控えめなノックの音で、狭霧は書類をまとめる手を止めた。ちょうど良いタイミングだと思ったのも束の間、はい、と応じた途端に電話が鳴りはじめて面食らう。反射的に視線を落とすと、デスクの上で確かに電話が着信を知らせている。来訪者か電話か――その二択に本気で挑もうとする寸前、常磐の白い手がゆったりと受話器を取りあげていた。その手につられてまた視線を上げる。受話器を耳に押しあてた相棒が向けてきた笑みを見て、ようやく狭霧は冷静になった。 空いた右手の指でドアを指す彼に、照れ隠しの苦笑と頷きを返す。――一人よりも二人のほうが便利なものだ。そんなことを、半分感心しながら実感する。部屋の住人は複数居たほうが都合が良い。ただでさえ、班長の執務室といえば来訪者や電話が多いのだ。身体が一つしかなかったなら、部下の順番待ちができて大変なことになる。 ためらいがちな、二度目のノック。 「どうぞ」 狭霧は改めて、はっきりと口にした。 安心したようにドアノブが動く。 「失礼します。書類持ってきまし……」 坊主頭を軽く下げて入ってきた青葉が、顔を上げてふと口を噤んだ。戸惑いを眼で訴えてくる部下に、狭霧はひらひらと手を振って笑みを向けた。 「常磐なら気にしないで。書類、貰いましょうか」 「あっ、はい」 青葉が慌ててドアを閉める。それを確認してから、狭霧は書類の束を取りあげた。斑鳩、青葉――クリップで留められたメモに書かれた名を確認してから席を立つ。ちょうど、部下に渡す書類の仕分けが終わったところだ。ローテーブルの前に腰かけると、青葉も狭霧の正面に座ってファイルを取りだした。――さすがに手が震えているとまでは言わないが、緊張しているのが見てとれる。青葉がこちらを見ていないのを良いことに、狭霧は密やかに苦笑を漏らした。入ったばかりの新人を一人で報告に来させるとは、 見たところ喪服は馴染んできたようだが、肝心の仕事や、放任主義の相棒には慣れてきているのだろうか。坊主頭と長髪の組み合わせは一見珍妙だったが、並べてみると意外に似合いだと思ったけれど。――几帳面に書類を数える彼を見ながら、そんなことをぼんやりと考える。それにしても、目の前の青年は緊張しているわりに随分とのんびりとした手つきをしている。もしかしたら大物になる新人かもしれない、とどうでも良いことを思ったそのとき、青葉がようやく頭を上げた。 「えっと……仕事はとりあえず、問題なく済みました。大体書類どおりでしたし」 「お疲れさま。暴れたりした人居なかった?」 「それは大丈夫です」 差し出された十部の書類を受け取りながら、狭霧は視線を斜め上に向けて尋ねた。 「強情そうな人が二人くらい居たと思うんだけど……」 「木塚芙美と辻井翔ですね」 視線も動かさず、青葉が珍しく即答を返してきた。そうそう、と応えて、受けとった書類の中から二人の名を探す。木塚芙美は、子供や孫が頼りないといって現世を離れずにいた老婦人だった。彼女の厳格さがそうさせたのだろう。生者に執着していたのは辻井翔も同様だったが、こちらは別れた元恋人への執着だった。 めくった書類に、先に辻井翔の名を見つけて手を止める。写真の中から虚空を見ているのは、身だしなみや服装には気を遣っているようだが、それとてどこか自己愛的な臭いのする青年だった。既に別れているくせに死後にまで執着されたら堪ったものではないと、狭霧は彼の元恋人に同情した。 「木塚芙美のほうは……いかにも強情そうなお婆ちゃんでしたけど、思ったほどじゃなかったんです。現世に残ること自体にもう疲れちゃってたみたいで、案外あっさり。辻井翔は、斑鳩が……なんというか」 書類から顔を上げる。青葉の口調が間延びしているのはいつものことだったが、歯切れが悪いのは珍しい。 「斑鳩がどうしたって?」 問うと、青葉は思い出したように苦笑を見せた。少しでも笑むと簡単に眼がなくなってしまう、人懐こい笑み。そのままの微笑をしばらく保っていたのは、たぶん逡巡していたのだろう。 やがて諦めたように、言った。 「……業を煮やして斑鳩がブチ切れたら、怯えてすんなり現世を離れてくれた、って感じです」 狭霧は――一拍遅れて、吹き出した。