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葬儀屋
「共鳴する水面」

上、


 小さな背中が遠ざかる、と、眼を閉じる直前にそう認識した。一人取り残されることを予感する。しかし眼を開いた次の瞬間、こちらを覗きこむ顔を真正面に捉えて面食らった。反射的に後ずさろうとしたが、のけぞり椅子の背凭れを軋ませただけに終わる。
 蛍光灯の灯りに眼を細める。
 なにやってるの、と、少女が席に着きながら苦笑した。見なくても判る。知らぬ間に見慣れ聞き慣れた胡蝶のそれだった。
 身体を起こすと、相棒から視線を逸らしながら、思いつきのようにデスクの抽斗を開けた。あるはずもない動悸を感じている。心臓に悪い、というのも悪趣味な冗談だろうか。
 掠れた声で言葉を押しだした。
「……急に戻ってくるな」
「椎名君が寝てただけでしょ」
 澄まし顔で指摘されようやく理解した。――要するに、間がすっぽりと抜け落ちていたのだ。執務室へ向かった胡蝶を見送った直後に意識を失くし、用事を済ませた彼女が戻ってくると同時に覚醒した、それだけのこと。本当に寝てるんだろうか、と好奇心から顔を覗きこむなど、彼女のやりそうなことだ。滅多に見ない壁掛け時計を見上げると、微かに記憶に残る時間から三十分ほど経過していた。仮眠時間としては悪くない。
 意味もなくファイルを一冊取り出し、抽斗を閉めた。ぱらぱらとページをめくる。
「報告は」
「いつも通りだよ、特に問題なし。新しい書類も貰ってきた」
 短く問うと、心得たように返事が飛んできた。手にした紙の束を軽く示して澄ましてみせる。質問以上の情報を煩わしく思うこともあったが、それにも随分と慣れたような気がした。胡蝶も機嫌が良さそうだ。少なくとも、報告の間に眠りこけていた相棒にわざとらしく口を尖らせない程度には。
 意識がまだ睡眠の側を泳いでいる。文字が羅列としてしか認識できない。
 目覚めなければ、という義務感に駆られてファイルをデスクに置き、胡蝶の手にした書類に手を伸ばした。丸い眼を意外そうに見開いたあとで、慌てて一部を引き抜き手渡してくる。無言で受けとって、椎名は再び自分の椅子に収まった。
「亭主関白みたい」
 訂正。
 機嫌は良くても、口は尖らせるらしい。
 横目で見ると、ペンを片手に書類を眺めながら胡蝶がぼやいている。けれど表情は笑っていた。
「……誰が亭主で誰が関白だよ」
「でも似合うと思うよー亭主関白」
「そりゃどうも」
 噛みあわない返答に気のない口調で返すと、胡蝶がくす、とまた笑ったのが聞こえた。泣いたり怒ったりされるよりは余程良いけれど、その理由が解らないというのも考えものだ。
「そっちはどんな人?」
 自分の書類を読むより先に、こちらの死者に首を突っこむことにしたらしい。軽く床を蹴り、回転椅子をこちらに向けて移動してくる。彼女が覗きこんでくるより早く、死者の名と死因だけを告げてやった。いずれまだそこまでしか読めていない。
「――蓬田[よもぎだ]悦子、心疾患」
 書類に貼られた中年女が宙を眺めている。どの眼も等しく虚ろに見えるのは、彼女が未練を持って現世に留まっている、という背景を知っているせいだろうか。
 事故や自殺でないのなら、死そのものへの衝撃は薄いだろう。強く恨む対象が居るわけではあるまい。ならば、家族、友人、あるいはやり残したことへの未練だろうか。よくある死者の、よくある未練――だが、読み進めるうちに考えを改めた。
 胡蝶の表情が緩やかに硬くなる。それを、視界の端で認識する。
「酷い」
 両膝に手を置いた胡蝶が、ぽつりと呟いた。想像通りの反応だった。
 ――悦子が未練を残したのは、息子の存在そのものだった。
 煙草に手を出した程度であればまだ可愛かった。けれどどこで覚えたか、薬物の味を知った。気づいたときにはもう遅い。澄ました優等生の顔を、頭から信じてしまっていた。そして問いつめた瞬間、息子は別人に変わってしまった。
 蓬田悦子は絶望した。
 そして絶望とは無関係に、心疾患で急死した。
 しかし絶望のゆえに現世に留まり、その結果、データを掬いあげられて「葬儀屋」の俎上[そじょう]に載せられた。
