葬儀屋
「積み藁」

下、


  執務室に戻るなり、常磐はソファに身を沈めた。眼を閉じながら息をつく。吐いた息の分だけ、ソファに沈みこんでいくような溜息だった。らしくないな、と思ったが、それなら常磐らしさとはなんだろうと逆に自問する羽目になった。眼を閉じて彫像のように座っている彼は、ある意味でとても常磐らしい気もするのだけれど。――そんなことを考えながら、所在なく彼の隣に佇んでいる。立ち位置に居心地の悪さを感じてようやく、狭霧は硝子テーブルを挟んだ正面の席に腰掛けた。
 腕を組んで俯いた相棒を真正面に見据えて、狭霧は浮かんだままの問いを投げた。
「恐慌きたして影にでもなったらどうするつもりだったの?」
 常磐は、俯けていた顔を上げた。きょとんとして狭霧を見る。彼には珍しい類の表情だった。カメラを向けてみたいと馬鹿な衝動に駆られたが、それは流石に抑える。
「ほら、さっきの自己中中年」
 人差し指を立てて言うと、常磐はああ、と呟いて視線をすいと斜め上に上げた。つられて狭霧も同じほうを見る。相変わらず、壁面の書棚にはファイルがきっちりと詰まっていた。神経質な人間が二人で結託すると、疑う余地なくこういう結果になる。
 あの男も、今やあのファイルの一部となってしまった。
 不意に妻の微笑を眼にし、憔悴しきった死者の姿が蘇った。――内側から崩壊し、掻き消えるように現世を去っていった渡瀬慎一。部外者たる常磐や狭霧の出現で、否応なしに自分を相対化させられた死者。針の先で突いた程度の良心しか持ち合わせていなくとも、第三者の眼を通せばそれは肥大化する。揺らぎかけたその状態で――常磐のあの顔に見据えられ、その上妻に笑顔を見せられれば堪ったものではないだろう。そのくらいは、想像がついた。常磐の眼には、見られた者を不安に駆りたてるようななにかがある。
 それにあの言葉は、ぞっとするほど無機質だった。
「あそこまで追いつめたら、影になったって文句言えなかったわよ」
 言葉を重ねても、常磐の眼は斜め上を向いたままだった。
 相手を追いつめるという手法は、その相手を、人間の魂から感情の塊に突き堕としてしまうリスクを伴う。だからこそ、行使するこちら側は冷酷なほどに冷静である必要がある。だがそれにしても、あのときの常磐はやりすぎていた。危ないところだといえば、確かに危ないところではあっただろう。狭霧とて、あの状況下におかれたら崩壊していたかもしれないのだ。
「やりすぎてたわ」
 駄目押しで諫めると、常磐は思い出したように、ふ、と苦笑した。その手の表情など久しく忘れていたと言わんばかりの苦笑だった。
「……考えていませんでした」
 形の良い唇を見て、狭霧はしばし思案する。
 たっぷり五秒その言葉を咀嚼して、それから唐突に吹き出した。
「なにそれ」
「なんでしょうね」
 常磐も同じように笑っている。いつの間にか表情の陰りは消えていた。浮かべているのは、いつも通りの穏やかな笑み。照れ隠しの苦笑でも、自嘲的な微笑でもない、無味無臭の笑みだった。
「常磐でも考えなしにモノを言うことがあるのね」
「僕はいつも行き当たりばったりですよ」
「嘘ばっかり」
 軽口を返すと常磐もくすりと笑った。上辺だけのやり取りは、狭霧も嫌いではない。
 けれどもう少し、踏みこんでみる気になった。
「ねえ」
「なんですか」
「怒ってたの?」
 簡潔に問うと、ほんの一瞬時が止まった。
 微笑んだ常磐の唇が、僅かに歪みを刻んだ気がした。狭霧に向けた視線を外すこともなく、ゆっくりと脚を組む。それだけだ。なにも言わない。けれどそれで充分だった。
 常磐を真似て溜息をつき、狭霧は肩を竦めた。
「一度怒らせてみたいものね」
 何事もなかったかのように、常磐は微笑んだ。
「やめておいたほうが良いですよ。僕はたぶん、怒らせると性質[たち]の悪い死人ですからね」
 いつになく、シニカルな笑みだった。狭霧は苦笑で返事に代えた。肯定も否定もしなかった。
 ――よくそんなことが言えたものだ。
 小さく呟いた言葉は、たぶん彼の本心だったのだろう。それが意識的なものだったにしろ、襞の隙間から無意識が露出しただけだったにしろ。
 ――業を煮やして斑鳩がブチ切れたら、怯えてすんなり現世を離れてくれた、って感じです。
 青葉の言葉を思い出した。だが、まさか常磐がそんな手口を遣うとは思えない。彼の遣り口はいつだって搦め手だ。相手が語るに堕ちるのを、待つ。丹念に巣を張って、罠が機能するのを待つ蜘蛛のように。
 それなら真実、彼の口にした言葉は本心だったのだろう。計算高い手口のひとつではなく。――ならばきっと、常磐は苛立っていたのだろう。
 相棒は依然、脚を組んで座っている。相変わらずその心中は読めなかった。
 しかしもし彼が、渡瀬慎一の幼児的な自己中心性に対して苛立っていたのだとすれば、常磐は、狭霧が思っていたよりもずっと人間的な死人なのかもしれなかった。
 仮面の隙間が見られただけでも良しとしよう、と、狭霧は思考を止めた。自分の本性をひた隠しにすることは彼の十八番だ。些細なものでもそれが見られたというのなら、相棒として彼に一歩近づけたことになるのかもしれない。
