葬儀屋
「相似形」

下、


 轟音が鼓膜を震わせた。見上げると、駅へ滑りこむ電車の後姿が見える。繁華街の高架下、若い男女の行き交うコーヒーショップの前。もう何時間もすれば、一仕事を終えたサラリーマンが思い思いに散らばっていくのだろう。ここは、そういう場所だ。
 辺りを見回す。
 生者の人混みに、死者の少女は見当たらない。降り立つべき場所を間違えただろうかと首を傾げた瞬間、椎名を追い抜くように、後ろから死者が通りすぎた。
 制服の後姿。
 見紛うこともない、同類の姿だった。
「……タイミングが良すぎたか」
 誰へともなく呟いて、歩きだす。二拍遅れてパンプスの足音が聞こえた。振り返らずとも足音の主は判る。躊躇いがちの所作には気づかない振りをした。いちいち気に留めていては、却って避けるべき方向に堕ちてしまいそうな気がする。
 逃げるような早歩きで、セーラー服の後姿が歩いている。この道は歩き慣れているのだろうか。身体を持たない魂の身であるということを差し引いても、通行人にぶつかる気配がない。――どこへ行く気なのだろう。歩み自体は速かったが、目的地があるのかどうかは判らなかった。否、むしろ目的地がないからこそ、こんな早歩きができるのかもしれない。
 さほど足を速めることなく横並びについた。身長差が効いたらしい。
 胡蝶の小走りを背中で聞きながら、少女の横顔を見る。きつい眼差しで真正面を睨んではいたが、隠しがたい脆さを感じた。なにかを凝視しているのなら、もう少し視線が動いても良さそうなものだ。眼差しばかりが鋭い人間に、碌な者は居ない。そんな、とりとめのない感想を浮かべる。
 少女から視線を外し、歩調を緩める。横並びにしばらく歩いたところで、椎名は正面を向いたまま口を開いた。
「あんたの葬式、挙げにきたぜ――秋川祥子」
 祥子が驚いたように歩みを止める。その拍子に、彼女の中を生者が通りすぎていく。
 横目で少女を捉えると、乾いた眼が椎名を見つめていた。長身の、若い男――その存在を認めると同時、祥子の顔がさっと蒼ざめる。――怯えている。逃げようとしている。けれどそれさえできずにいる――そんな眼だ。そんな眼をして、身体をこわばらせている。身体の中を次々と生者が通る感触が、心地良いはずはないのに。
 誰何[すいか]の余裕もない。足を釘で縫いとめられたかのような苦渋の表情で、少女はその場に棒立ちになっていた。それを、椎名は観察している。そして考える。――祥子を襲い命を奪ったのは、それこそ椎名のような若い男だったのかもしれない。椎名のように、黒いスーツを着た人間だったのかもしれない。あるいは長身だったのかもしれない。それならば無理もない反応だ。殺害の経緯も犯人の姿も、事前知識はほとんど皆無だったが、少なくとも、自分の姿が、大抵の相手に威圧感を抱かせるものであることは自覚している。
 硬直した眼差しを向けてくる祥子に、しいて気だるく首を傾げて問いかけた。
「……聞こえなかったのか」
 我に返ったように、祥子の眼が揺れる。胡蝶ほどではないにしても、ほぼ真下に見下ろす位置だった。
「あんたの葬式挙げにきたって言ったんだ」
「お葬式なんて」
 独り言じみた、か細いソプラノ。続きを待ってみたが、祥子は絶句のあとを継ぐこともなく、バランスを崩したようにふらりと歩き出した。椎名も一拍遅れて続く。自分に声を掛けてきた同類の存在など、意識的に無視する早足だった。ただ先程よりも歩みが危うい。履き慣れないピンヒールでも履いているかのような早足。大丈夫だろうか、転びはしないか、と柄にもなく心配した。
 信号が点滅した。赤信号を無視するでも守るでもなく、横断歩道を避けて角を曲がる。衝き動かされるように、立ち止まることをこそ恐れるように、祥子は歩みつづけた。
 華奢な後姿はなにも言わない。彼女の物語を、椎名は知らない。それは彼女が彼女の口で語るべき体験であり、椎名が彼女の口から聞くべき記憶だ。少なくとも、椎名にとっては。明朝体では意味がないのだ。
