葬儀屋
「machigaisagashi」

下、


 キーボードに手を置けば、その時点からルーティンワークが始まる。キーを叩く音は、先刻ほどの殺気を放っていなかった、と思う。
 死者の一代記で埋めつくされたウインドウがひとつ。顔写真を映したウインドウがひとつ。カーキ色のセルフレーム――眼鏡を掛けた若い女だ。三田村早紀。いつもならさほど気にせず通りすぎる名前が、なぜか強く記憶に残る。
 心を壊した女だった。
 昔の失恋を引きずっていた。仕事の重圧に耐えかねていた。独りの孤独を抱えていた。いくつもの灰色を胸の内に積もらせ、そしてあるとき、事故に遭ってふつりと死んでしまった。そして、ただただ淋しさだけを抱えて現世に蹲っている。ひとつひとつの事象は大したことがなくても、積もり積もってしまったせいでどれもが暗く影を残す、そんな魂だった。
 淋しい、だとか。
 苦しい、だとか。
 抱きしめてほしい、だとか。
 馬鹿馬鹿しい、と笑って一蹴できてしまうような願いのひとつひとつが、彼女にとっては切実だったのだ。
 エンターキーを叩いて、思う。この書類がどの班の誰に振り分けられるのか、月影は知らない。この書類に書き起こされた彼女がどのように捌かれるのか、月影は知りようがない。知りたいとも思わない。一度抱きしめてやれば、肩の荷を下ろしたように安心して消えていくのかもしれない。隣に座って彼女の気の済む限り、話を聞いて涙を見届けてやれば良いのかもしれない。あるいはそのいずれも効果はなく、ただ銀の銃で撃つ以外に方法はないのかもしれない。――知りようもない。関係のないことだ。
 たまに考える。
 なぜ自分は、情報局に振り分けられたのだろう。管理局ではなく。
 月影が月影としての意識を持ちはじめたそのときにはもう、情報局勤務は決まっていた。きっと管理局員もそうなのだろう。月影自身が配属を選んだわけではない。
 明らかに此方側向きである情報局員は、確かに居る。例えば海棠だ。彼女に管理局勤務が務まるとはとても思えない。賢木はどうだろう。いずれであっても無難にこなすだろうが、どちらかといえば職人気質だろうし、情報局のほうが向いているのかもしれない。氷室はどうだろう。あのお喋り好きな同僚なら、管理局辺りで活き活きとしていても違和感はない。そして自分は。――そうやって突き詰めていくと、最終的に、判らなくなる。
 自分はなぜ此方なのだろう。
 死者たちと直接に関わる表舞台ではなく、それを支える裏方仕事。それぞれに意義があり、それぞれがそれぞれの役割を全うする。そうしてシステムは機能する。
 この役割に不満があるわけではない。無意味であることを承知の上で、ただ考えてしまっただけだ。生者とてそうだろう。ある会社のある部署へ配属されたとき、あるいは異動を命じられたとき、なぜ自分がそこに――と考えることは大抵の場合、無駄だ。組織の論理に基づいて、機械的に振り分けられただけなのだろうから。命じられたら命じられたまま、はいと頷いてそれ以上は考えない。だからこれはただ純粋な、疑問だった。
 自分は、なぜ此方側なのだろう。
 彼方と此方に振り分けられた。だからこそ、今の今まで、直接に顔を合わせることがなかった。それだけの話だ。噂でしか耳にしなかった。けれど同じ組織に属している以上、遅かれ早かれ顔を合わせていたはずだ。場合によっては、あの邂逅などよりもっとずっと長い時間をかけて。
 ――自分を見失ってはいけない、と、強く思った。
 きっとそうなったら、と、目の前のディスプレイを睨みつける。虚ろな表情をした女が、小さな窓から顔を出している。心をずくずくと蝕まれ、救いも見つけられないまま、それとは全く無関係な死に呑みこまれた女。自分を見失ったらきっと、彼女のように孔を抱え、そこに灰色を降り積もらせて朽ちていくことになる。
 あるいは――あの男のように、孔に途方もない闇を抱えて裏返しに喰い殺されることになる。
 だから。
 ――忘れよう。
 たかだか顔の話だ。噂だけではなく、その顔を持つ死者が実在したという、たったそれだけの話ではないか。それでなにが変わるというのだ。他人の空似と、言うではないか。他人が一人、自分に似ていたという、それだけの話。
 輝度を落としたディスプレイに、薄く自分の影が映る。それを掻き消すように、月影は強くキーを叩いた。