 絶望を整理し、向きあう時間さえ許されずに、生者の世界から強制的に切り離されたこと――厳密に言うならそれこそが、彼女の未練であるのだろう。
 小さく溜息をつき、頭を掻く。どうしようもないことに限って、人は未練を残すのだ。そもそも、仮に彼女が生き長らえていたところで、なにか満足のいく解決が得られたかどうかは判らない。しかし、死んで生者の世界から弾き出されたが最後、その解決が得られないことだけは確定してしまった。
 隣に座る相棒は、眉を顰めて怒っているようにも、唇を噛んで悲しんでいるようにも見えた。
「どう思う」
 横顔に短く問うと、形容しがたい顔がこちらを見た。
「どうって」
「あんたならどうする」
 重ねた。彼女の顔色から、なにか具体的な言葉を引き出してみたいと興味を抱いた。それに気づいたのは、彼女の顔を見たあとだった。
 そういえば昔常磐にそんな言葉をかけられたことがある、と思い出し、束の間複雑な気分を味わう。椎名の胸中を知ってか知らずか、胡蝶が律儀に首を傾げた。そんな素直な反応は、自分にはできなかったはずだ。
「……テストしてる?」
「別に……ただ」
「ただ?」
「あんたもできてきたんじゃないのか、仕事のスタイル」
 口をついた言葉は自分でも意外なものだった。きょとんとする胡蝶から眼を逸らし、再び書類に眼を落とす。どうしようもなかろうと救いがなかろうと、この死者を輪廻に還すのが「葬儀屋」の仕事であり、その方法は全面的に各個人に任されている。
 眉間に大袈裟な皺を刻んで、胡蝶がうんと唸った。見る必要もない。
「スタイルかー……難しいこと訊くんだね」
 そんな大きな話をしたかったのではない、と訂正しかけた。ただ、蓬田悦子という個人についての手法を問いたかっただけなのだ。胡蝶という大きな枠組みに興味があったわけではない。
 否――どうなのだろう。
 気づけば、随分と長い間一緒に仕事をしてきた気がする。しかし未だに、彼女のことは理解できた気がしなかった。表情も反応も、常磐などよりよほど読みやすいはずなのに。読みやすい表情というものの読みかたが解らないのだろうか。それとも彼女の持つ要素が、自分と対極にありすぎるだからだろうか。
 この母親をどう捌くだろう。絶望を抱えた死者を前にして、――例えば椎名なら、鼻先にその絶望を突きつける方法を選ぶだろう。それでは胡蝶ならどうするだろう。その差異を、比べてみたいと思った。
 随分人間的な気紛れを起こすようになったじゃないか、と、表情には出さないままでほんの少し、笑った。だから口にしかけた訂正を、仕舞いこんだ。
 しばらく唸っていた胡蝶が、思い出したように言葉を選びとった。
「話はゆっくり聴いてあげて、その人が持ってるもの全部吐き出してもらうのが良いのかなーって思うんだ」
 そうか、そうだろうな。
 なんの疑問も躊躇もなく、すんなりと納得する。
「ならこいつは」
 摘んだ書類を示して胡蝶を見ると、いつになく真面目な表情とぶつかった。
「だから一緒、どうしようもないことだから、どうしようもないってことは解ってるはずだから、吐き出してもらえるまで待つよ」
 椎名は胡蝶を見て、そして悦子の写真を見た。薄化粧の、少しやつれたような中年女。彼女の隣に胡蝶を並べる。こちらから敢えて[えぐ]るような真似をせず、ただ真正面から死者に向きあう姿は、確かに彼女に似合っていた。
「……ねえ、なんか言ってよー」
 情けない声がした。視線だけで隣を見ると、先刻の真顔はどこへ消えたのか、不安と不満に唇を尖らせた相棒の顔があった。
「せっかく真面目に答えたのにノーコメントはないでしょ」
 ああ、と生返事をすると、ああじゃないよ、と怒られた。忙しない少女だ。
「良いんじゃないのか」
「適当ー」
 文句を言われても巧い返事など思いつかない。なら最初から訊かなければ良かったじゃないか、とも思ったがもう遅かった。会話を終わらせる手段など、ひとつしか持ちあわせていない。
「行くか」
「え? もう?」
「読んだろ、これ」
「読んだけど……急ぐ人他にも居るかもしれないじゃん」
「とりあえずこいつが終わってから考えりゃ良い」
「適当だなぁ」
 呆れ顔だが声は苦笑している。本来なら、書類全てに通し、優先順位をつけてから出かけていくのが正しい管理局員の在りかただ。しかし胡蝶が言うほどに、急ぎの死者など居るものではない。そもそもそこまで急ぐなら、書類を手渡してくるときに、常磐か狭霧が一言付け加えてくるだろう。――緊張感がない、と、それこそ胡蝶が怒りだしそうな発想だけれど。
