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【 prologue 】


 その日僕は、夢を見なかった。
 或いは、奇妙な夢を見た。
 どちらでも同じことだ――と思う。あの出来事を夢と名づけるか、そうしないかというだけの話だ。
 どこまで続くとも知れぬ暗闇が広がっていた。ただ、視界の真ん中に、今にも壊れそうな吊橋が延びているのが見える。白くぼんやりと光るそれは、辺りの暗闇と同じく、どこまでも続いて消失点で消えていた。
 そして橋の片隅には、一人の青年が、ごく当たり前のように佇んでいた。薄く光る橋とは対照的に、シャツもズボンも靴も、今時珍しいことに髪までもが漆黒だ。白い吊橋の上、そこだけが影絵のように黒い。微動だにしないせいか、余計に影絵じみて見えた。辺りが暗闇に包まれているにも関わらず、彼の姿ははっきりと見て取ることができる。橋のように光っているわけでもないのに。
 僕はそれを見ている。
 なにもできないから、ただ観察だけをする。
 橋板に[ひび]が入っていることだとか、太かったはずのロープが擦り減っていることだとか、橋板が折れて半分垂れ下がっている場所があることだとか、そんなことをただ見ている。原形を保ったままの板も、板の割れ口も、摩耗したロープも、きちんとした結び目も、同じように光を帯びている。触れたらそのまま凍ってしまいそうな、どこか冷たい光だった。
 それ以外は、ただの闇。観察できる対象もないような、大して面白くもない黒色。
 ふと思う。
 ――僕は、どこに居るのだろう。
 吊橋の上だろうか。それにしてはどこまでも見えすぎる。
 嫌な予感がして視線を下に落としてみたが、僕の足は見当たらなかった。
 ――死んだのだろうか?
 ぞっとしない想像だ。慌てて記憶を反芻する。残業のせいで、また会社を出るのが遅くなった。けれど無事に家には帰りついた。夕食を軽く摂ってから風呂に入ってすぐに寝た。確かに最近根を詰めて働いてはいたし普段から心配事も絶えないが、まだ突然死するほどの年齢でも過労死するほどの勤務量でもないはずだ――それともこれは悪い夢か?
 嫌な予感はすれど、冷や汗を流すこともない。どうやら、僕には身体がないらしい。それもまた、悪い夢であってほしいという思いを補強した。
 不意に、影絵じみた青年が顔を上げた。顔を斜め上に向けたままで、またしばらく静止する。やがて彼は、幾度目かの間違いを犯したときのような独り言を漏らした。
「あ、またか」
 ぼさぼさの黒髪の間から、閉じられた左の瞼が見える。右目は前髪に覆われていて見えなかったが、たぶん閉じているのだろう。前髪のかかった目だけを開けておく道理はない。あの前髪は、邪魔ではないのだろうか。目を閉じていればそんなことは気にならないのだろうか。
 両目を閉じたまま、彼はきょろきょろと辺りを見回して――見えてはいないはずなのだから見回すというのはおかしいのだろうか――まもなく、正確に僕のほうへ顔を向けた。まるで見えているかのように。
 黒い靴が、僕のほうへ向きを変える。その拍子に橋板が軋んでどきりとした。
「すみません、お邪魔してます」
 彼はのんびりと、人懐こい苦笑を浮かべてみせる。大学生くらいだろうか。全身黒尽くめという張りつめた服装をしているくせに、拍子抜けするくらいに緊張感のない表情だった。
「ただの迷子ですからお構いなく」
「迷子?」
 反射的に問い返した。聞き慣れた自分の声だ。すると、声は出せるらしい。
「ええ」
 彼のペースに乗せられかけている自分を感じる。それも良いかもしれない、と思った。自分が死んだのではないかという疑いを紛らわせられるのならば。