青葉もばつが悪そうに苦笑している。まるで自分が笑われたかのように。 「彼らしいわね」 「そう思います」 髪は長いが気は短い。それが、斑鳩に対する共通の評価だった。ちなみにそれを言いだした当の本人は、いま優雅に電話の応対中だ。 ひとまず無事に済んで良かった、と安心した。辻井翔の捌きかたは想定外だったが、そういう処理のしかたがあっても良いだろう。 最近彼らに任せる仕事にも一人二人は難しい案件を混ぜるようにしているが、今のところ大した問題は出ていない。斑鳩と青葉という二人組は、まずは順調に機能しているようだ。青葉が新人だということもありしばらく様子見をしていたのだが、この調子だと、そろそろ普通の組と同じように扱っても良いのかもしれない。膝の上に置いた新しい書類を眺めながらそんなことを考える。この書類の選定とて、常磐と何度か意見を交わしたのだ。 二三の簡単な報告を受けてから、狭霧は膝の上の書類をテーブルに並べた。青葉が少し背筋を伸ばす。 「じゃあ次はこの人たち、頼むわ」 「はい」 「このお爺さんは突然死だから、自分が死んでるって気付いてない可能性がある。だからちょっと厄介かもしれないな。あとは交通事故死と、病死と……そんなに特殊なのは混ぜてないつもり。性質が悪い死人は何人か居るけどね。なにか訊いときたいことある?」 喋りながら青葉の表情を窺う。書類を見つめる紅い眼は、ひたむきだった。狭霧の声が聞こえているかどうかも多少怪しかったが、それは真面目さの裏返しだろう。――それともやはり、大物予備軍か。 しばらくしてから、彼はようやく顔を上げた。 「いえ……たぶん、大丈夫だと思います」 「そう。じゃ、頑張ってきてもらおうかな」 「はい」 笑顔を向けると、部下もまた笑顔を返してきた。狭霧も再度頷きを返す。書類をまとめてファイルに収め、ぺこりと礼をして部屋から出ていく青葉を微笑で見送った。 さて、とタイトスカートの膝を叩く。青葉から受けとった書類を手にして立ち上がったとき、後ろから声がした。 「貴女でもこんなミスをするんですね」 振り返ると、デスクに頬杖をついた常磐がからかうような微笑を向けている。絶妙のタイミングで声をかけてきたところをみると、電話はとうの昔に終わっていたらしい。 「ミス?」 問い返すと、常磐は可笑しそうに微笑み、とんとん、と人差し指でデスクを叩いてみせた。吸い寄せられるように歩み寄って覗くと、指の下には白い紙。中年男の写真が貼られ、名前に住所に職業、死亡日や死亡状況、現世への未練などが詳細に語られた死者の履歴書―― かっと頭に血が上り、思わず声を上げた。 「あ」 常磐がくすりと声をたてて笑う。 「それ、青葉と斑鳩の」 「正解です」 裏返りかけた声で言うと、常磐はおどけたように肩を竦めて言った。ドアを振り返るが既にもう遅い。しかも、一回分余計に笑われる羽目になった。 部下に渡す書類は、通常十人分で一組だ。上司は、現世を彷徨う死者を十人束にして部下に託す。託された部下は現世に赴き、死者の未練を解きほぐすことで彼らを現世から立ち去らせる。それが、狭霧の――狭霧たちの仕事。 青葉と斑鳩の組に任せたはずの書類が常磐の指の下にあるということは、青葉にも十部を渡したつもりでいて、その実では九部しか渡せていなかったということらしい。 書類に記された死者の名を読んで、狭霧は更に頭を抱えた。よりによって――新人の青葉を抱える彼らに回すべきか否かと、常磐と議論した当の魂だった。 「回さないほうが良い、という貴女の判断のほうが正しかったのかもしれませんね」 やんわりと言う常磐に力なく苦笑を返す。嫌味を言っているわけではないのだろうが――たぶん。 「……ごめん」 「別に咎めても怒ってもいませんよ。ただ」 「ただ?」 「言ったでしょう、『貴女でもこんなミスをするんですね』、です」 言って常磐は、整った微笑のままでまた肩を竦めた。 完璧な所作。狭霧は思わず苦笑を漏らした。――常磐には敵う気がしない。もとより争おうなどという気もないけれど。 「褒め言葉だと受けとっとくわ」 「そうしてください」 デスクの横を回り、常磐の隣の席に腰かける。