他人の空似、という言葉がある。 ある程度まとまった人数を擁している組織である以上、その中に一組や二組、似ている人間が居ても不思議はない。まして全員が一堂に会する機会はまずないのだ。なんとなく似ている気がする、という程度で、簡単に「似ている」と認定される。そしてその噂は広まってしまう。隣に並べてしまえば、さほど似ていないかもしれないのに。 似ている、と認定するのは簡単だ。そして、内輪の話題として使い勝手が良い。 けれど。その組み合わせの中に極端な有名人が含まれていた場合――その片割れは、大層な迷惑を被ることになる。 顔も名前も知らない誰かがもの言いたげな視線を向けてきたとき、月影はいつからかそんなことを思うようになっていた。そんな眼を向けてくるのは大抵管理局員だ。情報局員ではありえない。そもそも情報局員というのは、基本的に全員が同じ部屋の中で過ごしている。だから所属する班が違っていたとしても、仮に直接話したことがなくても、まず同じ局に所属するこの顔のほうを見慣れている。この顔と、この人格とを結びつけて認識する。つまり、情報局の月影だ、――と。 だから。情報局員であれば、この顔を見たところで今更なにを言うこともないのだ。彼らにとって、見慣れた同僚の一人にすぎない。後ろ指をさされるほどのことはしていないと思っているし、別段個性のある顔でも性格でもない、とも思っている。銀縁眼鏡の向こうに切れ長の眼、尖った顎、縦にばかり長い長身痩躯。スーツくらいはきちんと着ようと思っているし、ネクタイの結び目には少々こだわりがある。どちらかといえば明るい性格だとは思うが、無表情が怖いと言われることもある。 けれど、管理局員の眼は――この顔から、別の死人を想起するらしい。 そう認識したのは存外に最近のことだった。 ――最初は単に、自分が嫌われているのだと思っていた。 思い返せば、顔も知らないような相手から露骨によそよそしく避けられたことは一度や二度ではなかった。偶然に合った視線を逸らされたことも数えきれないほどあった。そのとき気にしていなかっただけだ。 いつか自覚のないうちに、自分は誰かにとんでもない不快感を与えていたのだろうか。あるいは、取り返しのつかない失敗をしていたのだろうか。いくら頭を捻ってみても思い当たることはなく、せいぜいが、最近海棠を怒らせたのはいつだっただろうか、という程度のものだった。近しい情報局員の中でいちばん気難しいのは彼女だ。だが彼女にそこまでの影響力があるとは思えない。仮に月影が彼女を激怒させていたのだとしても、少なくとも彼女は、自分が感じた不快感を周りに伝染させるようなことはしない。 気にするだけ無駄だ、と諦めかけた頃に、そういうことではないのだということを知った。 忌まれているのは他人だった。 ただ、よりによって有名人だった。それも、悪い意味での。 月影は、情報局員だ。死者を、膨大な情報の束として認識し、それを無表情に捌いていくのが仕事。その情報を受け取り生身の死者と相対するのが、管理局員。管理局員は、護身と実力行使のために銃を持つ。 けれどその死者は、管理局勤務のその死者は、――刀を帯びているのだという。 得物が違うという程度のことは、許容できる範囲のイレギュラーであるらしい。だが、その得物を殺戮目的で遣っているとなれば話は別だ。そのくらいのことは、月影にも理解できる。 殺人鬼めいた男が、管理局に居るのだという。 その、長身痩躯の男が――月影に、似ているのだという。 その事実を知ったとき、ああ、と腑に落ちた。厭われているのは自分ではなかったのだ、と奇妙に安心して、それから束の間自己嫌悪に囚われる。最後に、なんともいえない感情が残った。有体に言えば不快だった。自分と同じ顔の死人が、血を浴びて愉悦に浸っているのだと思うと。 俺じゃない、と、苛立つようになった。 謂れのない嫌悪を向けられても腹立たしいだけだ。 だが裏を返せば、そう感じてしまったとき、既に、彼に興味を持ってしまっていたということなのだろう。自分と同じ顔の誰かに関心を抱いてしまった。意識して、考えないようにしていたのに。赤の他人だからと、通りすぎてしまおうと思っていたのに。 誰も彼もこの顔だ。 この顔を見て、はっきりと違う人間を思い浮かべている人が居る。 嗚呼、面倒臭い――。 ディスプレイを睨んでも集中できない。流れていく文字の羅列を、文字としてしか認識できない。ミスタイプが明らかに増えていた。苛立ちが、指先にまでしっかりと伝わっていた。 せめて顔でも洗って目を覚まそうと思ったのだ。 ――なのに。 蛇口の前に据えられた鏡は、やはり白々しくこの顔を映し出している。銀縁眼鏡の向こうから、険しい無表情がじっとこちらを睨んでくる。顔の輪郭が、レンズの内外で僅かにずれている。 ――この顔だ。 想像する。 この顔と同じ顔が、血を浴びている。顔を歪めて、刀を持って、誰かを斬って、笑っている。 鏡の中で顔が歪んだ。それは紛れもなく月影の顔だった。 ――巧く、想像できなかった。 そんな顔は知らない、と、なぜだか強く思った。嫌悪ではなく拒絶だった。 けれど実際に、同じ顔の男が、そんな表情でそんな所業を重ねている。 他人、ではないか。他人の空似。