葬儀屋
「壊れた鏡」

下、


「またお前らか」
 椎名が眼を開けたのと、濱島貴司が平たい口調で呟いたのが同時だった。
 両脇をコンクリートの塀に固められた、車がやっとすれ違えるくらいの道。ほんの五六歩先に濱島が居て、椎名の斜め後ろに常磐が立っている。
 相変わらずのよく晴れた空が、酷く狭く見えた。
 濱島の虚ろさが深まった気がするのは気のせいかと――思うよりも早く、一閃。
 椎名が眼を見開くと同時に濱島がその脇を通りすぎた。振り返ると、常磐が首を傾げたのが見えた。その横をナイフが掠めた。ごついナイフを握った右手。暗い両眼。がむしゃらに振り下ろされる刃。
「常磐」
 思わず名を呼んだ。
 常磐は椎名の声など聞こえていないかのように、濱島だけを見据えている。次々に振り下ろされるナイフは、ほとんど見もしないで避けていた。首、腕、胸、顔、顔、胸、腕、首、腕、首、――。
 空を切る音だけが聞こえる。
 立ちすくんだまま動けずにいる椎名の横を、無我夢中で刃物を振るう濱島と、平然と避けながら後ずさっていく常磐とが通りすぎていく。傍目には常磐が劣勢に見えるが、奥歯を食いしばって殺意に眼を燃やしている濱島のほうがよほど正気ではない。抜け殻のような存在感しか持っていないくせに、その眼の殺意は本物だった。
 なぜ銃を抜かないのだろうと、椎名は不意に訝しく思う。相手が近すぎるからなどと、そんな可愛らしい理由で銃を躊躇[ためら]う常磐ではない。ある意味これは嬲っているのだろうかと、ぞっとしない想像をする。虚ろだった濱島の顔つきが次第に変わってきているのは確かなのだ。無表情ではなく、明確に殺意を宿した――殺意に溺れた顔に。
 ――俺もあんな顔をしているのだろうか。
 判断できない。少なくとも、濱島は笑ってはいない。自分は笑う。刀を振るいながら、無意識のうちに笑っている。
「なるほど」
 独り言のような呟きで我に返った。見ると、常磐が濱島の腕の下を潜り抜けて彼の背後を取ったところだった。
「確かに貴方は椎名に似ています」
 自分の名を聞いてどきりとする。
「……椎名?」
 振り返ると同時に突きを入れながら、濱島の平たい声が問い返す。
 鋭く飛んできた刃を片手で軽く払い、常磐がまた一歩下がった。彼の一挙手一投足がいやにゆっくりとして見える。常磐の優しげな動きとは対照的に、唐突に勢いを殺された濱島は大きくバランスを崩した。二三歩後退し、コンクリートの塀にぶつかりかけて停止する。その様子を、常磐は傍観者の眼で眺めている。
 驚きに眼を見開いた濱島が、ゆっくりと顔を上げる。その首に、椎名のつけた血の一筋が見える。
 彼の視線をぴたりと捉えて、常磐は静かに言った。
「殺意に身を委ねた眼です。気をつけないと身を滅ぼしますよ」
 ――思いあたる節がありすぎる自分が嫌になる。感受性さえ消えつつある死者の分まで、余計に背負わされているようであることも不快だった。
 濱島は少しだけ、不思議そうな顔をした。それから思い出したように眼鏡のブリッジを押さえた。そのフレームもまた、血のように赤黒い。
「……知らない」
「それならそれで構いません」
 常磐は涼しい顔で言う。機械じみた濱島の口調といい、噛みあっているのかどうかも判然としないやりとりだった。
 微妙なずれを起こしながらも、最前までの経過をゆっくりとなぞっている。そんな気がする。
 ――そうやってこいつを壊すつもりなんだろうか。
 銃ではなく、言葉での始末。それもまたぞっとしないことだ。微かに戦慄を覚え、無意識のうちに腕を組んでいた。壊されるのは自分かもしれない、と、どこかで思っていたのかもしれない。
 濱島が再びナイフを振るっている。
 椎名は半ば足を竦ませながらそれを見ている。
 自分が傷つく可能性など微塵も考えていない。それが無謀であるということすら理解していない攻撃。本能の赴くままに刃物を向ける。相手が傷つきさえすればそれで良い。手に伝わる感触が。血の色が。
 血が得られないから苛立ちもする。だから余計に、手に力をこめる。
 暗い眼をした濱島貴司の姿は、たぶん椎名の姿そのものだった。
