葬儀屋
「相似形」

上、


 なにかの間違いだろうか、というのが、反射的な感想だった。
 胡蝶が取りあげた書類の記述を確かめようと、無意識のうちに手を伸ばす。最近では書類管理もかなりを彼女に押しつけていたせいで、随分と久しぶりに行う動作に思えた。
 椅子が軋む。
 椎名の挙措に気づいてか、胡蝶がぱちくりと眼を瞬かせた。
「貸せ」
 一言付け加えてようやく通じた。意図が理解された、といったほうが正確だろうか。言葉としては認識していても、椎名の意図としては認識されていなかったのだろうから。
「どういう風の吹き回し?」
 からかうような言葉を無視して、差し出された書類を手に取る。一瞥した瞬間、問題の一文が真っ先に飛びこんできた。
 ――通り魔により殺害。
 間違いではなかったのか、と、ひどく醒めた感想を抱く。
 そんな言葉が記された紙が、自分の手許に回ってくるとは思いもしなかった。
 あれこれを思考するより先に手が動いていた。左手が伸びて電話の受話器を掴む。番号一覧を見もしないで内線を掛ける様子を、胡蝶がきょとんとしながら見つめていた。自分はもしかするとひどく奇妙な行動をとっているのだろうかと、戸惑いがちの表情を見てようやく我に返る。
 ツーコールで繋がった。
「はい、管理局管理部第三班常磐」
「あんた、どういうつもりだ」
 自動音声のような応答に、一本調子の問いを投げる。一瞬の間のあと、回線の向こうで苦笑したように空気が緩んだ。
「いい加減に、電話を掛けるときには名乗ったらどうですか、椎名」
「名乗らなけりゃ俺だ」
「そういう問題ではないのですが」
 常磐が穏やかに話す分だけ、自分の声が棘を含んでいく。主観的にもそれが判る。けれど口調を改める気はなかった。この上司を好いていないことも機嫌が良くないことも事実だったが、それ以上に、得体の知れない恐れと厭な予感が淀んでいた。
 衝き動かされるように、居丈高な問いを重ねる。
「どういうつもりだよ」
「どうとは」
「もっと四角四面で大原則に忠実だと思ってたぜ」
「大原則?」
 のらりくらりとかわされているようで気に食わない。言いたいことなど解りきっているだろうに、わざわざ口にさせる気でいるらしかった。
 ちらりと胡蝶を見たが、彼女の反応など気にしていては仕事になるはずもない。見えた表情を早々と忘れて、低い声で問うた。
「死の原因に直結する死人は回さない――あんた、中間管理職の仕事まで放棄したのか」
 寿命を待たずして死んだ魂が、持ちえたはずの寿命を用いて一定期間奉職する。それが「葬儀屋」という、死者の組織である。だが寿命を待たず死んだということは、どの「葬儀屋」も、強制的で衝撃的な死を迎えたということだ。事故、自殺、あるいは、殺人といった類の。
 衝撃は、簡単に魂という非存在の存在を脅かす。
 だから。死の瞬間を含め、どの「葬儀屋」からも、生前の記憶は抹消される。そしてその記憶を徒に刺激しないために、管理局員に振られる仕事は班長の手で選別される。火事で死んだ「葬儀屋」に、火事で死んだ魂は振らない。首吊り自殺をした「葬儀屋」に、首吊り自殺の魂は振らない。例外は交通事故くらいのものだ。例が多すぎて、選別していては振る仕事がなくなってしまう。逆に言うならありふれているからこそ、刺激にはなりにくい。トラックかバイクか乗用車か、車種くらいは振り分ける班長もいるようだけれど。
 殺人の被害者となった魂に、他人の悪意で殺された魂は振らない――。
 そんなことをいつだったか教えてきたのは、当の常磐だったはずだ。あのときは、自分がなぜ、どのように死んだのかなどということは知りもしなかったのだけれど。
 自分は怯えているのだろうか。