世の中には何人か、自分と似た顔の人間が居るのだというではないか。そのうちの一人がたまたま自分と同時期に死んで、同時期に喪服を着せられて、同じ職場に据えられたとしてもおかしくはない。偶然だ、なにもかも。そもそも自分は死人なのだ。生前の自分が、現在と同じ顔をしていたとは限らない。記憶が消されるというのなら、別の顔が使われたとしても不思議はない。ランダムに選ばれた顔の一種類が、たまたま二人の人間に振り分けられたとしても不思議はない。その程度の展開なら、許容できる――だろうか。 眼鏡を。掛けているのに。 同じ顔のコピーだというなら、片方が眼鏡を遣い、片方が遣っていないというのは不自然ではないのか。 それに。 少なくとも第三者から見たとき、眼鏡の有無というのは大きな差異だ。自分はこの銀縁眼鏡を掛けている。一方でその男は、素顔を晒している。この二人の類似性を判断するのは難しいことだと――思う。 思う。 そうではないのだろうか。自分が思うより、この小物の影響力は小さいのだろうか。誰もにそうだと認められてしまうほど、それほど、似ている相手が居るというのだろうか。 ゆっくりと、眼鏡を外した。 視界が頼りなく滲む。輪郭を失った視野が拡散する。外したそれの置き場所に迷い、結局胸ポケットに収めた。自分の顔が見えなくなって、無意識に、鏡に片手をついた。掌がひやりと冷たい。顔を近づけると、輪郭が再び絞られる。眼を細めると、随分と目つきが悪くなった。眼つきの悪い自分がこちらを睨みつけている。紅い瞳は見慣れた。眼鏡の無い自分も、眼鏡のある自分も、等分に見慣れている。けれどここまで素顔に近づき凝視したのは久しぶりだ。 この顔。 この顔だ。 自分の顔。 他の誰かの、顔。 二人で使っている顔。 同じ顔。―― ――はっ、と、我に返った。 なにを、考えていたのだ。 慌てて蛇口を捻る。勢いよく飛び出した水が跳ねて袖口を濡らすのも構わず、両手で水を受けて顔に叩きつけた。骨ばった手だった。水の冷たさに皮膚がこわばる。構わず同じ動作を繰り返す。 やめよう。考えるのは、止めよう。 席を外してしばらく経つ。そろそろ氷室辺りが探しに来てもおかしくない頃だ。仕事をせずに済む口実を、いつでも探しているような同僚だから。 水を止める。前髪から水を滴らせた自分は依然険しい顔をしていたが、少なくとも意識は冴えた。タオルで乱暴に顔を拭い、それから銀縁眼鏡を掛ける。 焦点が絞られた。 そこに在るのは間違いなく、月影の顔だった。 しばらく眺めてから、その場を後にする。部屋に戻ろうとしたところで、――氷室の声が聞こえ、無意識に足を止めた。 振り返る。情報局の大部屋とは方向が違う。名を呼びながら月影のことを探しているのだろう、と思った。全く、迷子を捜しているわけでもあるまいに、大袈裟なことをする。というより呼ばれているこちらが恥ずかしくなるから止めてもらいたい。彼と違ってサボっているわけではないのだし。 内心でぼやきながら顔を出したのと、当の氷室と眼が合ったのとが同時だった。 「月影」 同時に、彼の向こうにもう一人、長身痩躯の立ち姿を見た。無意識にそちらに視線を投げ、――ほんの一瞬、眼が合った。 切れ長の眼だった。 尖った顎に、不機嫌そうな無表情。縦にばかり長い長身痩躯。襟元を緩めて着崩したブラックスーツ。銀縁眼鏡は、なかった。素顔を晒したその男が、わずか眼を見開いた。 月影は咄嗟に――眼を、逸らした。 彼奴だ。 認識した。 けれどそれを意識的に追い払った。一瞥しただけだ。認めたら駄目だと思った。狼狽えては駄目だと思った。なにもない。なんでもない。ただの情報として、右から左へ流さなければならない。たぶん相手は自分を知らないのだろうが、自分は相手を知っている。腹が立った。その感情を――抱えこんではいけない、と思った。 だから氷室だけを見て、よう、と、軽く右手を挙げてみせた。 「なにやってんだよ」 「こっちの台詞だ馬鹿。捜したんだぜ」 「悪いな」 いつも通りの苦笑で応じたつもりでも、眼は無意識に彼を追っていた。逃げるような、長身痩躯の後姿を睨みつける。――違う。自分はあんな風に、スーツを着崩すような真似はしない。充分だ。それだけで。衣服の着こなしを変えるには相当な抵抗が伴う。だから充分なのだ。 「……どうしたんだよ」 見上げる視線にはっとする。 「すげー怖い顔してる」 指摘されて、反射的に苦笑を取り繕った。 「海棠ほどじゃないだろ」 「あ、それ本人に言ったら殺されるぞ」 「お前、それ言えるか?」 「……言えねー」 「だろ」 ちぇ、と大袈裟に唇を尖らせた同僚に肩を竦めてみせる。嗚呼、大丈夫だ。これが、普段の自分の反応だ。 「だいたい、ちょっと席立ったくらいで捜しにくるのが大袈裟なんだよ」 「あ、それは悪いけど俺のせいじゃない。賢木」 「……班長?」 表情が硬くなった、かもしれない、と思った。それに気づいているのかいないのか、それとも気づかないふりをしているのか、氷室は飄々と言葉を継ぐ。 「お前が出てったちょっとあとで、『様子がおかしかったからちょっと見てきてくれるか』って」 見るひとは見ていた、らしい。 月影は応えなかった。 ただぎこちなく笑って、そのまま情報局へと踵を返した。 |