blackbox

【 1 】


 微睡[まどろ]みの奥から意識が浮かび上がってくる。
 温もりがすっぽりと包みこんでいる。出たくない、けれどたぶん出なくてはならない。頭の中はまだ現実味に乏しかった。良いじゃないか、このままで。こんなに気持ちが良いのだし。
 眠りに引きずられながらうっすらと目を開けると、時計の針が見えた。ピントが合わない。まだぼやけている。これはもう、時計など見るなという神の思し召しなのだろうか。馬鹿なことを思っていると、そのうち綺麗にピントが合った。
 十時。
 しばしぼんやりとそれを眺め、再び目を閉じようとする。
 だが突然覚醒した。
「あ」
 ――寝坊した。
 一時間目のドイツ語は九時ちょうどから。目覚まし時計は七時にセットしたはずだが、遅くとも八時には起きなければ間に合わない。しかしその一時間目は十時半に終わる。よって、さようなら、一時間目。これで欠席を一つ無駄にした。
 布団を被ったまま、時計を見る。見たからといって針が逆回転する道理はなく、ただ平然と秒針が動いているだけだった。
 十時。
 一時間目は逃しても、二時間目の演習には頑張れば間に合う。が、そんな体力はもう残っていないようだった。寝起きのだるさを差し引いたとしても、ずっしりとした疲労感は拭えない。
 布団を被りなおし、景彦[かげひこ]はベッドの上で仰向けになった。カーテン越しの陽の光が、室内をぼやけた灯りで照らしている。白い天井を見ているうちに、仄白い吊橋を思い出した。
 ――久しぶりに、瞼の裏に迷いこんだ。
 一人暮らしを始めてからは、眠っている間に瞼の裏に迷いこむことなどほとんどなくなっていたのに。
 実家に住んでいた頃は酷かった。両親や弟の瞼の裏に迷いこんでしまうのだ。初めは随分と気味悪がられ、幾度となく病院に連れていかれかけたが、実際に医者の世話になったことは一度もなかった。景彦一人の妄想で済むならとにかく、両親なり、弟なりを巻きこんでいるのである。一家揃って精神科を受診するのも馬鹿らしかった。家族が景彦をそっとしておいてくれたのは、「迷子」の原因にはっきりとした心当たりがあったせいかもしれない。あの頃景彦は、そうでなくても遠藤家の腫れ物だった。
 そのうち彼らは景彦の来訪を受け入れるようになったが、最終的には、迷いこんで来た景彦を無視して眠りつづけるという技を会得するまでに至ってしまった。――その点、彼らの環境適応能力は群を抜いて優れていると言わざるを得ない。景彦とて好きで瞼の裏に居るわけではないのだし、大した用があるというわけでもないのだから、そのほうがありがたいというものだったけれど――家族の瞼の裏に独りぽつんと佇んでいるというのも、なかなかに寂しいものがある。どうせ訪れるのならば構ってほしいのが本音だった。
 そんなことが、一人暮らしを始めてからはほとんどなくなった。
 一人で暮らしてみると、引きずりこまれてしまうまでに近しい人間が減る。景彦も自然と、熟睡できる日が増えた。ただしそのぶん、たまに迷いこんでしまう先が赤の他人だったりするのが問題だったけれど。
 今日もそうだった。
 今日出会った男は、酷く疲れていたように見えた。自分もほとんど徹夜で疲れていたから、たぶんそのせいなのだろう。疲れているときこそ深い眠りに堕ちてしかるべきだろうに、そんなときに限ってあちこちに迷いこんでしまうのだから厄介な話だ。ただでさえ制御ができないのが、疲れてしまうと余計に制御できなくなるのだろう、と勝手に理屈をつけて納得した気になっている。理屈は大切だ。平穏に暮らしていくためには。
 あの男が抱えていたのは、崩壊寸前の吊橋だった。
 ただでさえ不安定な吊橋が、あちこちに負荷を抱えてぼろぼろになっていた。橋板は割れて穴が開き、ロープはところどころ切れてだらりと板が垂れ下がっている。そんな状態でも、まっすぐに消失点まで伸びている――そんな橋だった。
 ただ、崩壊寸前とはいえ、橋の部分が全て壊れているわけではないというのは救いを思わせた。がっしりとした橋板も、ちょっとやそっとでは解けそうにない固い結び目も、確かに存在した。芯は強い男性であるようだ。
 芯は強いが、負荷も強い。
 それはバランスが良いと――いうのだろうか。
 ――こんなこと考えてどうするんだか。
 天井に投影した橋の幻を振り払いながら、景彦は決死の覚悟で起きあがった。布団をはねのけ、窓に飛びついてカーテンを開ける。朝陽というには若干遅すぎる陽射しに、思わず目を細める。
 二時間目の授業に出ようという気はとうに失せていた。ただ、レポートだけは書いてしまいたい。素晴らしい勢いで進んだ昨夜の思考回路が、今ならまだ残っているかもしれなかった。締切までにはまだ日があるが、こういうものは調子の良いときに書いてしまわないと後で酷い目に遭うことが見えている。
 うんと伸びをした。
 首を左右に一度ずつ鳴らし、欠伸を噛み殺しながら洗面台に向かう。蛇口を捻る前に、ふと鏡を見つめた。
 寝癖を差し引いてもぼさぼさの黒髪。目脂のついた寝ぼけ眼。ただし左眼だけだ。右眼の前には、いつも通りすっぽりと前髪が覆いかぶさっている。顎にはぽつぽつと髭が見えた。我ながら情けない顔だった。
 右手でおもむろに、長い前髪を掻きあげる。
 引き攣れた傷跡と、空洞の眼窩が見えた。空洞というよりは、暗闇の詰まった眼窩。
 右眼を慎重に確認する。特に疼きも痛みもしなかった。それだけを確認して、また前髪を下ろす。
 髭を剃るのは出かける直前で良いや、とだけ判断し、景彦は勢いよく蛇口を捻った。
 こいつをコントロールできればだいぶ楽なんだけどな――。今まで幾度となく頭をよぎってきた恨み言が、またふつりと湧いてくる。瞬きはある意味不随意運動だ。それなら、瞼の裏に迷いこんでしまうのも不随意でしかありえない。――そう、理屈は大事なのだ。
 思うに任せないことよりも、思い通りになることをどうにかするほうが先だ。トーストを焼いてコーヒーを飲んで、すっきりしてからパソコンを立ち上げよう。それだけをさっさと決めて、景彦は冷たい水を顔にぶちまけた。


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