 ――こいつが壊そうとしているのは、この死人なんだろうか。
 ――それとも、俺なんだろうか。
 ちらりと――そのとき、常磐の冷めた眼が椎名を見た。
 はっとする。慌てて見直したが、既に視線は濱島に戻っている。気のせいだろうか、と吟味する間もなく、常磐が世間話じみた問いかけを口にした。
「貴方は誰を殺したいのですか」
 口調の割に殺伐とした台詞だった。
 答える代わりに濱島は攻撃を寄越した。台詞ごと斬り裂くような斬撃を、首を傾け腕を縮めて避ける。自分は銃に触れもせず、相手の腕を摑みもせず、ただ半ば嬲るように斬撃を避け続けている。刃を掠らせもしない常磐は確かに化け物じみていたが、そこまでされてもまったく疲労を見せない濱島も驚異的だった。否、化け物というなら濱島のほうこそ、正しく化け物に近づこうとしているのだろう。表情も人格も消えうせた、影という名の感情の塊に。
 黙って振るったナイフが、常磐の長髪を一束切った。
 常磐がわざと切らせたように見えてならなかった。
 それを感じたのか、濱島は一瞬動きを止めて退いた。人工物のように表情の変わらない顔が、かすかに眉を顰める。
「お前は解るってのか」
 切れた毛束に華奢な手で触れ、常磐はゆったりと首を傾げた。唇の端をつり上げて微かに笑む。薄汚れた塀という背景がいやによく似合う、どこか退廃的な笑み。スチールデスクは似合いもしないくせに。
「恐らく」
「誰だ」
「さっき教えたでしょう」
「さっき?」
 常磐の話に興味を持っているようでいて、彼の顔を見もしない。いつ斬りかかろうかと、その間合いだけを考えている。高度な戦法――ではない。ただ、一つのことしか考えられなくなっているだけだ。
 椎名はそれを眺めている。そして、あの公園での一幕を思い返している。
 目の前で繰り広げられる情景は、あの一幕を忠実になぞっていた。ナイフを持って滅茶苦茶に斬りかかる死者と、対峙する「葬儀屋」の男。濱島が襲っている相手こそ違うが、そこに大した意味はないだろう。それは常磐が仕組んだことだ。
 足を動かさない。どうにかこちら側に留まっている。それはまだ、椎名に意志というものが残っているからだろう。
 動けばそのまま、自分も濱島の側に堕ちそうだという漠然とした不安だけがあった。
 濱島が今、あのときのことを憶えているかどうかは判らない。だが少なくとも、あのとき――常磐のあの笑みを見た瞬間、彼に亀裂が入ったのは明らかだった。それも、正気に引き戻す方向ではなく、狂気に突き落とす方向に。
 彼はその罅から逃れようとした。だから逃げだした。
 けれど、逃げ出した理由さえ忘れた状態で――彼はまた、常磐に捕捉されたのだ。
 濱島が常磐に斬りかかったのは、本能的な恐怖からだっただろう。あの男はどこか、そんな恐怖を呼び起こす雰囲気を持っている。数えきれないほどの意味を持つ微笑のうちの一つが、その不安感を煽ってしまった。
 もうそんな恐怖など、忘れているのだろうけれど。
 ただ、眼の前の常磐を斬り殺したいだけになっているのだろうけれど。
 不幸なものだと、濱島貴司に同情した。
 濱島貴司はいま壊れているのだ。
 それなら。
 ――確実に斬り捨てられる。
 椎名の奥深くで、その言葉が首をもたげた。
 更にひと押し揺るがせる。それだけで良い。少なくとも常磐はそのつもりなのだ。だから目配せを寄越した。
 ――今なら奴は本気だ。
 策には乗ってやるのが、相棒の務めというものだろう。
 ――今なら愉しめルだロウ。
 濱島ではなく腰の刀を眺めている自分に気がついて、椎名は舌打ちをしながら無理矢理に顔を上げた。不機嫌を装って「衝動」をごまかしたつもりだったが、それさえ巧くいかなかった。無視しようとすればするほど、快楽を求める「衝動」がせりあがってくる。
 意識は刀に向けたまま、椎名は再び、意識的にゆっくりと呟いた。
「――矢田明」
 濱島が訝しげに振り向いた。その眼の淀みに椎名は自分を見た。一瞬身構えたが、なにも起こりはしなかった。
 矢田明。濱島貴司の婚約者の元恋人にして、彼女を犯した男。
