だだっ広い公園の、人通りの少ない一角にその男は居た。 木陰に隠れるようにジーンズの片膝をつき、胡乱な眼で虚空を眺めている。写真と同じ眼つきだ、というのが第一印象だった。どこを見ているのか判らない眼だ。普通にしていれば優しげな顔だちをしているのに、もったいないことをする。 椎名はちらりと常磐を見た。斜め前に立つ相棒の左肩が見える。彼はどんな言葉からこの仕事を始めるつもりなのだろう。――こんにちは。何気ない風を装った挨拶。――濱島貴司さんですね。名を知っているという威圧。――良い天気ですね。雑談に紛れた様子見。――なにをされているんですか。精神状態を探る質問。どれもこれも、今まで常磐が、あるいは椎名が使ってきた第一声だ。 快晴の青い空。芝生の向こうで老人が犬を散歩させている。初夏の日差しの中を鳩が飛んでいる。死者の立つ一角だけが重苦しい。 赤縁の眼鏡。ジーンズと紺色のTシャツ。レザースニーカー。その右手にサバイバルナイフが握られていることを、椎名は確かに認めた。同僚を斬り殺した刃物。ひとごろしの、道具。殺すための。 それを意識した瞬間、自分のどこかが確かに脈打った。 常磐の黒い革靴が、芝生の上にゆっくりと一歩を踏み出した。 目の前に座る優男が、大儀そうに顔を上げる。眼を細めて常磐を見、そして――椎名を見た。暗い眼で。 ざわり、と脈打った。 ――殺せ。 反射的に腰の刀の柄を握った。抜刀した白い刀身に自分の紅い眼が映っているのが見えた気がした。常磐の横をすり抜けると同時に濱島が眼を見開いて素早く立ちあがった。片足を踏みだす。――ざわり。楽な仕事だ。「衝動」を抑えつけずに済む。相手がナイフを掲げた。――ざわり。刃の向こうに淀んだ眼が見えた。「衝動」に堕ちかけていた意識はその瞬間、確かに戦慄した。恐怖した。 ――俺と同じ眼だ。 だから殺さなければと思った。 「椎名」 常磐の声は無視した。見ているのは相手の眼と、二つの刃物だけ。 振り下ろした刀は避けられた。刀身を潜り抜けて突きだされたナイフを刀で弾く。後ろに下がった。一歩。二歩。どちらかの舌打ちが聞こえる。間髪いれずに再びナイフ。身体をずらして刃を避ける。眼を見開いて刀を構え、袈裟掛けに斬り下ろそうとした瞬間に理性が叫んだ――やめろ! 微かな金属音、で、我に返る――そして、不気味な沈黙が残った。 しているはずのない息を乱していたのも、刀を振るうことを躊躇したのも、中途半端な力しか入れられなかったのも、椎名のほうだった。そうでなければ片手に握ったサバイバルナイフなどに刀が止められるものか。自分が刀の扱いに長けているというつもりも自分が強いなどと けれど、震えているのは椎名のほうだ。 刀身が、サバイバルナイフとかちあって微かに音を立てている。 椎名は相手を見下ろしている。相手は虚ろな眼で椎名を見上げている。値踏みされているかのような嫌な感覚。自分と、同じ種類の眼差しに。 だから「衝動」は殺そうとした。 だから理性は制止した。 「退きなさい、椎名」 常磐は歩みよりもせず、ただ短く言った。厳しくはないが、有無を言わせぬ口調だった。 椎名が反応するより早く、濱島貴司がナイフの下から怪訝そうに口を開く。 「……死神?」 眼は虚ろだったが言葉はしっかりしていた。 一般人と同じ、純粋な疑問の言葉だ。「葬儀屋」に出会った死者の何割かが発する疑問。目の前のこの男はただの死人なのだと、その事実を今更のように咀嚼する。 問いには答えずゆっくりと刀を持ちあげ、慎重に下ろす。抜き身のまま、鞘に納めることはしなかった。濱島はその椎名を眺め、刀を眺め、それから常磐を見る。常磐が腰に銀色の銃を携えていることに気づいたかどうかは判らなかった。 「眼が紅い」 首を傾げ、死者は独り言のように続ける。外見よりもそっけない言葉遣いだった。もともとそうなのだろうか。それとも、どこかが壊れた結果こうなってしまったのだろうか。 「死神のくせに喪服なんて、皮肉?」 「なんとでも言え」 吐き捨てた言葉はいつもと同じ調子に戻っていた。