 胡蝶がぱちぱちと瞬きをしてこちらを見ている。気づかないふりをして、椎名は胸ポケットのサングラスを確認した。
「善は急げだね」
 ぴょこん、と胡蝶が唐突に立ちあがる。椎名が見上げると同時、悪戯っぽく笑いかけてきた。
「早くしないと椎名君のやる気がなくなっちゃうもんね」
「言ってろ」
 軽く握った右手で胡蝶の額を小突き、椎名もゆるりと立ちあがる。

 暗い空にネオンが我が物顔で光を投げる。行き交うスーツに客引きが声をかける。酒と煙草の匂いが空気を淀ませる。――歓楽街とは類型的だ。それがどこの都市であろうと大差はない。町の名などに意味はないのだ。
 上の空でいたせいか生者を避け損ねた。手を繋いだカップルを真正面から通り抜けてしまい、乗り物酔いのような不快感を味わう。刹那覚えた吐き気を呑みこみながら、これは真面目に仕事をしろという天の声だろうか、と悠長な感慨を抱いた。いつもならもっと気をつけて歩くのだ。
 しかしそれにしても、生者が多い。歩きにくくて面倒だ――例え仕事場が歓楽街であっても、感想の浅さは変わらない。対照的に、胡蝶は椎名の横にぴたりとついて離れようとしなかった。この手の空気が苦手なのだろう。見下ろす横顔がいつも以上に幼く見える。
 大声で笑いあう一団をかわし、胡蝶に問うた。
「どうだ」
「うーん……居ないみたい」
 背伸びをして人混みの向こうを見やる。目立つと思うんだけどねえ、と呟き、胡蝶は小さく首を傾げた。それは同感だった。ヒト型をしているという点では同じでも、生者と死者とは根本的に世界の違う存在だ。まして、人工的な明るさを誇示するような場所は――世界にとって異質だと判断された存在を、問答無用で排除する。探しているのは、二重の意味で異質な女だった。
「この辺って書いてたんだけどね? 移動しちゃってるのかな」
「かもな」
 死者は、追手たる「葬儀屋」の都合など無視して行動する。情報局といえども、その移動先まで予知することは不可能らしかった。
 言葉を切って会社員のグループを避け、ついでに細い路地裏を覗きこむ。居るなら煌びやかな大通りより暗い路地のほうを選ぶだろう、と感覚的に確信していた。奥に見える人影に眼を凝らしてみたが、少年たちが地面にたむろしているだけだった。幸か不幸か死者は居ない。溜息をついた椎名の足許を、黒猫が走り抜ける。たぶん野良だろう。
 パチンコ店のネオンに眼を細める。暗闇なら慣れきっていたはずだったが、我が物顔で夜を威圧する光はどうも苦手だった。暴力的な光というのも困りものだ。
 どこかの女が口にする甘ったるい言葉が、椎名の中をすうと通り抜ける。
 視線を下に戻し――視界の隅に入った裏路地に、そのまま滑らせる。何気なく見た場所にそのまま、眼を留めた。
 革靴の歩みが止まる。
「椎名君?」
 胡蝶が敏感に反応し、椎名のスーツの裾を引く。彼女の手を払い、細い暗闇に意識を集中させたままで短く答えた。
「居た」
「え?」
 返事を待たず、小道に入りこむ。蒼い光が辛うじて射しこむ道の中ほどに――さりとて闇に溶けこむこともできないままで、独りの女がぼんやりと、佇んでいた。紛れもない死者の存在感を纏わせて。
 待ってよ、と不安げな声を漏らして、胡蝶の軽い足音が駆けてくる。それを聞き流しながら、椎名は再び歩みを止める。二種類の足音を聞いてようやく、女は顔を上げた。頬が蒼く染まっているのは、人工的な灯りのせいばかりだろうか。
 両眼が椎名を捉えた瞬間、彼女は確かに、眼を見開いた。しかしすぐに伏せてしまう。微かに頭を振るまでの一連の所作は、なにかを振りきるような、それでも諦めきれないような、そんなものに見えた。口許の微苦笑は随分と疲れているようだ、と冷静に分析する。
 視線だけで隣を見ると、胡蝶が定位置についていた。
 眼の前の死者を見る。
 ――仕事だ。
 一言、告げた。
「あんたの葬式、挙げにきたぜ」
 蓬田悦子は椎名を見て、そして胡蝶を見た。しかし返事の一つも口にできないまま、沈黙していた。肩に届く黒髪が緩く波打っている。よく見ると傷んだ髪だ。