 目を閉じたままで肩を竦め、困ったな、とばかりに彼は苦笑する。
「ときどきこうやって、他人様の瞼の裏にお邪魔しちゃうんですよね」
「瞼の裏、って」
「まあ、夢の中みたいなものですよ。実は俺も参ってるんです」
 わけのわからないことを平然と言い、彼はまた、目を閉じたままで辺りを見回した。――妙な青年だ。
 瞼の裏。夢? それではここは、僕の夢の中なのか。
 こちらの思いを知ってか知らずか、彼はすっと手を伸ばし、白い吊橋に手を触れた。手探りをするでもなく、迷いなく手を伸ばしてロープを手に取る。目を開けていないはずなのに、まるで見えているかのようだ。
 ほつれたロープの手触りを確かめている彼に向かって、僕は小さく問いかけた。
「……君は」
 彼は、ロープを弄ぶ指を一瞬だけ止めた。そしてまた、こちらを見上げて笑う。他人の夢の中に入りこんでいると言っておきながら、彼のほうが自分の庭に居るかのようだ。堂々としているし物慣れてもいる。狼狽しているのはむしろ僕のほうだ。
「カゲとでも呼んでください」
 ――影。
 返ってきた名前に思わず笑いそうになった。こちらの考えまで見透かされていたのだろうかと思ったが、カゲと名乗った青年は、こちらにきょとんとした顔を向けているだけだった。まさかとは思ったが冗談ではないらしい。――つくづく妙な夢だ。
 なぜ、出会ったこともないような人間が自分の中に「お邪魔して」くるのだろう。こんな青年やら、おかしな橋やらを創造してしまうほど、僕は疲れているのだろうか。それとも、そんな余裕があるのだから、僕は意外と気力が有り余っているということになるのだろうか。
 もうロープには興味を失ったのか、カゲはしゃがみこんで橋板に触れていた。ただでさえ安定感に乏しい吊橋が崩壊寸前まで傷んでいるというのに、彼はそんなことは全く気に留めていないらしい。相変わらず両目を閉じた彼のすぐ隣に、真っ二つに割れた板があることが気になって仕方がない。僕ならこんな吊橋の上など、願い下げなのだが。
 そして改めて考える。
 僕は今どこに居るのだろう?
「随分と不安定なものを持ってるんですね」
 カゲが、独り言のように言った。すっと沁みこんでくるような、心地良い響きの丸い声だった。
「不安定?」
「見るからに」
 言って彼は立ち上がり、黒い靴の爪先で足元の板を小突いた。その拍子に、ぱらぱらと木屑が落ちる。雪のようなそれは、どこまでも落ちて――暗闇に溶けて消えた。底なし沼を連想した。
 彼は、ただ少しだけ俯いている。ぼさぼさの黒髪と相まって、余計に表情が見えなくなった。
「だって、ここはあなたの瞼の裏なんですから」
 僕の、瞼の裏――。
 そうか、と、僕は突然理解した。
 自分に身体がないことも当たり前なのだ。ここが僕の瞼の裏だというならば、それを見ている僕は眼だけの存在ということになる。手足は瞼の外側にあるのだから。
 瞼の裏という言葉には、妙な現実味があった。これは夢なのだろうか。それとも本当に、瞼の裏に映った心象風景なのだろうか。
「だから君は目を閉じているのか」
 問うと、相手は少しだけ驚いたように顔を上げた。そしてまた、僕のほうをじっと見上げる。思い出したように肩を竦めた。どうやら正解したらしい。
「瞼の裏のことは、目を閉じたほうがよく見える――」
「まあ、半分はそんなところです」
 にこりと、彼は口元だけで笑った。眼は口ほどにものを言うというが、その眼がない以上、彼の表情にはどことなく胡散臭さがつきまとう。この突拍子もない状況のせいなのかもしれないけれど。
 良いではないか、どうせ夢だ。
「不安定だっていうことに、心当たりでも?」
