにフィリアを見出し
 目を開けてはいけない。視界が揺れるのは判っている。吐き気が酷くなるだけだ。意識が前後に揺れている。向こう側に引かれてしまいそうになる。行くな。行くな。こんな迷いこみかたは危ないに決まっているんだから。
 れからヘタイレイアは対等の友人です場合によっては裁判と政治の集団に変わってしまうんですがねほら身内のことは応援したくなるものでしょうそれと同じで
 今朝は珍しく時間があったから目玉焼きを焼いた。黄身が綺麗に半熟になった。吐くな。もったいないじゃないか。せっかく巧くできたのに。
 固く瞑った瞼の裏で、なにかがちかりと光ったのが見えた。駄目だ、もう繋がりかけている。こんなところで引きずりこまれたらやばいな。ばったり倒れて動けなくなるだろ。重病人みたいじゃないか。正樹の奴がなんとかしてくれるかな。まさか。気づいてたとしても期待はできない。ああしまった、俺とあいつの間の席、荷物置き場にしてたんだっけ。じゃ気づかなくてもしょうがないか。くそ、やべえ、吐きそうだ――。
 ――始まりも唐突だったが、終わりも唐突だった。
 脳内の大地震が、不意に終わりを告げる。あまりに速すぎるグラデーションで、揺れはしぼむように消えていった。
 気分の悪さと吐き気だけが残っている。
 目を閉じてじっとしていると、肩を誰かに叩かれた。
 ――い。
 しばらくして、名を呼ぶ声が聞こえはじめる。
 ――おい、カゲ?
 初めは霧がかかったように。段々と近づいてくる。
 ――ひこ。……景彦。
 何度も何度も。やめろそんなに叩いたら吐くだろうが――そう言おうとしたが、口からは呻き声が漏れただけだった。だが声は届いたらしい。肩を叩く手と、名を連呼する声がぴたりと止まった。
 身体を動かす。動いた。大丈夫。まだちゃんとここに居る。
 うっすらと目を開けると、やけに眩しく感じた。むくりと身を起こすと、机の上でルーズリーフが皺だらけになっていた。蚯蚓[みみず]ののたくったような文字で、 「アテナイ」とだけ書かれた紙の切れ端。景彦はそれを、ぼんやりと見つめている。見えるほうの左眼にも前髪がかかっていて、鬱陶しいことこの上ない。けれ ど髪を掻きあげる動作でさえ億劫だった。
「大丈夫か?」
 友人の声がして、緩慢な動作で顔をあげた。机を挟んだ目の前に、深林正樹が立っている。特徴的な鷲鼻に、銀縁の眼鏡が載っていた。ただでさえ神経質そうな顔だちをしているのに、深刻な表情をしているから余計にそれが際立って見える。
「……ああ」
 とりあえず発声してみた。掠れてはいるが声は出るらしい。そのときようやく、自分が脂汗をかいていることに気がついた。
 こちらを見下ろしたまま、正樹は眉を[ひそ]めた。
「ひでえ顔してるな」
「ん……いま何時」
「十二時十三分」
 すると授業が終わってだいぶ経つ。道理で教室に人気がないわけだ。だがいつもなら賑やかに弁当を広げている女子学生たちが一組も見えないのは、少々人気がなさすぎる気もする。自分のせいだということは解っていたから、あえて問うてみることもしなかったけれど。――机に倒れ伏して友人に名を連呼されているような怪しげな学生とは、誰だって関わりあいになりたくない。
 誰も居ないのを良いことに、景彦は再び机に突っ伏した。間髪いれずに正樹の右手が景彦の髪を掻きまわす。
「こらお前それだけか。寝るなら放っとくぞ」
「……気持ち悪い」
 言うと、右手の動きが止まる。立っていた友人がその場にしゃがみこんだのが判った。今度は上からでなく、真正面から声が聞こえる。
「大丈夫か」
「たぶん」
 右手をひょろりと挙げて応えると、呆れたような声が飛んでくる。
「お前の『大丈夫』は当てになんないからな」
「や、さっきよりだいぶマシ」
「ほんとかよ」
 相手はなお[いぶか]っている。よほど信用されていないらしかったが、気分の悪さが和らいできたのは事実だった。軽口を叩く余裕もある。
