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葬儀屋
「共鳴する水面」

下、


 もう随分長いこと考えこんでいるような気がする。自分の考えを言葉にして文字にするのは意外と難しいらしい、というのが、ここ一時間での小さな発見だった。夜中に布団に包まれているときならいくらでも出てくる繰り言が、白い便箋を目の前にした途端にぴたりと止んでしまうのだ。折角綺麗なレターセットを買ってきたのに、これでは便箋のほうが浮かばれない。
 白地にレースのような繊細な透かし切りが入っている。いつだったか店で一目惚れをして、けれど用途のなさと値段を考えて買わなかった。そんな、少し特別な便箋だった。
 結局書くことができたのは、あまりにありふれた「ごめんなさい」の六文字だけだった。
 なにについて誰に対して謝るのか、なぜ謝るのか、なぜこんなことをしたのか、書かないままではあまりに失礼だと思ったけれど、思いつかないものは仕方がない。こんなものを書いてもどうせワイドショーのネタにでもされるのが関の山だ、と捻くれた結論まで現れてしまってはどうしようもなかった。
 諦めてペンを置き、頬杖をついた。そして考えた。
 ――お兄ちゃん、どうしてるかな。
 嫌いではなかった。むしろ好きだった。だからこそ解らなかった。
 失礼だというなら失礼なのは兄のほうだ。結局なにも教えてくれなかった。例えば犯した罪について。自らの軽率さについて。あらゆる人々を傷つけたことについて。まさか兄がそんなことをするはずがない、と必死で否定しても、ただ黙って、寂しそうに笑うばかりだった。欲しい言葉はなにもくれなかった。
 違う俺じゃない、と一言言ってくれれば良かっただけなのに。アイツがあれだけ憎かった、と自分を正当化してくれても良かった。せめて昔みたいに、たった一度頭を撫でてくれるだけでも。
 なにも、なにひとつ教えてくれないまま、兄は連れていかれた。
 ニュースに名前が載った。司法以前に社会的に裁かれた。優しかったはずの、よく知っていたはずの兄は、底の見えない殺人者に変わってしまった。
 呆然とする間も泣く暇もなく、針の筵に座らされたことに気がついた。
 誹謗中傷落書き投石、ヒトの悪意は蛆虫のように湧いてくる。そんな形をとらなくても、無形の視線だけで充分だった。教室に入った瞬間に、排除の空気を肌で感じとる。座った自分の席の周りだけ、なぜか誰も寄りつかない。
 ――違う、聞いて、お兄ちゃんは悪くないの。
 そう叫ぶことができたらどんなに良かっただろう。けれどその言葉が絶対的に間違っていることだけは、自分でもちゃんと解っていた。けれど自分の知っている兄の面影は、どうしても所業と結びつかなかった。
 途方に暮れた。
 けれど手を差し伸べてくれる人は誰も居なかった。
 もう限界だ、と思った。
 裏切られた、と。もしかしたらそう思っていたのかもしれない。
 だから自分も裏切ってやろうと思ったのかもしれない。
 通学途中に高いマンションを見つけ、あそこから飛べたらどんなに気持ちが良いだろう、と思った。もう居ても立ってもいられず踵を返し、家に帰る途中でレターセットを買った。なにも伝えてもらえない苦痛なら解っているつもりだったから、それだけは自分の義務だと頑なに思っていた。
 ――なのにこの有様か、と苦笑する。
 もしかしたら兄も同じ気持ちだったのかもしれない、とふと思った。でももうどうでも良い、そんなことは。
 たった六文字を刻んだ便箋を丁寧に畳み、封筒に入れて糊付けした。制服を脱ぎ捨て淡い色のワンピースに着替えた。三つ編みを解きブラシで梳いた。開け放した窓から吹く風が、長い髪を乱す。窓を閉めて、鍵をかけた。
 ――さあ、出かけよう。

「あれ」
 胡蝶が呟く。驚いていたのは、誰よりまず彼女自身だった。右手の拳で目許を擦るが、滑ってしまって拭うことすら叶わない。スーツの袖が僅かに濡れた。
「お嬢さん」
 悦子が狼狽えたように声を上げる。垣間見えた鋭さは掻き消えて、元の母親の顔に戻っていた。疲れたような、しかし包容力のある母親の。
「ごめんなさい」
 悦子の言葉に、胡蝶が焦って片手を振る。
「ちが、違うんです……あたしが、勝手に……ごめんなさい」
 言葉を切る。その先はもう続かなかった。口を開くと言葉の代わりに、ひぃ、と嗚咽が引っ掛かる。涙を拭うことも放棄したか、胡蝶は両手で眼を覆い、ともすれば上げてしまいそうになる叫び声を必死で抑えながら――泣いていた。
 椎名は呆然と相棒を見つめていた。
 ――なにが起こった、今?