それに少しだけ安心し、悟られないように冷や汗を拭う。二歩、三歩、後ろに下がった。常磐の無表情がこちらを向いている。どちらかといえば非難がましい無表情だった。それに気づかないふりをして更に後退し、常磐と並ぶ。気づけば随分相棒と離れてしまっていたようだった。椎名はちらりと常磐に視線をやったが、彼はもう椎名になど興味をなくしたかのように濱島を見つめていた。 常磐が、紅い眼を細める。 「随分と物騒なものをお持ちですね」 濱島は常磐を見た。それから右手を軽く上げて、手に握ったナイフをつまらなさそうに眺める。不良少年のような眼差しは、二十八歳という年齢にはそぐわなかった。書類にあった写真と比べても、既に違う眼をしてしまっている。こうして彼は退化していくのだろう、と、ぼんやりと思う。あの眼を見るかぎり、彼が壊れはじめているのは明らかだ。ある感情に凝り固まった魂は、次第にヒトとしての姿を失い、最終的には、感情の塊――影と化す。そこまで至ってしまえば、もうどうすることもできない。 影にさせないことも、影を始末することも、影になりそうな魂を処理することも――どれも「葬儀屋」の仕事だった。 濱島が顔を上げた。 「僕がナニを持ってようが僕の勝手だろう」 硝子玉のような眼だった。 対峙する常磐も能面のような無表情。そういえばこの男の眼も硝子玉だ、と場違いに呑気なことを思った。 陽光の射す芝生。ベビーカーを押す若い母親。現世の平和な風景とは裏腹に、死者の空気だけが淀んでいる。死者だけがナイフを持ち、刀を提げ、銃を携えていた。 常磐の唇が動いた。 「なぜそんなモノをお持ちなのです」 「殺すためさ」 「誰を」 畳みかけられ、濱島は口を 視線は斜め上を泳いでいる。忘れてしまったなにかを、理性がそうして思いだそうとしているのかもしれない。 「さあ……どうだったかな」 「矢田明」 椎名は低い声でそう言った。 濱島の眼がこちらを向く。 「違うか? あんたの婚約者を壊した男の――」 言いきる前にナイフが閃いた。 反射的に身体を逸らし、刀でナイフを弾く。金属音。再び斜めに振るった刀身の脇を潜り抜け、腕を伸ばした濱島が真っ直ぐに椎名の首元に刃を振り下ろす。身を翻して濱島の真横につき、――椎名はその首筋にぴたりと日本刀をあてた。 驚愕も恐怖もなく、濱島は凶器を突きだしたままの姿勢で静止している。それを斜め上から見下ろしながら、椎名は不謹慎にも感心し、また納得してもいた。――なるほど、これじゃ殺られるわけだ。 普通の「葬儀屋」は、死者が錯乱することは想定していたとしても、武器まで持って襲ってくることなど思いもしない。始末の経験などあるかどうかも怪しい二人組では、濱島貴司を相手取るには少々分が悪すぎただろう。これは、濱島の危険性を明記しなかった情報局の手落ちなのだろうか。それとも、初めから彼を始末要員たる椎名や常磐に振らなかった東雲の責任なのだろうか。 ――葛城も朽葉も、気の毒なことをしました。 常磐の台詞が蘇った。 「忘れたよ」 首筋の冷たさなど感じてもいないような口調で、濱島は呟いた。視線を自分のナイフの切先に固定したままで。案外本当に、ナイフの切れ味にしか興味がないのかもしれない。 ――忘れた、か。 それならまだ、矢田明の名は記憶にあるということだ。たぶん、婚約者の名も。 ――こいつはまだ人間だ。 限りなく影に近い場所に居ながら、少なくともまだ影になってはいない。そういう意味でも、椎名と濱島は同じ種類の死人なのかもしれなかった。 ――近すぎて嫌になる。 ともすれば力をこめてしまいそうになる刀に、理性が辛うじて歯止めをかけていた。 「今日は随分と悠長にしていますね」 影のように佇んだままで常磐が言った。この相棒は、現世に来てからほとんど動いていないのではないだろうか。 自分に向けた言葉か、と思ったがそうではなかった。 「葛城と朽葉は、比較的すぐに殺されたと聞きましたが」 同僚の死をここまで無機的に扱える者も珍しい。 「……別に」 ナイフばかりを硝子の眼で眺めながら呟く。微動だにしないまま。 