 顔をあげると、正樹がまた立ちあがった。レンズ越しにじろじろとこちらを見ていたが、やがて友人は、納得したのか諦めたのかひとつ溜息をついた。
「人騒がせな奴だ」
「ごめん」
 苦笑しながら自分でも、まったくだ、と思う。今までずっと、瞼の裏とは巧くつきあってきたのに――。
 思い出したように髪の毛を撫でつけた。髪を掻きわけると、視界がようやく開ける。友人のジーンズとシャツが見える。その向こうに、綺麗に消された黒板が見えた。
「帰って寝てろ、三時間目は代返[だいへん]でもなんでもしといてやるから」
 いきなり爆弾発言が聞こえて、思わず友人を見上げる。代返なんて言葉とは無縁の堅物だと思っていたのだが。
 凝視の理由に気づいてか、正樹は、腕組みをしたままぴしゃりと一言付け加えた。
「お前最近おかしいだろ」
 ――ぐうの音も出ない。
 正樹とはよくつるんでいる。そもそも景彦は極端に友人の少ない人間だったが、高校時代からの付き合いである彼とは、一緒に過ごしている時間が最も長かった。ほぼ必然的に、彼は景彦の眩暈につきあわされる回数も増える。これで二回目だったか、それとも三回目だったか。景彦の異常を心配しているわりに、なんとなく物慣れた空気を身につけてしまっているのもそのせいなのかもしれない。人間は慣れる生き物だ。この男のような者は特に。
 ――お前最近おかしいだろ。
 そうだ。そうとしか言いようがない。
 瞼の裏のことについては、正樹にも話していなかった。話したところで「やっぱり帰って寝てろ」とでも言われるのが落ちだし、万が一中途半端に興味を持たれたらより面倒なことになる。
 正樹が真顔で、観察するようにこちらを見ている。
「……まぁ、体調は芳しくないけど」
 我ながら切れのない答えかただと思った。吐き気はだいぶ落ち着いてきていたが、まだ万全とはいえそうになかった。気分の悪さが喉に絡みついている。昼からの授業に出るくらいの余裕はあったが、ここはおとなしく代返を頼んだほうが良さそうだった。景彦にしても、休める授業はできるだけ休みたいと思う程度の不真面目さは持ちあわせている。
 ゆっくりと身体を起こし、机の上のペンケースとルーズリーフをバッグの中に仕舞う。立ちあがると、正樹の視線が追ってきた。へらりと笑みを返すと、友人の顔から拍子抜けしたように緊張感が抜ける。
「とりあえず帰って寝る」
「……そーしろ」
 バッグを担いで講義棟の外に出る。左眼を射た陽射しは予想外に強かった。

 籠の中に、黒いバッグが収まっている。バッグの持ち手を片方のハンドルに通してから籠の中に入れるのは、自転車の乗りかたを覚えた頃からの癖だった。母がひったくり防止にとそうしていたのだが、景彦自身は意味も解らずやっていたような気がする。
 ぼんやりとしていたが、車のエンジン音で我に返った。前を見ると信号が変わっている。慌ててペダルを漕いだ。
 頬を撫でる風が心地良い。
 大学から下宿まで、自転車で二十分。まだ大学を出たばかりだが、今のところは特におかしな眩暈にも襲われていなかった。今日のところは一度眩暈に遭ってしまったのだからもう大丈夫だろうと思ってはいるが、気分の問題というものもある。正樹があそこまで他人の心配をするのは珍しいのだから、ここはありがたく休んむべきだろう。
 ペダルが軽やかに回る。坂道もないので快調だ。人通りも少ないから存分にスピードが出せる。これが早退する人間の漕ぎかたか、と我ながら呆れはしたけれど。
 気が急いているのは、早く家に帰って寝てしまおうと思っているせいだろう。それで気が向いたときに起きて、夕飯を軽く摂って、ドイツ語の課題を少しやろう。先週の単語テストでは、思ったほど点数が取れなかった。もう少し本腰を入れて勉強せねばなるまい。なんといっても、小テストは貴重な点数源だ。期末テストよりよほど点が取りやすい。この辺りで稼いでおけば、期末テストではずっと気が楽になる。
 青信号が続く。
 良い天気だ。サイクリング日和である。呆れるほど平和な思考を遊ばせている。