 不機嫌さの原因を、ふとそんなところに考えた。
「規則には理由があります」
 常磐は欠片も動じずに、模範解答のような言葉を返す。白を切る問いかけで時間を浪費するのはやめたらしい。
「徒に生前の記憶を刺激しないため、翻って、『葬儀屋』自体の存在を脅かさないようにするため」
「……俺はその必要がないってことか」
 刺激なら、もう多すぎるほどに受けている。それはその通りだったが、もう二度と揺らがないと言いきれるだけの自信があるわけでもなかった。
 揺らいだら、堕ちたら、壊れたら――どうする。
 どうなる。
「彼女の気持ちがいちばん理解できるのは貴方でしょうからね。……本当なら僕は、できるだけ同じ死に方をした死人を派遣したいくらいなんですよ」
 チェスの戦略でも語るかのような口調。名前も挙げないうちから、椎名が指している死者のことも、椎名が苛立っている理由もとうに読みきっていたらしい。毒づくのも忘れて、椎名はぼそりと呟いた。
「……暴れないって保証はしねえぞ」
 ほんの一瞬、常磐は沈黙を寄越した。しかし返事に躊躇はない。
「もとより承知の上です」
「試してるのか?」
 間髪入れずに問いかける。
「なにをです」
「俺が使える駒なのかどうか」
 隣から胡蝶の視線を感じる。横目で見たがすぐに逸らされてしまった。自分の関わるべき幕ではないと、直感的に悟ったらしい。椎名と常磐との間で交わされる会話は大抵碌なものではないと、彼女も薄々感づいてはいるようなのだけれど。
 受話器の向こうで常磐が小さく笑う。
「さあ、そうかもしれませんね」
 ――通り魔。
 謂れのない逆恨みを受けた弟。その煽りを食らった兄。いずれにせよ、殺されなければならない理由などなにもなかった。もう少し整然と理由のある殺意であったなら、まだ怒りの向けようがあったものを。
 手許の書類を見下ろした。――通り魔に殺されたというのなら、この少女も同じ感情に凝っているのだろう。
「なにかあったら責任とってくれるんだろうな」
「中間管理職ですからね」
 冗談のような答えが返ってくる。返事の代わりに自嘲じみた笑いを漏らして、そのまま受話器を置いた。
 深い溜息を一つだけ挟み、勢いをつけて立ち上がる。躊躇ったらその瞬間、動けなくなりそうな気がした。
「行くぞ」
「え? ……どこに」
 頓狂な声で問う胡蝶に、机上の書類を顎で示した。――通り魔により殺害。制服姿の女子高生が、学生証のような写真に封じられている。少女の名前と滞在場所を一瞥で憶える。それだけあれば充分だ。刺殺、絞殺、撲殺、いずれであろうと興味はない。
 胡蝶が書類を見る。困惑した表情で椎名を見上げる。
「書類読まないの?」
「必要ない」
「手筈は?」
「俺がやる」
「……椎名君?」
 胡蝶の声が揺れている。彼女の顔を見る代わりに、椎名は窓のほうを向いた。ブラインドの隙間から、直射日光が眼を射てくる。目を細めるというよりは、恐ろしく険しい顔になっているだろうと思った。
「俺がなんかおかしな真似をしたら、――」
 独り言のように呟きかけて、やめる。斜め後ろを視線だけで見下ろすと、胡蝶が唇を結んで言葉の続きを待っていた。
 ふいと、椎名は視線を逸らした。
「……いや、なんでもない」
「え? なんで」
「行くぞ」
「ちょっと、椎名君ってば!」
 半ば強引に眼を閉じる。暗闇。少女の居場所を思い描く。胡蝶はついてくるだろうか。たぶん、大丈夫だろうけれど。
「おかしな真似って……」
 下手な仮定は無用の不安を煽るだけだ。それならいっそ、なにも知らせないほうが良い。


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