 忘れよう、と意識して、それきり忘れていた。
 眼鏡を掛けた死者を見ても、休憩所の傍を通っても、同僚がネクタイを緩めていても、なにも思い出さなかった。
 ――だからその日も何気なく、その場所を通りかかった。休憩所とは名ばかりの、廊下の端にソファが並べられただけの簡素なスペース。そこに佇む人影を見つけたときにも、人が居る、という程度のことしか考えなかった。
 その長身痩躯をどこかで見たことがあるような気がして――そこで初めて、月影は立ち止まった。
 足音が止まったことに気づいたのか、人影がふと、こちらを振り向いた。
 ――やめろ。
 反射的に叫んだつもりが声にならなかった。
 黒い髪、耳、頬、顎、鼻筋、そして紅い瞳、――必要以上のスローモーションに思えたのは。きっとその顔と対峙することを恐れたせいだ。
 硬直する月影とは対照的に、彼は当たり前のように、こちらに素顔を晒した。
 確かに、見覚えのある顔だった。
 あの日、ここで一瞥した顔。あるいは、日々鏡で向きあっている顔。その顔がまた、月影の目の前で、小さく眼を見開いた。
「……あ」
 微かに開いた薄い唇が、それだけを発する。聞いてしまった。たった一音。だが聞き違えようがなかった。確かに自分が発するのと同じ音だった。
 月影はなにも言わなかった。言えなかった。ただ呆然と立ちすくんで、目の前の彼を見つめていた。背を向けることもできた。けれど、できなかった。
 相手はなにも言わなかった。ただ少し眼を細めて、眩しそうにこちらを見つめていた。相変わらずブラックスーツを着崩して、気だるげな調子で佇んでいる。ただ、なぜだろう、その表情は、どこか――穏やかに見えた。
 ――管理局勤務の快楽殺人者が、事件を起こしたと聞いた。
 そういうゴシップめいた情報を持ってくるのは大抵氷室だ。そしてそれを窘めるのは大抵海棠だ。けれど彼女はいつも少し遅い。氷室が話を始めかけてから釘を刺しても意味がないということに、彼女もそろそろ気づくべきだろう。それとも本気で止める気がないのだろうか。もしかしたら彼女も、自分を観察しているだけなのではないだろうか。与えた情報に対して、どう反応するのか――まさか。冷静に考えろ。話しはじめる兆候が出る前に食い止めるなどと、いくら彼女でも無理がある。止めるなら、話をしはじめてからでないと不可能だ。現実的に考えろ。
 快楽殺人者が魂を惨殺したところでなんの不思議があるものか、と言い聞かせた。その一方で、快楽殺人者と呼ばれながら、これまで「惨殺」が取り上げられてこなかったのはなぜだろう――と、掠めた。
 魂を惨殺した管理局員が再び管理局に戻って死者と相対するなど、有り得ないことだ。自分が書き起こした死者たちが、惨殺を厭わない管理局員の手に委ねられるなど――有り得ない。耐えがたい。ぞっとする。
 そうだ。
 快楽殺人者と呼ばれ、実際に死者を惨殺しておきながら、冗談のように軽い謹慎処分だけを科された男だ。
 今、目の前に立っているのは、そんな男だ。
 恐怖や嫌悪ではなく、先に立ったのは別の感情だった。
 理解しているのだろうか、彼は。自分の所業が、裏方たる情報局員にとってどれほど恐ろしく感じられることなのか。そして、今まさに自分の目の前に立っているのが情報局員なのだということを。
 なぜ。
 それなのになぜ目の前の男は――憑き物の落ちたような、表情をしているのだろう。
 指の関節に力が入っていた。拳を握りしめていることに気がついた。――そんな人間と同一視されるだなんて、真っ平だ。
 なのに。
 ――なぜそんな眼で、自分を見るのだ。
 そんな、眩しいものを見るような眼で。それでいて、硝子一枚隔てたような眼で。
 苛立った。
 なにに対して苛立っているのかは解らなかった。ただ、この苛立ちを放置してはいけないような気がした。自分はこの苛立ちを、違和感を、抱えつづけているのに。なにがあったのかは知らないが、どうして、どうして目の前のこの男ばかり、穏やかな顔をしているのだ。見透かしたような眼をしているのだ。見透かされたような気が――してしまうのだ。
「お前」
 気づいたときには口を開いていた。相手が驚いたように眼を見開く。初めに対峙したときからさほど時間は経っていないのではないか、とそのときふと思ったが、だからどうなるわけでもない。
 相手がなにかを言いかけた。口を僅かに開けたのを確かに認めた。しかし彼は結局なにも言わないまま、つう、と眼を細めてそのまま視線を逸らした。横顔になったとき、唇は既に引き結ばれていた。確固たる決意を持った無言だった。あるいはとうに諦めきった眼差しだった。