 祥子の歩みは止まらない。椎名はただ、無言で彼女の背中を追っている。自分の存在を掻き消してしまわないだけの気配を、注意深く纏わせたままで。
 自分は誰を追っているのだろう、と、ふと考えた。通り魔に殺されたという、秋川祥子という名の少女だろうか。それとも――誰かの手で殺された、別の誰かの背中だろうか。公私混同とは笑えない。
 何度目かの十字路を無造作に曲がったところで、少女はぽつりと呟いた。
「あたしは」
 歩みは止まらない。止める気もない。
 椎名は黙って追う。促す必要もないだろう。
「あたしはどうして殺されたの」
 ごおっ――遠くで電車の音が聞こえる。高架からはいつの間にか随分と離れていたらしい。
「殺されたのか、あんた」
「殺されたの。出会い頭に腕を切られて、助けを呼ぼうと思ったらぐっさり」
 問いも答えも淡白だ。
「ねえ、あたしはどうして殺されたんですか」
 椎名の存在など無視するような早足でいながら、その問いは明確に背後の同類を意識している。狡い奴だ、と思ったが口には出さなかった。
「お葬式なんてどうでも良い。あたしはなんで殺されて、なんで死んでるの」
 自分を殺したのは通り魔だということを、この少女は知っているのだろうか。知らないのも困ったことだが、知っていたなら更に性質[たち]が悪い。
 通り魔は無差別に人を襲う。確たる理由もなしに人を傷つけ、あるいは殺す。なぜ殺されたのか、などと――理由があるはずもないのだ。
 風が吹いて街路樹が鳴る。祥子の髪も襟も微動だにしない。
 少女は自分の死を理解している。しかし受け入れてはいない。なぜ殺されたのか、なぜ自分は死んでいるのか、それを理解できないがために現世に留まっている――それがたぶん、彼女の未練なのだろう。
 厄介なことだ、と思う。確たる理由がないから殺すのが通り魔なのだ。自分の意志とは無関係に暴力的に死を与えられたというだけでも理不尽なのに、見ず知らずの者に確たる理由もなく殺されたとあっては、死者の「なぜ」を満たせるはずがない。さりとて、その事実を受け入れろと言っても無理な話だ。理不尽な死であることには変わりないのだから。
 殺したかった、だから殺してみた――。
 そんな「理由」をぶつけたところで、せいぜい影と化すのが関の山。たぶん少女自身も、無意識のどこかでそれを知っている。影という不定形の存在など知らなかったとしても、自分が壊れ崩れてしまうだろうという予感はあるはずだ。それなら彼女は――なにを望んでいるのだろう。なにを望んで、現世に留まっているのだろう。他ならぬ、彼女自身の意志で。
 触れれば折れそうなほどに硬い背中を見ながら、椎名は低く呼びかける。
「あんた」
 歩みは止まらない。
「知りたいのか」
 一本調子に問うと、祥子は不意に立ち止まった。
 くるりと、こちらが驚くほどの素早さで振り返る。黒い眼は暗く燃えていた。――覚えのある眼だ。
 椎名と祥子とを串刺しにするように、自転車が駆け抜けた。酷い車酔いのような違和感を、祥子の言葉が吹き飛ばす。
「知ってるの?」
 答えによっちゃ、こいつは俺を刺し殺すかもしれないな――そんなことを思ったが、用意した答えがそれで変わるわけでもない。
「知りたいのか」
「決まってるでしょう」
「知って、あんたに理解できるのか」
 無表情に祥子の眼を見て、椎名はゆるりと問いかけた。
「自分が他人に殺されたんだと知っていて、それでもあんたは自分が死んだ理由を理解できるっていうのか」
 俺には無理だ、と、胸中で小さく呟く。椎名にとっての死は――理不尽な事実以外のなにものでもなかった。半身を殺され、存分に衝撃を味わったあとで自身も殺された。死んだそのあとでさえ、生前の記憶をなかったことにされてさえ、自分を衝き動かす原動力となってしまうほどに。自分がなぜ死んだのか、どういう経緯で殺されたのか、知識として持っている今でも理解はしていない。たぶん死とはそういうものなのだろう。そういうものだと諦めてしまうか、理不尽すぎる事実に絶叫するか、行く末は結局どちらかに集約される。