 生前の彼が最も強烈に記憶していたはずの名だ。それにしては、反応が鈍すぎた。ただ声が聞こえたから振り向いたのだと言わんばかりの態度で、胡乱な眼をしてこちらを見ている。先程見せたはずの、あの鋭い反応はどこへ行ったのか。
 自分が殺そうとした相手の名でさえ、どうでも良くなってしまう。
 それが、影になるということなのだろう。
 ――俺もそうなるんだろうか。
 まもなく興味をなくしてこちらに背を向けかけた濱島に、椎名は再び声を投げた。
「水倉梨乃」
 婚約者の名で駄目押しをしたつもりだったがその反応も鈍い。もはや椎名など興味の対象でさえないのか、濱島はそのままこちらに背を向け、再び常磐を斬りつけはじめた。その行動が決定的だった。
 ――哀しい奴だ。
 そう思った自分が酷く意外だった。
 濱島貴司の後ろ姿を見る。機械じみた動きと獣じみた執念深さで、濱島はナイフを遣っている。けれどよく見てみれば、刃の先ははっきりと乱れていた。それだけ、彼の内部は崩れているのだろう。壊したのは、椎名の口にした二つの名か――否、常磐の語りのほうだ。
 今の椎名は傍観者だ。普段なら、常磐が立っているはずの場所に居る。
 椎名はゆっくりと、刀の柄を摑んだ。濱島から眼を離さずに抜刀しても、相手はこちらに視線さえ向けない。ただ常磐がちらりとこちらを見たのは見えた。微笑を浮かべたのかどうか、それは判らない。椎名が見ようとしなかっただけなのかもしれない。
 目の前で繰り広げられている攻防は、公園での一戦よりもよほど苛烈だ。けれど今の椎名には恐ろしく単調に映った。椎名の意識はあのときよりもずっと凪いでいて、濱島はあのときよりも余計に均衡を欠いている。
 濱島貴司の、ナイフを握った右手の指が――じわりと、闇に浸食されたのを見た。
 ――殺セ。
「衝動」が一言、命令を下す。
「――同情するよ」
 椎名は「椎名」のままで一言呟いて、そのまま地面を蹴った。
 常磐が心得たように微笑して、一歩飛び退いた。更に二三歩後退する。それだけを視界の隅に見て、死者の背後に回りこむ。身体を低くして、薄い背中をちらりと見上げる。常磐を追おうと振り上げた腕は既に黒い。踏みこんだ左足を、湧きあがる暗闇が溶かそうとする。吐き気がした。背中に刃を向ける。眼を細める。
 自身の異変に気づかないままナイフを振り下ろそうとした濱島の――その胸を、斜め下から白い刀身が貫いた。
 死者は硬直した。
 串刺しになった胸を不思議そうに見下ろす。胸から生えた白い刀。べっとりと絡みついた血と、コールタール状の影。
 こちらを振り向きかけた横顔は黒く染まっていた。それに気づかないふりをして、立ち上がりながら乱暴に刀を引きぬく。人形のように揺れる背中を見下ろし、更に袈裟掛けに斬りつけた。手に斬殺の感触。深く斬り裂いた背中から血が噴き出した。
 血で放物線を描きながら、濱島貴司がうつ伏せに倒れていく。
 飛び出しそうなほどに見開いた眼が、椎名を掠めたような気がした。その眼に映った自分は――たぶん笑みを浮かべていただろうと、自覚している。唇に浮かんでいるのは歪んだ笑みだ。手に残った感触を、快感であるとはっきり認識している。先刻異常に速い動きをした自分は「衝動」のほうにすり替わっていたのだろうと今更のように振り返りながら、どこかで安心してもいた。
 どさりと重い音を立てて、濱島貴司だった魂は崩れ落ちた。身体の半分をコールタールに染めて。
 狭い空は青かった。
 椎名は抜き身の刀を提げている。望み通りの殺戮を得た「衝動」が、自分の奥深くに沈んでいくのを感じている。
 黒と赤の混じりあった死者の死体は、まもなく、空気に侵されるようにして消えた。
 ――後に残ったのは、喪服の死者が二人きり。
「お疲れさまです」
 呼吸一つ乱さない平静さで、常磐が穏やかに声をかけてきた。死者を説き伏せたときも、始末したときも、この男は同じ口調で労ってくる。
 椎名は相棒より先に刀を見た。刃にこびりついていた濱島貴司の残骸が消えていることを確認し、黙って鞘に納める。改めて顔を上げると、一仕事終えたあととは思えないような表情の横顔が見えた。視線の先には十数秒前まで濱島貴司が在ったはずだが、特に濱島に感慨を抱いているというわけでもないだろう。ただそうして眼を休めているだけのようだった。