 目の前にあったのは、「葬儀屋」にとってはごくありふれた光景でしかなかったはずだ。聞いた言葉が琴線に触れ、堪えきれずに叫び声をあげた死者の姿。ただそれだけだ。怯えるほどのこともない。恐怖の対象になどなりえない。彼女も「葬儀屋」として、それ以上の修羅場を見ているはずなのだから。
 怯えでも恐怖でもない。否、そもそもそんな感情ではありえない。
 あれは――あの表情は、間違いなく「驚き」だった。
 眼から涙を流しているというその事実に、彼女はまず驚いていた。涙を流すような要素が、自分の中に見つからなかったのだろう。理由の解らない感情。衝動的な涙。意思に反した嗚咽。怖くも悲しくもないのに、なぜか突きあげてくる涙を抑えられない。理由が解らないから止めかたもわからない。そんな、戸惑いの表情。
 ――なにがあったんだ、あんた?
 まずは死者にけりをつけるべきだと、「葬儀屋」としての自分が冷静に判断した。悦子をこのまま放置しても埒が明かない。一方胡蝶には、落ち着くための充分な時間が必要だ。職業人としての、自分でも意外なほど常識的な判断だった。
 胡蝶と場所を代わろうと、闇の中から一歩を踏みだす。ネオンがちょうど両眼を射て、顔をしかめた。構わず相棒を短く呼ぼうとした刹那、――悦子の手が、躊躇いがちに胡蝶へ伸びた。
 椎名は動きを止めた。
 胡蝶は肩を震わせている。両手で顔を覆っている。
 指先が胡蝶の肩に触れた。ほんの一瞬、逡巡するように手を引っこめる。けれど次の瞬間、意を決したように一歩を踏みだし距離を詰め、喪服の少女を抱きしめていた。
 胡蝶の肩がこわばる。宥めるように、悦子が耳許で囁いた。
「大丈夫よ」
 右手が優しく、背中を叩く。そのリズムにつられるように、胡蝶はふっとこわばりを解いた。されるがままに身体を預け、それでも零れるものを止められないままで震えている。
 椎名はゆっくりと、踏みだした足を元に戻した。性格柄か所業ゆえか、自分が不要とされる局面には敏感なつもりだった。今この場に、椎名の存在は不必要だ。
 胡蝶の啜り泣く声が聞こえる。鼓膜を刺してくる。耳を塞ぎたい衝動に駆られる。隙間に入りこむ母の声が、椎名のどこかを抉ってくる。大丈夫よ、大丈夫。
「ごめんね」
 強く胡蝶を抱きしめた悦子が、掠れる声で呟いた。それは胡蝶へ向けたものか。あるいは、息子へ伝え損ねた一言なのか。
 胡蝶は悦子の肩に頭を預けている。声を押し殺している。
 ごめんね、と、母は小さく繰り返す。小さな背中をさすりながら。
 明るい街の暗い片隅で、小柄な影が一つに寄り添う。椎名は腕を組んで、再び定位置に落ちついた。もう少しだけそっとしておいてやりたいと思い――自分らしくもない、と、表情には出さずに苦笑した。
 どれだけ経ったのか判らない。
 気づいたときには嗚咽が穏やかな呼吸に戻りつつあった。死人が呼吸というのも可笑しな話だ。規則正しい呼吸というのは、死人にも鎮静作用をもたらしてくれるのだろうか。胸中の風船を二つ、無意味に膨らませるだけのことなのに。
 何度目かの「大丈夫」が合図であったかのように、――胡蝶を包みこむ悦子の身体が、ゆっくりと景色を透かす。
 椎名は少しだけ、眼を見開いた。
 ――そう、理論上は予想されたこと。例えば悦子が、愛情を注ぐという行為そのものに飢えていたのなら。注いだ分だけ返してくれる、そんな素直な経験を欲していたのなら。息子と同い年を名乗った少女に、その姿を重ねていたのなら。
 それともただ、乱れた気持ちを落ちつけたかっただけなのだろうか。小難しい理屈など一切抜きに。
 悦子が、胡蝶の両肩に手を置いたままで身体を離す。視線を合わせてしゃがみこみ、下から胡蝶の顔を覗いた。――顔を上げた胡蝶の濡れた両眼に、罪悪感を覚えたのはなぜだろう。