 ヘッドライトが飛びこみ、強烈に死者たちを照らしだす。真正面から光を浴びた悦子が僅かに眼を細めたが、足許に影は伸びなかった。
 暗さが戻るとやがて死者は、穏やかに口を開いた。
「……人違いでは、ないですか」
 柔らかな声だった。悟ったような、と形容したくなったのは椎名の偏見だろうか。
「いや、あんたの葬式だよ、――蓬田悦子」
 それだけ言って、ちらりと胡蝶を見る。相棒は驚いたように眼を見開いたが、すぐ、心得たように表情を引き締めた。揺らがせるのが椎名の役割なら、地に足をつけさせるのは胡蝶の役割だ。
 悦子は驚くでもなく、凪いだような薄い微笑で諾々と現状を受けいれている。驚くだけの精神力が残っていないのかもしれない、と思った。
 椎名はゆっくりと、一歩後ろへ下がった。薄汚れた壁へ同化するように腕を組み、軽く開いた脚の片方に体重を乗せる。縦にばかり長いこの姿は邪魔なだけだ。威圧感なら自覚している。可能ならば、彼女たちの中から自分の存在を消し去ってしまいたい。
 代わりに胡蝶が、ごく自然に一歩を踏みだした。視界に入る相棒が後姿に変わる。――さて、お手並み拝見とでも洒落こむか。
「なにを、していらしたんですか? こんなところで」
 悦子は答えなかった。表面的な笑みを浮かべているだけだ。顔は胡蝶に向いてはいるが、彼女の存在を認識しているかどうかは怪しいところだった。――背の高さは、小柄な胡蝶とそう変わるまい。胡蝶の表情は見えないが、たぶん、穏やかであどけない顔をしているのだろう。悦子が酷く眩しそうに眼を細めている。さほど光の入る場所でもあるまいに。
 ぽつりと、悦子は呟いた。
「迷ってしまったみたいなんです」
「迷う?」
「お嬢さん」
 胡蝶の問い返しを半ば無視して、悦子が歌うように呼びかけてくる。慈愛の笑みだった。
「――おいくつですか?」
「え?」
「お嬢さん、おいくつですか」
 問いを重ねる悦子に、胡蝶が返す言葉を失くしている。瞬きを繰り返す紅い眼を思い浮かべた。間違ってはいない想像だろう、と眼を閉じる。どうせ後姿だ。表情は見えないのだから同じことだ。たぶん彼女は――戸惑っている。更に言えば困ってもいるだろう。唐突に投げられた問いは、ごく自然でありながら、胡蝶にとっては答えようのないものなのだから。ブラックスーツを身につけ紅い眼を開くより以前のことを記憶していない「葬儀屋」が、自らの年齢――あるいは享年――を知っているはずがない。
 享年二十三歳。
 椎名は口の中で呟いた。半ば自嘲的な言葉だった。
 柔らかな笑みが人工的に固まって、悦子の顔に貼りついている。それを見つめていたのかどうか、胡蝶はやがて、躊躇いがちに言葉を押し出した。
「十六歳、です」
 ――上出来だ。
 悦子が、やっぱり、とでもいうように肩を落として笑う。
「私の息子も十六なんです」
 語尾が次第に小さくなって、闇に溶けた。
 ほんの数歩も歩めば、喧騒と光彩の入り乱れる大通りに出る。たったそれだけの距離しかないはずなのに、生者の声は酷く遠くに感じられた。悦子の頬を貫通する、蒼いネオンだけが奇妙な存在感を放っている。
 胡蝶の後姿は自然体だった。たぶん意図的にそうしているのだろう。人生が楽しくてしょうがない、人生が終わるなど考えたこともない、そんなごく普通の女子高生の顔をしている。時折馬鹿の代名詞のように扱われる、あの若くて幼い世代を演じている。自分が女子高生であったのかどうか、そんなことを確かめる術もないのに。
 否、だからこそ、か。
 眩しそうに眼を細めて、悦子は胡蝶を見ている。そして脈絡もなく、問いを重ねた。
「ねえ、もう一つだけ」
「はい」
「親って鬱陶しいですか?」
 穏やかな表情で軽く投げかけられたのは、ずしりと重い言葉だった。あどけない肩が、ほんの一瞬こわばる。それは「葬儀屋」ではなく、胡蝶個人の素の顔だ。
 彼女は今この瞬間、なにを思ったのだろう。胡蝶として。あるいは、「葬儀屋」として。
 口を出すべきか、と逡巡したがやめておいた。椎名が口を挟んだところで、事態が好転するとは思えない。長身痩躯の外見は――繊細な死者には、必要以上の威圧感を与えるようだから。胡蝶と椎名が同世代に位置しようが、理論的には胡蝶と椎名の立場を交換することが可能であろうが、そんなことは関係がない。悦子の息子の所業を考えれば、却って逆効果にもなりかねないのだ。