「意味なんか」 「自分と同じ種類の人間が、そんなに珍しいですか」 瞬間、濱島は眼を見開いた。刃が首に食いこむのも構わず振り返る。思わず刀を引いた。椎名がバランスを崩したことにも気づかず、濱島は常磐を凝視する。その首に、細い血の筋が滲んでいるのが見えた。 濱島が初めて表情を変えた。それは驚愕と嫌悪の表情だった。 常磐は表情を変えない。相変わらずの、人形のように整いすぎた無表情。 その表情を、常磐は不意に崩した。流麗な曲線を描いて、唇だけでつう、と笑う。――ぞっ、とした。 濱島が顔をこわばらせる。 時間が凍りついた。 常磐は唇だけの微笑で相手を眺めている。 濱島は――不意に 「あ、おい待て――」 「放っておきなさい」 予想外にはっきりとした声。振り返ると、影法師が濱島の背中を眼だけで追っていた。視線を濱島に戻す。Tシャツの背中がどんどん小さくなる。 唇を結び、刀の柄を握りしめた。いつの間にか臨戦態勢をとっていたことに、そのとき気がついた。 「逃がす気か」 「今のまま続けても仕事になりません――頭を冷やしなさい」 言って常磐は、椎名を見た。不気味な笑みを拭いさったあとの能面。射すくめられたような気分になって思わず息を呑む。 「混乱しているのは貴方のほうです」 常磐の革靴が、少し角度を変えた。抜き身の日本刀を提げた椎名と、 「……俺が?」 「違いますか」 静かに問われ、椎名は眼を逸らした。 ――混乱しているのは貴方のほうです。 そうかもしれない、と、思ったよりも素直にその言葉を受けいれた。そんな自分を意外に思いはしたが、実際のところ、受け入れる以外に道はない。 濱島は自分と同じ眼をしていた。過剰反応をしたのは自分のほうだ。濱島貴司はたぶん、自分と椎名が同じ種類の「衝動」を抱えているなどとは夢にも思っていなかっただろう。ただ彼は、自分の目的に忠実であっただけ。他のことは見えていない。例え目的が、欲望と化す寸前であったとしても。 ――「衝動」。 椎名は日本刀に眼を落とした。 普通「葬儀屋」が持つ得物は、銃だ。常磐も東雲も銃である。たぶん、葛城や朽葉もそうだっただろう。そして、警察官の短銃程度の意味しか持っていない。常磐の銃はもっと深い意味を持っているのかもしれないが、銃であることに変わりはない。所詮は殺した感触が残らない、飛び道具の一にすぎない。 椎名は刀だった。 しかも、殺し屋の凶器に匹敵する刀だった。 なぜなのかは知らない。「葬儀屋」として眼を覚ましたとき、椎名は当たり前のように、刀を身に帯びていた。ワイシャツと、黒いジャケットとスラックス、黒い革靴、黒いネクタイ。そして刀。それからずっと、銘もない日本刀が彼の「相棒」である。銃ではなく刀を帯びて現れた椎名を、常磐も初めのうちは少し訝っていたようだったが、しばらくしてから気がついた。 この刀は、椎名の持つ殺人衝動の象徴だ。 ――だから、始末を求めもする。 殺人を求めているのは椎名なのだろうか。それとも、椎名から消された生前の記憶のほうなのだろうか。 ――どちらでも同じことだ。 事実、椎名は始末を重ね、上司から注意を受け、同僚から避けられる程度の存在にはなり下がっている。椎名が今まで手にかけた魂の中には、始末することでしか処理のできなかった者も、始末せずとも処理ができたはずの者も居た。 自分は人殺しなのだ、と、自覚している。異常なのだろう、とも。環境のせいにするつもりはないが、殺人衝動を抱えながら、それを許容してしまう職場に居るというのも問題なのかもしれない。仕事をする限り、「衝動」は簡単に満たされてしまう。だからまた求めてしまう。血の色を。 だから。 人殺しを企てながらそれに失敗し、その感情に喰われかけている濱島貴司と――同じ眼をしていると自覚している。 自覚していたとて、状況は変わらない。変える気もない。 ――どうしようもなく、性質が悪い。 刀を眺める。角度のせいか、刀身に自分の顔は映らない。ただ芝生の緑色を映しているだけだ。 思い出したように、刀を鞘に収める。常磐はそれを見て、微かに表情を和らげた。 