 それにしても、一度も見たことのない本性を「隠されている」と判断するのも妙なものだ。謎めいた表情の断片を見ているとそうとしか言いようがなかったのだけれど。
 もう少し観察させてもらおう。そう思ってソファに身を沈めたとき――不意にノックの音がした。
 はい、と応えて振り返ったときには、既にドアは開いていて、隙間から当の斑鳩が顔を出していた。
「すいません、書類が……どうしたんすか」
 言われて慌てて顔に手を遣る。酷く間の抜けた顔をしていたに違いない。
 背後で常磐がくす、と笑った。振り返ると、彼はこちらを見て軽く微笑み、それから狭霧の肩越しに、面白がっているような眼で斑鳩を見た。
「意外な人が意外なタイミングで来たなと思いましてね。書類の数でしょう?」
「ええ……まぁ」
 歯切れ悪く答えながら、斑鳩は後ろ手で扉を閉めた。背中まである長髪は、今日も首の後ろで簡単に結ばれている。毛先にまでまとまりがあることを、ショートカットの狭霧は密かに羨んでいた。枝毛の心配などはないのだろうか。
 常磐を見、そして狭霧を見る。所在なげに頭を掻き、斑鳩は結局そのまま棒立ちに佇んだ。青葉の前ではもっと偉そうにしているはずだが、常磐の前では未だにどう振舞って良いか解らないらしい。
 ――無気力になるんですよね。
 いつだったか、斑鳩は長い髪を弄びながらそうぼやいていた。たぶん単純に、彼は常磐が苦手なのだろう。
 狭霧は視界の隅で常磐を見た。彼は優雅に腕を組み、例の微笑で斑鳩を見つめている。斑鳩から口を開くのを待っているのだろう。それにしても、厭な上司の見本のような男だ。意味深な微笑というのは、部下の口を開かせるのに適した表情ではない。――そのほうが見ていて面白いのは、確実だけれど。
 軽く苦笑いをして馬鹿な考えを振り払う。狭霧はようやく立ち上がり、斑鳩に助け船を出した。
「書類の数が足りなかったから、取りに来た。そんなとこでしょ」
「そうです」
 ほっとしたように、けれどいささか不満げに、長髪の部下は応える。常磐から眼を逸らす口実ができてほっとしたのは事実だが、その用件でここに来たのは不本意だ――そんな顔をしている。考えていることがすぐに顔に出てしまうのも短気なのも、彼の幼さの表れかもしれなかったが、かといってかの死者ほどに始末に負えないわけではない。結局人徳かと、身も蓋もないことを考えた。斑鳩と人徳というのも、考えてみれば妙な組み合わせだけれど。
「わざわざ仕事を増やしにくるなんて、どういう風の吹きまわし?」
 からかうと、斑鳩は曖昧に笑った。出来損ないの愛想笑いのような表情だった。
「俺じゃなくて青葉ですよ、俺にサボりの口実与えるのはけしからんって」
「見上げた『葬儀屋』ではないですか」
 常磐が笑う。彼が日常会話を始めてようやく、斑鳩の肩から硬さが消えた。
「少なくとも俺よりは」
「ではご褒美が要りますね」
「は?」
 澄ました常磐の台詞に、斑鳩が間の抜けた声をあげた。狭霧が苦笑いを漏らすと、斑鳩が紅い眼を白黒させながらこちらに視線を移してくる。助けを求めるような表情はなかなかの見ものだったが、あまり苛めては気の毒かもしれない。
「常磐の言うこと真に受けちゃ駄目よ、常磐の八割は詭弁と嫌味で出来てるんだから」
「酷い言われようですね」
「本当は十割って言いたいところよ。……で、斑鳩」
 苦笑する常磐に軽口を叩いてから、茫然としている斑鳩に別の苦笑を向けなおす。
「わざわざ来てもらって申し訳ないんだけど、その一件、ついさっき片づけてきたところなの」
 言うと、斑鳩の眼が微かに生気を取り戻した。
「もともとが、渡し忘れちゃった私のミスだからね。……だからまあ、正直者の青葉に免じてこの一件はなかったことに、ってとこ」
「そうですか」
「でも」
 次に任せる仕事は多少面倒臭いかもよ、と付け加えると、斑鳩は一拍遅れて苦笑した。彼にしては随分と自然な表情だった。
 そして問うた。
「面倒臭くない仕事なんてあるんですか」
 何気なく言われて狭霧は、常磐にちらりと視線をやった。常磐の眼もこちらに向いている。相棒同士が段々似てくるというのは本当らしい。
 先に視線を外したのは常磐だった。
「面倒臭さは似たり寄ったりですよ。相手が自分の堪忍袋に入るか否か、それだけの話です。――」
 斑鳩はしばし、怪訝そうに常磐を見返した。けれど無駄だと悟ったのか、今度は狭霧を見た。だが狭霧にしたところで、浮かべている表情は常磐と似たり寄ったりだろう。ただそれが、彼にも少しは解りやすい苦笑であるというだけで。
 諦めたのか、唐突に頭を下げ、長髪の部下は執務室の扉を閉めた。釈然としない表情のままで。
 ばたりと音を立てて閉まった扉を見つめたままで、狭霧は常磐に問うた。
「渡瀬慎一は入らなかったってことね」
「……緒は切れずとも、口から少し飛び出したという感じでしょうかね」
 他人の噂でもするようにそう言って、常磐は軽く笑った。苦笑と照れ隠しの混ざった微笑だった。

――了


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