 たぶんこの少女は絶叫するほうだろうと、小揺るぎもしない眼を見ながら他人事のように考える。他人事などではないくせに、無理にでも客観的な視点を保とうとしている自分が痛々しくもあった。
 ――俺だって。絶叫を通り越していた。
 叫び疲れた無意識が、刀に寄りかかって呟いた。だからって言い訳にはならないぜ、と冷静な理性が呼びかけると、無意識はなにも言わずに眼を閉じる。安らかさなど欠片もない、なんの解決にもならない束の間の休息。――それくらいの距離感が、俺にはちょうど良いだろう。
 自分がひどく醒めた思考を辿っていることに、今更のように気がついた。本能が奇妙に冷静さを保っていることまで、あの優男は見抜いていたとでもいうのだろうか。椎名にこの魂を振り分けたときから。それならもう――大丈夫なのだろうか。
 秋川祥子。通り魔に襲われ、暴力的な死を迎えた一人の少女。
「あたしはどうして殺されたの」
 椎名の問いかけを無視して平坦に問いかける。もっと笑いたかった。喋りたかった。遊びたかった。学びたかった。生きていたかった。裏側に山ほどの未練を隠した台詞に、淡白な言葉で切り返した。
「知ってるくせに」
 祥子は無視して再び背中を向ける。一瞬見えた表情は、唇を引き結んでいた。それがたぶん、彼女の本心だ。
 歩きはじめた少女に、椎名は一本調子に呼びかける。
「いま逝くほうが幸せに決まってる。解りきったことだ」
 [きざ]す疑念を封印して眠りに就いてしまえば、少なくとも、自我を崩壊させる心配はない。自分自身を保ったままで輪廻の輪に溶けていく。感情に自我を喰われた結果、強制的に現世から引き剥がされるよりは、幾分楽な選択肢だ。
「狂いたいわけじゃないだろう」
 むしゃくしゃしたから、逮捕されたかったから、殺したかったから、――殺した、などと。冗談のような理由と直面して。仮にそれが、殺した側にとってどんなに整然とした理由であったところで、死者にしてみれば理不尽以外のなにものでもない。
 ――知らないほうが良いこともある。
 解りきった言葉を、椎名は意図的に排除していた。そんな言葉を投げられたところで、この頑なな少女が納得するはずもないことは解りきっている。そもそも彼女は、最初から解っているはずだ。自分の死に、確たる理由がないのだということを。あったのはただ単に、利己的なきっかけだけ。そして一方に、半端にそれを憶えていたばかりに、狂気の側に引きずりこまれた一人の死者が居るという事実がある。
 渡れるはずの青信号を直進せず、祥子は唐突に左折した。決然とした背中は、向かうべき目的地を見つけたらしい。黙って追いながら、椎名はわずかに歩みを緩めた。そうしないとぶつかってしまいそうだ。ほんの少しだけ、祥子の歩みが緩んだらしい。かの場所へ向かうことへの躊躇いだろうか。それとも、目的地を見つけたことで、常識の範囲内での速度を取り戻したということなのだろうか。
 携帯電話を片手に歩いてくる若者を半身で避け、――不意に立ち止まる。
 赤信号の手前だった。
 生者のように立ち止まった小さな横断歩道の向こう側に、汚れたアスファルトには不釣り合いな花束が手向けられている。
 ――ここが、死に場所か。
 一呼吸おいてからそっと距離を詰め、彼女の隣に立った。横目で盗み見ると、直線的な眼差しが、睨むように一点を見つめている。
 青信号とともに、耳障りな電子音が鳴った。
 早歩きの群衆など存在から無視して、祥子は花束を凝視している。家族が、両親が、名も知らない誰かが、手向けてくれたかもしれない哀悼の意。点々と垂れた赤銅色の染み。眉間に刻まれた皺。固く結ばれた唇。一点に固定されて離れない両眼。行き場のない感情を抑えこむかのように、華奢な手がスカートの横で拳を作っている。
 スーツ、制服、ジーンズ、ワンピース――生者が次々に道路を横切り、死者をも通り抜けていく。押し寄せる何人もの生者を飲みこみながら、それでも祥子は微動だにしない。