大きな窓の前に二つ並んだ木のデスクが、第三班班長である常磐と、その相棒たる狭霧の指定席だった。狭霧の心中を読んだかのように、常磐が隣から書類を滑らせてくる。それを受けとって、摘みあげた。空いた左手でショートカットを掻きあげる。 「どうしようかな」 呟いた言葉は、我ながら情けない響きを帯びていた。 青葉と斑鳩に回すはずだった仕事である。普通に考えるならば、彼らに届けなおすのが筋というものだろう。だが、それもまた――気まずい。気まずいなどと言っている場合ではないが、そう思ってしまうのだから仕方ない。 自業自得ですね。常磐が例の微笑でそう言ってくるのを半ば期待していたが、隣から飛んできたのは予想外の言葉だった。 「まあ、構わないでしょう」 左隣を見る。常磐は初めからなにもなかったかのように、机の上の書類を一束ずつ数え直している。白い手の中で白い書類が弾かれる。 「構わないって?」 「もともとこちらの手落ちですし、二人にも、多少の楽はさせてやっても良いでしょう。書類が足りないことをわざわざ訴えにくるような死人でもないでしょうし」 反射的に浮かんだのは、青葉ではなく斑鳩の顔だった。常に眠そうな顔をしている長髪の男。例え青葉が書類の不足を訴えたとしても、斑鳩のほうが適当に流してしまうだろう。いつもの不機嫌そうな顔で、でも眼だけは嬉々と輝かせながら。 予想が表情に出ていたのだろうか。常磐が狭霧の顔を見て笑った。 「幸い大した仕事も残っていません。たまには僕らも実務につかないと、管理局員の名が泣きます」 「了解」 狭霧も笑いながら応えて、手元の書類に視線を落としかけ――ふと、常磐を見た。 「そういえば、さっきの電話誰だったの」 「情報局の 横顔のままそれだけを言って、相棒は思い出したように椅子ごと狭霧のほうを向いた。不思議なことに、彼が椅子を回しても決して軋まない。 向けられた微笑は、どことなく優越感に浸っているようにも見えた。 「大したことではありません。この前持っていった書類に読みにくい字があったようで、その確認です」 「ああ、……あれか」 思わず、苦笑。 それは一種の賭けだった。あるいは、一種の清涼剤。悪筆の部下が書いた報告書が、情報局の班長に判読できるかどうか――そんな、ささやかな賭け。あまりに酷い字ならば常磐が書きなおすようにしているが、それでも確認の電話はたびたびかかってきた。情報局の賢木は妙なところで厳格だ。初めは狭霧も鬱陶しいような気持ちでいたが、例の微笑を崩さず応対している常磐を見ているうちに、いつの間にか、彼の電話が数少ない娯楽の一つに昇格していた。曰く、この字は賢木の眼に適うか、否か。 ときどき思う。なにを考えているのか解らないような表情をしていて、常磐は意外に世の中を楽しんでいるのかもしれないと。もしかしたら賢木もその意図で電話をかけてくるのだろうか。 「直さなくてもぎりぎり大丈夫だと思ったんだけどな」 「そちらは僕の勝ちですね」 常磐の笑みに、狭霧はなにも言わずに微苦笑を返した。そちらは、と言われても、まだ勝てた気がしない。 さて、という常磐の呟きにつられるように、狭霧は手許の書類に視線を落とした。 「書類は……改めて確認するまでもないでしょうか」 「振りわけるときに見てたしね」 言いながら、眼では手許の明朝体を追う。貼られた写真は、グレーの髪をした五十男だった。写真で見る限りは引き締まった顔つきをしている。同じ貢がせるにしてもこういう男のほうが気分は良いだろうと、意地の悪い考えを巡らせた。女に貢いで破滅したのもその結果死に至ったのも狭霧にとっては自業自得だったが、更にその後現世に留まったとなると、もはや こんな――未練に凝り固まった死者を、現世から引き剥がす仕事など。 軋みひとつ立てずに、常磐が立ちあがる。狭霧も書類を抽斗に仕舞い、常磐の隣についた。長身の狭霧は、常磐と並んでもそれほど身長差があるわけではなかったが――圧力とでもいうのだろうか。なぜだか傍に寄れば寄るほど、この相棒は大きく見える。 「では、参りましょうか」 いつもの穏やかな笑みで、常磐はそう言った。狭霧も「葬儀屋」の顔で頷いた。 |