 右手の甲で目許を拭い、胡蝶が照れたように笑う。それを見て、半透明の悦子が安心したように微笑んだ。唇が動く。なにかを伝え、胡蝶がこくりと頷いた。
 ありがとうございます。
 照れ隠しのように破顔して、胡蝶は小さく、そう言った。
 悦子がにっこりと笑う。それが最期だった。

 椎名は慎重に、胡蝶の隣に歩み寄った。横顔は随分と落ち着いていたが、抱きしめてくれる腕を失くした肩が、心なしか寂しげに映る。ぼんやりと足許を見下ろしている相棒に、椎名は呼びかけた。
「解っててやったのか」
「え?」
 思い出したように、胡蝶が振り返る。潤んだ紅い眼に真正面から射られ、強烈な既視感に襲われた。眼を逸らしかける無意識を、俺じゃない――と言い訳のように抑えつけて踏みとどまる。
 胡蝶が見つめていた虚空を、ちらりと一瞥した。
「ああしたら、蓬田悦子が還るって」
 ――あんたもできてきたんじゃないのか、仕事のスタイル。
 彼女にかけた言葉をふと思い出したが、まさかこんな面倒な「スタイル」にしてはいないだろう、と思った。
 案の定、彼女はきょとんとこちらを見返した。
 だが次の瞬間、頬を染めて視線を逸らされた。椎名が呆気にとられるより早く、胡蝶が迷いながらも首を振る。
「違う、……別に、そんなんじゃ」
「じゃ、なんで」
 問いを重ねた。否定の答えなら予測していた。欲しかったのは肯定ではなく、理由を問いただすためのきっかけだった。
 うーん、とわざとらしく呟いて、胡蝶は空を仰いだ。見慣れた胡蝶の横顔は、ただ眼と頬が微かに赤みを帯びている。
 上を向いたまま、胡蝶は器用に首を傾げた。
「あたしにも、よく解んない」
「は?」
「だけど」
 無理に繋いだ言葉が不自然に詰まった。違和感を覚える。しかし構わずに続ける。
「なにか、凄く辛いことがあったんだと思う……それだけはあたしにとって確かで、でもそれがなんなのか解らなくて、それでも辛くて、悲しくて、涙が勝手に……出てきて、どうしようも」
「――もう良い、解った」
 椎名が遮るのと、胡蝶が再び右手で顔を覆って俯くのと、どちらが早かったのだろう。彼女は泣きやんだのではなく、束の間涙を押しこめるのに成功していただけなのだと――気づいたときにはもう遅すぎた。
 溜息をついて、椎名は胡蝶の代わりに天を仰いだ。ビルに挟まれた空は細長く、必要以上に遠く感じられた。星の一つも見えなくては、底無し沼を覗く図と変わらない。ただ上を向いてさえいれば、確かに零れるものを抑えられそうな気はした。そんなことすら解らなかったか、と小さな自責に捕らわれる。
 声は聞こえない。けれど、だからなんだというのだ。
 ――なにか、凄く辛いことがあったんだと思う、か。
 胡蝶の台詞を口の中で転がしながら考えた。なにが、彼女をあそこまで揺さぶったのだろうと。可能な限り、悦子の言葉を思い出そうと努めてみる。この短時間に胡蝶が影響を受けたものといえば、蓬田悦子の言葉以外に有り得ない。現世とも生者とも、ほとんど関わらない案件だったのだ。仮にこの繁華街自体が原因であるのなら、降り立った瞬間に泣きだしてもおかしくなかった。
 おいくつですか。親って鬱陶しいですか。全部解ってあげようだなんて。私には解らないんです。全部私が悪いんですか。だから私は独りで死ぬしかなかったんだ――。知らないうちに犯罪者に変わってしまった少年の、その母親の叫び。子供から裏切られ、自らの罪を責め、世間の偏見に晒され、その整理をつけきれないまま強制的に生の世界から引き剥がされた母親の。理解する努力すら許されずに、母は死者となった。
 これが未練でなくてなんだろう。
 それは断末魔であり、懺悔だった。
 しかしそれは、あくまで母としての叫びであったはずだった。
 ――それになぜ、胡蝶が呼応する?