 今頃正樹はどうしているだろう。昼食は食べられたのだろうか。この時期は学生食堂が大混雑するから、昼休みに席を確保するのは至難の業である。一人二人ならどこででも適当に座れるはずだが、正樹のことだ、一人きりになったのを良いことに、面倒だといって抜いてしまってもおかしくはない。たぶん、次の時間の講義室に陣取って寝ていることだろう。
 ブレーキを軽く握ってから右折した。
 スーパーの看板が見える。寄ってなにか買っておくべきだろうか。値引きがないという致命的な欠点はあったが、この時間ならいつもより惣菜が充実しているだろう。いや、運が良ければタイムセールをやっているかもしれない。新聞を読んでいないと広告が手に入らないので困る。実家に帰ったときなどは、新聞そのものよりも新聞広告を真剣に羨ましがってしまった。解っていれば買わなかったのに、とセール品の前で悔しい思いをしたことが何度もある。
 思っているうちに、スーパーを通りすぎた。冷蔵庫には冷凍食品の類があったはずだし、下宿の近所には定食屋もある。
 自転車に乗った学生服が景彦を軽快に追いぬいていった。高校生が帰るにはまだ早い時間だ。早退か? それとも遅刻か? 中途半端な時間に制服を見かけるたびに、他人事ながら心配になる。
 黒い学生服がT字路で右折した。こちらは左折する。
 このまま眩暈が続いたらどうしよう、と、別の心配が頭をよぎった。下手をすると大学生活に支障をきたす。アルバイト先にも迷惑をかける。そうなれば、病院に行くべきなのだろうか。行って意味があるのだろうか。相談するとするなら誰に? 風邪なら内科だ。怪我なら外科だ。虫歯は歯科。中耳炎は耳鼻科。結膜炎は眼科。頭痛は脳神経科。憂鬱は精神科。この眩暈は――どこに行けばいいのだろう。脳神経科? それとも精神科? 案外、神社かどこかでお祓いをしてもらうのが効くのかもしれない。そうして、自分に棲みついている化け物を祓ってもらうのだ。
 ――そんな、今更。
 口の中で思わず苦笑する。この化け物とは長い付き合いだ。実害だってそうないのだから、今更祓ってもらうまでのこともない。最近の頭痛が「実害」だとしても、これはあの化け物自体が悪さをしているわけではないだろう、という妙な確信があった。これも一種の信頼なのだろうか。
 踏切の音。
 ブレーキを握る。左から順番に。
 ――踏切なんてあったっけ?
 ふと、我に返った。
 片道二十分の通学路に、踏切はないはずだ。
 アスファルトに片足をつく。そのまま自転車から降りた。
 警報器が鳴っている。
 銀色の電車が、轟音をあげて通っていく。髪が乱れる。反射的に、前髪の上から右眼を押さえた。窓際で本を読んでいるサラリーマンの横顔がなぜか眼に焼きついた。
 警報器が鳴っている。
 やがて唐突に音が止み、遮断機が上がる。スーパーの袋を提げた中年女性が、苛立たしげに景彦の横を通りすぎた。
 景彦は呆然と立っている。車道には、自転車と自分の影が落ちている。
 ――なんでこんなところに居るんだろう。
 ゆっくりと辺りを見回す。知っている場所だ。迷子になったわけではない。けれど不可解なことには変わりなかった。下宿とはまるで反対の場所に来てしまっている。途中で道を逸れたのだ。そういえば、左折すべきところを右折してしまったような気もする。けれどなぜ気づかなかったのだろう。
 ――帰らなきゃ。
 思いはするが身体が動かない。
 ふと見やった先に、総合病院があった。
 初めてここを通ったとき、こんなに線路に近くて入院患者は大丈夫なのだろうか、と他人事ながら心配になったことをふと思い出す。建物の中はそれほど煩くないのだろうか。それとも、単にこの踏切を通る電車の本数が少ないから影響がないのだろうか。
 踏切を渡った紺色の車が、器用に左折して病院に入る。広い駐車場の向こう。白い建物が、順光になってよく見えた。総合病院。医者が居て、看護師が居て、患者が居て、――きっと、死にゆく人も居る場所。
 踏切を渡りもせずに、景彦は佇んでいる。
 ――呼ばれたのだろうか?