 道幅は狭いが、椎名と常磐との距離は遠かった。
 普段なら気にもしないはずの沈黙に耐えかねて、椎名はぽつりと呟いた。
「わざとやったんだろ」
「なにをです」
 間髪いれずに返答。椎名はわずかに逡巡してから、また呟いた。
「あんた、自分からあいつの相手を買って出たようだったが」
 視線は革靴の爪先ばかりに向いていた。
「初めから俺に始末させるつもりだったんだな」
 常磐はなにも言わない。ただ、微かに音を立てて、靴をこちらに向けたのは聞こえた。磨き上げられた黒い革靴が、視界の隅に侵入してくる。それに視線をやる。
「あの男を追いつめて、俺に始末させる」
「それがいちばん効率の良いやりかたですからね」
 特に感慨もない涼しい声で、常磐はそれだけを言った。出勤前からそのつもりでしたよ。自分は手を汚さないと言わんばかりの言葉に苛立つが、そのお陰で「衝動」を満たすことができたのだから文句は言えまい。椎名は、殺したいと――思っているのだから。
 否。常磐が椎名の「衝動」を考慮していたわけがない。彼はただ、最も効率的で効果的な方法を求めただけだ。――濱島と出会って言葉を交わし、彼が壊れかけていることを察した。しかし同時に椎名も揺らいだため、一度間を置いた。そして二度目の邂逅で、死者の最も弱い部分を突き崩しにかかった。それだけのことだ。
 ――それだけだろうか?
 椎名は自問する。
 濱島と出会った瞬間に銃を抜くこともできたはずだ。常磐がそれをしなかったのはなぜだろう。
 顔を上げると、常磐と真正面から眼が合った。
 冗談のように整いすぎた顔立ちに一瞬だけ怯み、それでも椎名は無理に口を開く。
「あんた、東雲さんの言ったこと忘れたか?」
「憶えていますよ」
 常磐は唇だけで笑う。あまりに自然すぎて、逆にとってつけたように見える笑みだった。
「さして意味を持たないというだけです」
 ――さして意味を持たない。
 その言葉を反芻し、それはそうだろう、と奇妙に納得する。思えばそれがいちばん納得のいく答えだった。始末件数が多ければ、常磐との組を解消するなどと――直に宣告された椎名でさえ、全く意味を見出せなかった「罰」だ。まして常磐にとっての椎名など、今まで何人も組んできた相棒たちのうちの一人に過ぎない存在だろう。その椎名が去ろうが残ろうが、彼は痛くも痒くもないに違いなかった。
 椎名は薄く笑みを漏らした。奇妙な安心感がこみ上げてくる。自分の存在が大した重みを持っていないという事実は、今の椎名を酷く落ち着かせた。これもある種の自意識過剰なのだろうか。
 油断した隙間から、ふっと言葉が零れた。
「悪いな」
 常磐が微かに眉を動かした。それでようやく、時が止まっていなかったのだということを知る。流石の彼にも意外な台詞だったらしいと察し、場違いにも愉快に思う。
「珍しいことを」
 返ってきたのは、予想外に素直な感情の発露だった。素直な言葉には素直な言葉が返ってくるというのは本当らしい。
「あんたの計画、狂わせたんじゃないかと思ってな」
 出した呟きを引っこめるわけにもいかず、椎名はそのまま言葉を押しだした。逡巡はしたが、口にしたのは本心だった。
 椎名がおかしな崩壊をしかけなければ、一刀両断にするだけで済んだはずの魂だった。さっさと始末しようと、そう打ち合わせたはずだったのに。濱島を途中で一度泳がせざるを得なかったことといい、どう考えても時間をかけすぎていた。
 身体の中を、現世の風が吹きすぎる。
 常磐は唇の端に、拍子抜けしたとでも言いたげな微苦笑を浮かべた。
「そんなことですか」
 黙ったまま、椎名は肩を竦めて応える。そんなことをわざわざ口にした自分も可笑しかった。
「構いませんよ。いずれすぐにお別れですからね、東雲さんの言葉に従うならば」
「……あんたの真似はできそうにないな」
 そこで舌打ちではなく苦笑が出たのは、ただ疲れていただけなのかもしれない。――なにに対して?