 こちらの不信感を知ってか知らずか、カゲはごく気軽な口調で問うてきた。吊橋を検分するにも飽きたのか、両手でロープを掴んで遠くを見やるような姿勢をとっている。いくら見ても、遠近感の欠片もない墨色しかないはずなのだけれど。
 脳裏に妹の姿が浮かんだ。
「君にそこまで言わなくちゃならないかな」
 口にした言葉が我知らず辛辣な響きを帯びる。はっとしたときには、彼が再び、こちらに瞼越しの視線を向けてきていた。口元に表情はない。きっと彼が目を開けていたなら少し見開かれていただろう、と他人事のように想像した。
 ほんの数秒の沈黙に、居心地の悪さを感じた。
 いくらなんでも大人げない対応だったかもしれない。そんな反省は確かによぎったが、さりとて巧い取り繕いかたも思い浮かばなかった。とにかく謝るべきかと思ったが――時既に遅し。
「すみません」
 先に口を開いたのは青年のほうだった。きまり悪げに、ぼさぼさの髪を掻く。
「突っこんだこと訊いちゃいましたね」
「いや……ごめん」
 謝罪の言葉は口をついて出たが、それが誠意あるものになっているかどうかは我ながら疑わしかった。いい大人が情けない。
 彼は眼を閉じたままこちらに顔を向けていて、――そのうち、なにかに気づいたかのようについと首を傾げた。口が微かに開いているのは、考えごとをしているのかもしれない。気づかれたのだろうか。まさか。目は開いていないはずだ。彼にはなにも見えていない。否、瞼の裏は見えているのだ。すると、僕の考えていることが見透かされていないとも限らないだろう。記憶は、瞼の裏にふっと浮かびあがるものだから――。
 知られたからどうということではない。だが、記憶を探られているかもしれないという想像は、ほとんど妄想とはいえ愉快なものではなかった。
 だから僕は、敢えて地雷を踏んだ。
「同じ瞼の裏なら」
 言うと、カゲは顔を再び僕に向けた。目顔のない顔は、どことなく無機物めいている。
「妹のところに行ってやってほしいな」
「妹?」
 彼の鸚鵡[おうむ]返しに頷きを返そうとしたが、首を動かしたという実感はなかった。彼に見えているのかどうかも怪しい。
 できるかぎり冗談めかして、肩でも竦めているような口調で言う。
「あいつ、瞼の裏しか見られないから」
 彼を真似て気取った言いかたをしてみたつもりだったが、考えてみれば、妹の状態としてこれほど適切な言い回しもなかった。もし僕に身体があったなら――たぶん、やっぱり肩でも竦めて苦笑しているのだろう。或いは彼の瞼には、そんな僕の姿が映っているのかもしれない。そんなことを思ったが、彼はただ、黙って頷いただけだった。解っている、とでも言いたげな真顔で。
 そして僕は、問われもしないのに喋りつづける。
「友達の一人や二人、欲しいだろうと思ってね。一人きりじゃ寂しいだろうし。こんな……暗い場所なら尚更だ」
「友達ですか」
 また鸚鵡返しのように呟くと、カゲはひょいと、僕の代わりとでも言わんばかりに肩を竦めた。浮かべた微笑は、僕が浮かべたかったのと同じ、どこか寂しげな微苦笑だった。
 なんとなく、どきりとした。
「残念ですけど、自分じゃ行き先が選べないんですよ、これ。だからこそ迷子なんです」
 口にした言葉はむしろ自嘲的だった。
 僕は黙って彼を見つめていた。軽薄な口調を装ってはいても、重苦しさが帳のように下りてくる。大人げない冗談を口にしてしまったことを、少しだけ後悔していた。
 仄白い吊橋の上に、彼は影絵のように佇んでいる。ぼさぼさの前髪で、右眼をすっぽりと隠して。自由なはずの左眼も瞼の向こう側だ。
 壊れかけの橋は微かに光っている。
「君は……」
 呟きかけたとき、僕は目覚まし時計の音を聞いた。


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