 そんな思いがよぎって、慌てて頭を振った。なにを考えているのだ。馬鹿馬鹿しい。
 ――無意識にこの道を選んでしまった、その事実が、呼ばれたということを表しているのではないか?
 植え込みが見える。芝生が見える。敷地内を、車椅子の患者と看護師とがゆっくりと歩いている。カーテンの閉じられた窓がある。花の飾られた窓がある。窓の外をぼんやりと見ている老人が居る。外からは、窓のことが案外よく見える。
 右眼の眼窩が鈍く疼いた。
 瞼の裏で暗闇が呼んでいる。
 嫌な予感がした。
 ――くらり。
 危ない。
 咄嗟に病院から視線を逸らした。自転車のハンドルを握りしめる。俯いたままでサドルにまたがりUターンをする。危うく歩行者とぶつかりかけたがなんとか避けた。――危ねえだろ! 怒声が飛んでくる。
 ――まさか。
 力いっぱいペダルを漕いだ。少しふらついたがハンドルにしがみついて耐える。乗り物酔いの気持ち悪さが、ふつりと喉から湧いてでた。
 ――来るな。
 背後に病院の存在を感じる。白の重量感。
 あっけらかんとした青空が恨めしい。そこで、空を仰いで喘いでいる自分に気がついた。
 視界が歪んだ。強く眼を瞑って開いて、無理矢理に矯正した。道なら解る。眼を閉じていても下宿には辿りつける――否、さすがにそれは言いすぎだろうか。
 ペダルを漕ぐ。身体が熱かった。
 かんかんかんかんかんかん
 後ろから呼んでいる。そうだ。確かに、俺は呼ばれているのだ。――誰に?
 吐きそうだ。
 瞬きが重い。気がつけば、目を閉じている時間のほうが長かった。
 自転車にベルを鳴らされた。
 気分が悪い。
 瞼の裏に吊橋を見た。
 ――また来やがった。
 歯を食いしばる。
 金属質の耳鳴り。
 盲人用信号がありがたかった。思えば半分近く眼を閉じたままで自転車が漕げたのは奇跡だった。
 瞼の裏に少女の姿を見た。
 ――誰だ、お前?
 あの窓のどれかの中に居るのだ。そんな確信。
 ペダルが重い。坂道などあっただろうか。
 もうすぐ。あの角を曲がれば下宿だ。
 頭が重い。チェーンの軋む音が頭の中できんきんと響く。吐き気が襲ってくる。頭が朦朧とする。熱中症だろうか? そのほうがまだ良い。原因と対処法が判っている。塩水と、日陰と、安静。安静がなにより大切だ。早く眠りたい。一刻も早く。眠ってしまえばこの酷い気分ともおさらばできるのだから。
 太陽が眩しい。
 右眼が疼く。
 右眼の中で――暗闇の化け物が疼いている。どこかに繋がろうとしている。
 倒れそうになりながら自転車を駐輪場に放りこんだ。鍵に反射する日光でさえ恐ろしく眩しく感じた。脈拍に合わせて頭痛がする。がしゃん、と音がして鍵がかかる。スニーカーの足元がふらついた。アスファルトが歪んで見える。自分の部屋が一階ではないことを恨んだ。マンションにエレベーターが付いていないことも恨んだ。
 自分の呼吸音が聞こえる。
 瞼の裏に、なにかが光っている。今度は――誰と繋がりやがった?
 階段を上る。
 薄ぼんやりとした白い光。次第にピントが合うにつれて、自分の意識がそちら側に吸いこまれていくのを感じている。――待て。待ってくれ。あと少しだけ。鍵穴に鍵を入れて回して、靴を脱いで――それだけの時間を俺に。
 鍵が鍵穴に入らない。光が眩しい。もっと暗い場所に。もっと暗闇を。
 扉が。開いた。中に滑りこんで後ろ手に閉めた。鍵は中からのほうが余程閉めやすい。サムターン回しもきっとやりやすいことだろう。そこまで思ったところで玄関に膝をついた。次の瞬間には頬が床についていた。辛うじて顔を動かすと、慣れ親しんだ室内が見えた。ようやく安心する。
 ――俺の部屋だ。
 全身の力が抜けて、景彦はふっと意識を失った。


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