「僕の真似、ですか」
 小首を傾げる常磐からわざと視線を逸らした。コンクリートの塀の隙間に、緑の雑草が伸びている。アスファルトを見下ろすと蒲公英が咲いていた。薄汚れた塀の向こうには小さな家が並んでいて、平凡な家族が生を重ねているのだろう。
 馬鹿馬鹿しくなるくらい平和な日常風景だった。
「俺はあんたほど、自分を晒したり隠したりすることに長けてないよ」
 そういう意味では自分はまっすぐな人間なのだろうと、ひねくれたことを考えた。自分を晒すことに長けていないから、周りの人間を遠ざけもする。隠すことに長けていないから、「衝動」に身を委ねもする。
 濱島貴司の無表情を思い出した。ある意味あれと同じだ。晒すことも隠すこともできなくなってしまった、螺子の外れた自動人形。
「貴方がすべきなのは、僕の真似などではなく」
 常磐はそこで言葉を切って、そうですね、と芝居がかった独り言を挟んだ。椎名はアスファルトを見ている。なのに、常磐の視線をはっきりと感じていた。
「自分自身の飼い慣らしでしょう」
 飼い慣らし。自分自身を、自分で持て余している――。図星をさされた不快感が、ざわりと喉を撫でた。
 飼い慣らすとはどういうことだろう。全て受け入れて、身を委ねてしまえとでもいうのか。それとも、始末などしないように言いくるめてしまえということだろうか。
 そのどちらもできていないから、この有様なのだ。
 少なくとも、自分が無意識に振り回されているということは疑いようのない事実である。それだけは、真実だ。
 椎名は蒲公英を睨みつけている。無数の花弁がざわざわと蠢いているようで不気味だった。
「他人より自分の面倒見ろってか」
 嫌味な口調で言ったつもりが、声には力がなかった。
 常磐はくすりと笑った。
「大抵の人間はそうです。――さて」
 そこで言葉を切った常磐は、謎めいた台詞回しなど忘れてしまったかのような穏やかさで一呼吸を入れた。
「戻りますか」
 肩の緊張感を抜けないままで、椎名は黙って頷いた。少し視線を上げたが、常磐の顔を真正面から見ることは無意識のうちに避けていた。埃一つない漆黒のジャケットと、きちんと結ばれた形の良いネクタイだけが見える。
「僕らは、僕らに割りあてられた仕事をするまでですよ。それが組織の歯車というものでしょう」
 椎名の無意識を読んででもいるのか、常磐は思わせぶりな言葉を口にした。穏やかすぎる表情よりも、そんな言葉のほうがよほど信頼できる。少なくとも常磐の場合はそうだ。謎めいた言葉が真実で、解りやすい言葉は虚飾。歩く矛盾め、と、椎名はひっそりと芸のない毒を吐いた。吐きながら、常磐の言葉を咀嚼する。
 口を開こうとしたが、やめた。
 代わりに目を閉じ、深く溜息をつく。
 自分の求めるものと、組織から求められているものが一致しているのなら、それを行うことが理にかなっているというものだ。それが例え、どんなに倫理に反した行為であったとしても。
 自分はカウンセラーにはなれない。所詮、暗殺者側の「葬儀屋」だ。それならそれで、自分に与えられた役目を究めるというのも、ひとつのプロフェッショナルの在りかただろう。
 思えばこれが、最初の諦観だった。
 眼を開けて見あげた空は、いやに眩しく馬鹿に高かった。
「さて、貴方と仕事ができるのはあと何回ですかね」
「……東雲さんに訊けよ」
 常磐の軽口にうんざりと答えながら、頭ではもう班室を思い描いている。
 現世をあとにする前に、椎名はもう一度アスファルトを一瞥した。
 濱島貴司の痕跡は、もうどこにも存在していなかった。

――了


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