 再び疑問を投げたとき、唐突に、いつかの常磐の言葉が蘇った。
 ――彼女の兄は、人を殺めたそうですよ。
 思考が凍結する。
 まさか、と思った。
 彼女の兄は殺人者だった。だから――その妹たる「胡蝶」は、世間の白い眼に晒されたことだろう。露骨な嫌がらせを受けもしただろう。そして兄に裏切られたと、感じもしただろう。
 だから、椎名の「殺人」を止めたいと願ったのだろうか。
 もうこれ以上、自分が傷つかないために。
 胡蝶はなにかに耐えている。必要以上の詮索を始めている自分に気がついて、椎名は意識的に思考を断った。所詮、椎名には関係のないことだ。まして生前の出来事について詮索するなど、「葬儀屋」にとっては禁忌に等しい。記憶を辿ったところで、どこかで必ず壁にぶつかる。仮にその壁を破壊したとしても、最後は自分が壊れて終わるのだ。悦子の息子が手を染めた、薬物と同じ。甘美だからと求めれば、気づいたときには身を滅ぼしている。
 なにか思いだしたのか?
 尋ねる言葉が喉までせりあがってきたが、辛うじて呑みこんだ。自分のような「葬儀屋」が他に出るなど、冗談にしても悪趣味が過ぎる。
 唇の端で、自嘲的に笑った。
 それに、――顔を覆って子供のように泣いている胡蝶を見ていると、とてもではないが、そんな記憶を手にしているようには見えなかった。第一そうであるのなら、泣くなどという平和な反応では済まないはずだ。崩れ落ちるような絶対的な絶望感か、圧倒的な恐怖か、いずれにせよ正気ではいられない。それは誰より椎名自身がいちばんよく知ることだった。
 ならば。
 彼女はただ、戸惑っているだけなのだ。
 なにかに、酷く反応した自分自身に。その「なにか」の正体も解らないまま、それでも自分を衝き動かす強い感情を扱いかねているだけだ。
 ――ふ、と椎名は苦笑した。
 あと少し。もう少しだけ、そっとしておいてやろうと思った。もしかしたらそれが、罪滅ぼしになるのかもしれない。もっとも胡蝶は、そんなことなど知るよしもないのだろうけれど。
 立ち尽くす胡蝶から一歩離れ、薄汚れたアスファルトの上に片膝を立てて座りこんだ。もとより現世の汚れなど関係ない。むしろ多少汚れるくらいが自分には似つかわしいだろう。
 狭い通路の中、胡蝶は両側に迫る壁と平行に俯いている。椎名は通路の端に座りこみ、目の前の黒い壁を眺めている。視線は交わらない。敢えて交えるつもりもない。
 夜は始まったばかりだ、と、椎名は夜空を仰いだ。月も星も見えないが、たぶん確かに存在してはいるのだろう。人工的な灯りを消して、視界をもっと広げれば良い。必要な手間は、たったそれだけだ。胡蝶の啜り泣きが、嬌声に掻き消されそうになりながら細く続いている。それに耳を澄ませるのが義務だと、なぜだか強く思った。
 ――泣いて落ち着かせられるなら、存分に泣けば良い。
 夜は長い。少しくらいサボったところで赦されるだろう、と、椎名はゆっくりと瞼を閉じた。

――了


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