「頼りにしているんですから、しっかりしてくださいよ」 「言ってろ」 「冗談だとでも?」 「違うのか?」 問い返すと、常磐は肩を竦めて笑った。 「始末云々を抜きにしても、濱島貴司を僕らに振った東雲さんの選択は正しかったように思います」 椎名は口を開かずじっと常磐を見つめた。穏やかな微笑を浮かべた顔。黙っていれば整った顔立ちであることには間違いないのだが、 常磐は、午後の陽射しのように穏やかな表情をしている。 根負けして、問うた。 「……どういう意味だ」 「似た者同士というのは、こういう仕事をするには便利なものですから」 死者が自分を相対化する触媒として――。 俺は道具かよ、と吐き出しただけで、椎名は続ける言葉を失った。もとよりこの男と会話をするのは苦手だ。どう考えても椎名のほうが不利である。見透かされるような、表情のない紅い眼が――苦手だった。 「始末せずに還すつもりか?」 強引に話を変え、常磐の眼を見ずに問うた。視線は足許の革靴。黒い革靴が、緑の芝を踏んでいる。この足の下で草はどうなっているのだろう。潰されている道理はあるまい。椎名は、現世には居ない者なのだ。眼を凝らせば、革靴から草が突きぬけて生えているのだろうか。しかし残念ながら、そこまで長い草はここには生えていないようだった。 「できることならそれがいちばん良いのですが。……どうでしょうね。あの眼を見る限り、今がちょうど境界線上です。始末しかない、というレベルではないとしか」 境界線。 殺すか、殺さないかの。 ――あんたは殺したいのか? 殺したくないのか? その質問は呑みこんで、代わりに別の問いを投げた。唐突に湧いて出た問いだった。 「あんた、俺と組まされる前どんな仕事してたんだ」 「どんな、とは」 常磐にとっても予想外の質問であったはずだが、問い返す声音は普段と変わらない。結局顔を上げたのは、椎名のほうだった。少しだけ首を傾げているのが、変化といえば変化なのだろうか。 「文字通りだよ。俺と組まされる前の相棒と、どんな仕事してたんだ」 「なんです、藪から棒に」 微苦笑を浮かべながら、つと視線を斜め上に上げる。ごく自然な仕草でもどことなく芝居がかっていて、それが妙に癇に障る。けれど彼の視線はすぐに椎名に戻ってきた。 「今と同じですよ。言葉、ときどき、銃」 ――言葉で死者を輪廻に還す。 ――銃で死者を始末する。 「そのわりにしっかり始末要員みたいだが」 皮肉交じりに呟くと、常磐はゆっくりと一度瞬きをし、それから苦笑した。 「それを貴方に言われるとは、僕も堕ちましたかね」 「よく言うぜ」 「無関心が過ぎるんですよ、僕は」 自分のことにも関心がないかのような口調で、常磐はそんなことを言った。 椎名を真っ直ぐに見据えていた硝子の眼が、少しだけ下を向いている。磨きあげられた革靴の爪先に、彼もなにかを見るということがあるのだろうか。 「無関心、ね」 その言葉を繰り返しながら、椎名は刀の柄に手を触れた。 自分とは正反対のベクトルだ、と思った。 常磐は誰にも関心がないから――始末であろうと、説き伏せであろうと、さして意味の違いを感じないのだろう。だから平気で素通りする。言葉を使っても、銃を使っても、同じこと。 椎名は違う。始末に意味を見出している。始末を素通りすることはできない。 自分も常磐も病なのかもしれないと、思った。 ――こいつ、なんなんだ。 密やかに舌打ちをした。厭になる。徹底的に似た者同士だらけの仕事だ。この調子ではすぐに自家中毒を起こしてしまう。 「追いますか」 椎名の胸中を見透かしたかのようなタイミングで、常磐が声をかけてきた。浮かべているのは、デスクに着いているときと変わらない微笑。 椎名は少しだけ肩をこわばらせた。しかしすぐに力を抜いた。 代わりに深く溜息をつく。 「ああ」 「濱島貴司の許に」 「了解」 短い言葉だけを交わすと、どちらからともなく眼を閉じた。長閑な公園の風景が消える。濱島貴司という人間自体を心に念じると同時――意識がぐいと遠ざかった。 |