 胡蝶の後姿が、躊躇いがちに首を傾げた。長い髪がさらりと揺れた。
「ときどき、は」
 慎重に選んではいるが、それはたぶん、胡蝶の本心から出た言葉なのだろう。少なくとも、仮に自分が十六歳の女子高生であるならばこう答えているだろう、という程度の本心ではあるはずだ。
 やっぱりそうですよね。
 辛うじて耳に届く程度の小声でそう呟くと、悦子は微笑して、それから俯き溜息をついた。ただでさえ影の滲んだ横顔が、より一層の疲労感を漂わせる。ごく自然な流れで出たそれは、椎名と同じ。哀しくなるほど――板についた溜息だった。
「でも、あんまり意識したことはないです」
「全部解ってあげようだなんて……思う私のほうが傲慢だったんだろうなって、今になって思うんですよ」
「どうしてそんなことを仰るんですか」
 胡蝶の言葉がぎりぎりのところで通りすぎていく。けれど小さく首を傾げた最後の質問は、辛うじて届いたらしかった。
 顔を上げ、悦子は母親の顔で微笑んだ。
「結局無理だったもの。死んでしまえばもうおしまい。……私には解らないんです」
 どこか陰のある微笑みを。
「私が知ってたあの子は一体なんだったのか。成績も良くて優しい良い子だったあの子が、なにをどう間違ったら煙草なんて、クスリなんて、覚えられたのか」
 路に迷った子供のような口調で。
「親失格ですよ。でも、そもそも私になにかができたのか。なにをしても無駄だったんじゃないか。冗談みたいにあっさり死んだのも、そんな努力無駄だっていう証拠なんじゃないか」
 早口で。逃げるように。――なにから?
「こういうところに来てたのかなって、解るのかなって、歩いてみても、結局」
 不意に、悦子は黙りこんだ。
 空気の抜けた風船のように、ふつりと俯く。重苦しい夜に、少しも静かではない沈黙が満ちる。遠くでクラクションが鳴る。
 その淀みを、胡蝶は少女の顔で侵した。
「どうしてそんなに無理をなさるんです」
 淀みを掻きわけるのも、それを吐きだすことも、結局は悦子個人がしなければならないことだ。自分にできるのは彼女の手を引くことだけだ。そんな静かな使命感が相棒の背中に透ける。
 椎名はただ、腕を組んで二人を眺めていた。
 生者の甲高い笑い声が耳を刺す。
「しないでいられると思ってるの」
 やがて、抑えた声が漏れた。
「私は……私がなにをしたっていうの」
 呪詛のような。
「私はちゃんとやったのよ……でもあの子は応えてくれないままであんな遠くまで行ってしまった。全部私が悪いんですか? 私がちゃんとしてなかったせい? ならなにができたっていうの?」
 もともと身体が強いほうではなかった。心労が重なったためというのなら、彼女は殺されたようなものだろう。それでも敢えて自分独りで抱えることを選んだのなら、彼女は自殺したようなものだろう。
 苦悶を貼りつけた悦子の顔が見えた。眼だけが鋭い。
 胡蝶の表情は見えない。
「あの子だって辛かったはず。私だって。なのになにも知らない人ばっかりが私たちを白い眼で見る……!」
 唇が言葉を探して震えている。暗い夜空を仰いで、悦子は腹の底から慟哭した。
「だから私は独りで死ぬしかなかったんだ!」
 死者の叫びは生者に届かない。
 死神の悪戯で強制的に人生を終えられた女の、後悔と恨みの断末魔だった。
 椎名はなにも言わない。胡蝶も口を開かない。ただ悦子一人が、固く目を閉じて夜空を仰いでいる。蒼いネオンが喉を貫いている。
 ただ、それだけだ。
 ――胡蝶はなにも言わない。
 椎名は小さく、眉を顰めた。
 計算された無言ではない。あの相棒は、なにか言葉を探っているのか。それとも策を失ったのか。
 気配を消したまま、椎名は僅かに態勢を変えた。視界の中で後姿が傾く。ようやく見えた彼女の横顔は、唇を噛み、戸惑ったように眼を泳がせて、――震えていた。
 それが異変だと気づくまでにしばらくかかった。
「おい」
「つらい、ですよね……」
 椎名の呟きで我に返ったか、胡蝶が掠れた声を絞りだす。けれどそれが限界だった。
 次の瞬間、紅い眼から大粒の涙が零れ落ちた。


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