 腹が立った。
「なにか言えよ」
 どうして、俺と同じ顔で。
 どうして、俺と関係ないくせに。
 どうして、あんなに惨たらしい真似をして。
 どうして――そんな眼で俺を見るんだ。そんな態度で視線を逸らすんだ。
 せめてもっと厭な笑いかたでもしてくれれば、綺麗さっぱりと切り捨ててしまえるのに。
 なにかが切れた。
 止めろ、と、理性がどこかで叫んだ。だがほんの一瞬だけ、遅かった。
 ――右の拳が確かに、相手の頬を捉えていた。
 骨と肉だ。人の身体の感触だ。握りしめた拳がびりびりと痺れる。はっ、と我に返ったときにはもうすべてが終わっていた。振り下ろした拳は確かに彼の頬を捉えていて、月影は呆然と相手を見つめていて、相手は殴られた頬を庇うこともせず、反動で乱れた髪で表情を隠し俯いていた。
「……あ」
 呆然と呟いたのは月影だった。
 ――今、なにが起こった?
 相手は微動だにせず、乱れた髪を直すこともしない。もう一発殴ってみろと言わんばかりに――殴って気が済むなら何度でもそうしてみろとでも言わんばかりに――ただ無言で、斜め下ばかりを向いている。
 痛みで痺れる拳を握りしめながら、月影は呟いた。
「お前」
 声が震えていた。
「お前……俺のなんなんだ」
「他人だよ」
 投げた言葉よりも余程冷静な言葉が、同じ声で返される。
「他人なんだ」
 彼はこちらを見もせずに繰り返した。行き先の判然としない、ふわりと浮いたらそのまま落ちて消えてしまいそうな、言葉だった。けれどその落ちた先で、自分と彼との間は決定的に分かたれるのだろうと、なぜだか強く思った。
「他人」
 ただの、他人だ。
 咀嚼するように繰り返すと、すとん、と喉を通って腑に落ちた。
 そうか、他人――なのだ。
 顔が、同じだけの、他人。
 それだけのことなのだ。
「……悪い」
 やがて月影が一言口にすると、相手はようやく顔を上げた。左の頬が僅かに赤く腫れている。唇の端を切ったのか、薄く血が滲んでいる。乱した髪はまだ直す素振りもない。前髪の向こうから、紅い瞳が胡乱にこちらを見ている。だが確かに、こちらをじっと観察している。見た目よりもその眼差しは鋭いはずだと、理由もなく直感していた。
「ごめん」
 言葉を重ねると、彼はようやく髪を掻きあげた。口の端を乱暴に拭う。そして改めてこちらを見た。眩しそうな眼差しは変わらなかったが、それはきっと視界を遮っていた髪の毛がなくなったからだろう、と、思う。
「……別に」
「俺は月影だ」
 聞き取りにくい低音で呟いた相手の声を半ば遮るようにして、月影は決然と名乗りをあげた。口を噤み不審そうな視線を寄越す相手に、追い討ちのように畳みかける。
「名前」
 ――名前を、言え。
 喪服を着崩した鏡像は、気圧されたように押し黙った。
 ほとんど初めて顔を合わせたような相手からいきなり殴りかかられておきながら、当たり前のように、それが台本通りの筋書きだとでも言わんばかりに受け入れて、――ただの他人であるはずがあるものか。共通点など、相違点など、もうどうでも良い。
 個人だ。
 個人として認識しなければならないのだ。
 そうして――清算しなければならないのだ。
 挑みかかるように、睨み据える。
 僅か躊躇して、相手は視線を逸らした。
「……どうせ知ってんだろ」
「自分で名乗れよ」
「椎名だ」
 やりとりの中に押し流してしまいたいという願望が透けて見える投げやりさで、鏡像はたった一言――名前を、口にした。
 椎名。
 管理局員、でもなく。快楽殺人者、でもなく。ましてや零度の鎮魂歌[ゼロ・レクイエム]、などではあるはずもなく。噂の中で聞く記号ではなく、一個人の名前として。
「……椎名」
 月影は呟いた。そして記憶した。
 椎名はそれを見届けたのか否か――そのまま、月影の横を通りすぎた。当たり前のように歩みを進めて、月影が振り返ったときにはエレベータホールの方向へと消えていた。
 月影は、廊下を眺めた。
 向き直ると、休憩所には誰も居ない。つい先刻椎名がそうしていたように、月影一人がただぼんやりと、その場に佇んでいる。
 右手の痺れが蘇る。
 思い出したようにもう一度握り拳を作り、――ふ、と、月影は密やかに微笑んだ。泣き笑いのような表情だろうと、思った。

――了


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