 不意に、背後で胡蝶が口を開いた。
「今が、たぶんいちばん幸せなんです」
 揺らぎはじめた死者の、最後の一押し。それは彼女の十八番であり、また彼女の心得ている役割だ。
 眼差しが、かすかに丸みを帯びたように見えた。
「今の、この瞬間を逃さないうちに」
「……た」
 祥子が小さく呟いた。
 横目で見ると、少女は顔を上げて椎名を見た。大人びた面差しに大きな眼が印象的だ。硝子の能面のような顔ではない、生身の人間の表情をしている。
「……疲れちゃった」
 自分に照れたような微苦笑に、見えた。
 気を張るのは、そうだ――傍から見ているよりずっと、疲れるものだから。
 椎名の返事を待たずに、秋川祥子はふっと消えた。
 電子音が消える。数秒遅れて、青信号が点滅する。何人かが必死で横断歩道へ駆けこんでいく。
 ――椎名はほうと、息をついた。
 眼を斜めに滑らせる。花束から道路一本隔てた向かい側に、ワゴン車が一台停まっている。眺めているうちに、機材を持った男女がばらばらと降りてきた。カメラ、照明、マイク――。
 危機一髪だ、と思う。報道が悪いとは言わないが、死者の最期に相応しい演出とは言えない。
「椎名君」
 背後から胡蝶が声を投げてくる。――なにも、一言も言わずについてきて、最後の最後で一言だけ、言葉を貸してくれた相棒。
 ――俺は案外こいつに助けられてる。
 意外というなら、そんな素直な感慨を抱いた自分が意外だった。
 制御より本能への服従を選んだ。牙を剥いた無意識に喰われかけた。刀を捨てることを選んだ。それでもまだ、一欠片の自信さえ持てずに常に丸木橋に立ち止まっている。それでもなぜか、怯え、恐れ、疑い、ときには笑いさえして斜め後ろを定位置としてきた少女。
 振り返ると、胡蝶は独り言のように、言葉の続きを継いできた。
「ちゃんと解ってたんだね。……殺される側にとっては理不尽でしかないって」
 見上げ見下ろす角度は慣れたものだ。振り返ったときどこに視点を置けばいいか、見る前から解っている。
 血を浴びても平気な顔で、笑みさえ浮かべて刀を提げていた姿を、たぶん彼女はまだ忘れていない。椎名にしたところで忘れられるはずがなかった。忘れたら、次の瞬間再び同じ姿に成り下がることを予感している。あの姿は――自戒だ。そう呼ぶことが許されるのならば。
 仏頂面を繕って、呟いた。
「俺は殺された側の死人だからな」
「……殺された側?」
「殺された側だよ」
 無意味なやり取りを一方的に打ち切って、椎名は再び花束を見る。レポーターが、カメラに向かってなにかを喋っているのが見える。
 自分は被害者であると主張するのであれば、加害者であることも認めなければならない。理不尽に刺し殺された少女も、出会い頭に彼女を刺したという誰かも、同じように椎名の中に巣くっている。
 ――知ってるさ、そのくらい。
 だから、殺される側のことも知っていなければならなかった。自分は殺されたのだと、知っていなければならなかったのだ。最初からそれを知っていれば、殺す側に立つことがあっただろうか。
 殺された自分と、殺した自分と。その釣りあいはどこでとっていけば良いのだろう。秋川祥子か、胡蝶か、あるいは自分の深みを覗くことでしか見いだせないのか――。
 そこで打ち切った。
 出るかどうかも解らない結論を探して彷徨うなどと、少なくとも現世ですべきことではない。
 ――とりあえず、無事に済んだぜ。
 面と向かって言う気はない言葉を、ひっそりと常磐に投げた。そして空を見上げる。ビルに囲まれた狭い空の青さに、我知らず目を細めていた。背後に胡蝶の気配を感じる。
 ――なあ、これで、良かったんだよな。
 似て非なる誰かを思いながら、椎名は思い出したように肩のこわばりを解いた。

――了


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