葬儀屋
「壊れた鏡」

上、


 執務室の扉をノックする前に、椎名は手にした書類に眼を走らせた。請けた十件のうち、始末を行ったのが五件。前回のときは七件あったから、減っているといえば減っているはずだ。無論、他の組と比べると群を抜いて多いことに変わりはなかったが。
 ――東雲[しののめ]はなんと言うだろう。
 警官めいたいかつい顔を思い浮かべながら今更のように思ったが、仕事が済んでしまってから考えたところでどうしようもない。後悔先に立たず。踏みとどまるなら仕事前にすべきだったのだ。あるいは仕事中に。
 十件中五件。始末率五十パーセント。
 少なくとも、上司の眉を[ひそ]めさせるには十分な数字だった。
 けれどこれは自分だけのせいではない、と、心中で言い訳がましく呟いてみる。回される仕事自体にそもそも問題があるのだ。全体的に見れば、上から直々に「始末せよ」と言われるような案件は極端に少ないというのに、それが毎日のように回ってくるという椎名の状態こそがどうかしている。それは管理局のお偉方の意向なのか、それとも情報局の意向なのか、あるいは上司の意向なのか。――考えても詮無いことだ。
 諦めてノックをする。聞き慣れた低い声が「どうぞ」と言うのを聞いてから、椎名は執務室の扉を開けた。
「失礼します」
 軽く頭を下げて中に入る。顔を上げると、大きな窓の前に据えられたデスクに東雲が座っていた。彼の相棒の姿は見えない。一人しか居ないようだ。
 無精髭を生やした四角い顔が、ちらりと椎名を見た。
「椎名か」
「終わった仕事持ってきました」
 書棚の脇を通りすぎてデスクに歩み寄る。東雲は立ち上がって、椎名が差し出した書類をデスク越しに受け取った。座らずにそのままの姿勢で、十部の書類に眼を通す。鋭い眼と、喪服の似合わない堂々たる体躯。ただし彼は絶対に、座ったままの状態では椎名と対峙しようとしなかった。長身の椎名に少しでも見下ろされるのが嫌なのだろう、と、相棒が涼しい顔でそんな分析をしていたことを思い出す。この上司は意外にプライドが高いらしい、と思いながら、椎名は無言で佇んでいる。それもまたいつものことだった。
 時間を持て余し、意味もなく部屋のあちこちに視線をやる。壁を埋め尽くした書棚は、相変わらずそこはかとない圧迫感を漂わせている。中に詰まっているファイルはどれも漆黒なのだから尚更だ。執務室が苦手なのは、この圧迫感のせいもあるのかもしれない。例え大きな窓があったところで、部屋の主が背負っているのだから解放感に乏しいことには変わりない。逆光は、どちらかといえば圧迫感を助長するものだ。
 しかつめらしい顔で、東雲はやがて一言呟いた。
「五件か」
 ――やはりそこか。
「五件ですね」
 東雲に視線を戻して言うと、彼はやや呆れたような視線でこちらを見た。
「他人事みたいに言うんだな。自分の状況解ってるのか?」
「一応は」
 呟くように答えたが、そのあとに続く台詞は呑みこんだ。――状況を理解するということと、状況改善に努めるということは、必ずしもイコールではない。
 上司は眉を顰めた。予想通りの表情で。
「君たちの仕事のやりように問題があるというのは、私も言った記憶があるのだが」
「殺しすぎる、でしょう」
 言われる前に言葉を引き取ると、今度は溜息をつかれた。左手に書類を持ったまま、上司は右手でぼりぼりと後頭部を搔く。
「解ってるならなんとかしてくれ。私だって頭が痛いんだ」
「……すみません」
 形だけの謝罪を口にする。謝罪自体は本心から出たものであったが、この謝罪に意味がないということは、椎名自身がいちばん良く知っていた。そしてたぶん、東雲も同程度に。
 スラックスのベルトにそっと手をやった。仕事に出かけるたびにそこに捻じこむ日本刀は、今はそこにない。班室の自分の席に置いてきた。短い時間であっても刀を手放すことができるということは、自分はそれほど壊れていないということだ――まだ。
 椎名の持ちこんだ書類を簡単に確認し終えると、東雲は、デスクの隅に束を置いた。それから抽斗を開け、別の束を取り出す。書類をまとめたクリップに、「常磐・椎名」と書いた紙が挟んであった。見慣れた東雲の文字は、外見に似合わず丸い。否、見慣れた丸い字よりも、いちばん上の書類に真っ赤な印が[]してあることが気になった。――その印もまた、幸か不幸か見慣れたものだ。
 書類を受け取ろうと手を差し出したが、案に反して、東雲は新しい束をじっと見つめつづけていた。――眉間に皺。そんな顔をしていると、何歳も老けたように見える。外見年齢は椎名の相棒とさして変わらないように思うのだが、こんなときにふとキャリアの差を実感する。常磐と東雲では、東雲のほうがキャリアは倍も長いはずだ。姿かたちは変わらなくても、過ぎた時間は魂に確実に刻みこまれていくものらしい。
 やがて東雲は、渋い顔をしてこちらを見据えた。椎名は手をおろし、ぼんやりと上司の眼を見返した。東雲が少し見上げ、椎名が少し見下ろす、そんな位置関係。
「その『始末』のことなんだが」
「はい」
「お偉方からお達しが来たよ」
「はあ」
「始末件数が三分の一を超えたら、組を解消せよと」
「……は?」
 思わず問い返す。
 東雲は手にした書類に視線を落とした。
「だから、組の解消だよ。君と常磐のね。次に渡す仕事の三分の一を超えたらだ」
 理由など言わなくても解るだろう、と言いたげな投げやりな口調だった。確かに心当たりがないわけではなかったが、それにしても唐突な話だ。
「急な話ですね」
 思った通りを口にすると、東雲は溜息交じりに書類をめくった。
「私にしてみれば、今まで目溢しされていたのが不思議なくらいなんだが」
 ――目溢し。
 それは適切な言いかたではないだろうと思ったが、口には出さなかった。
 ただ、組の解消というのはどうなのだろう。あのいけ好かない相棒の顔を見なくてもよくなるというのなら、椎名にとってはむしろ願ったり叶ったりだ。罰を用意したつもりなら弱すぎる。あるいは賞罰など関係なしに、ただ悟っただけなのかもしれない。――この二人を組ませておくのは危なすぎる、と。
「そういうことだから、できるだけ控えるように」
 言葉を濁した東雲に、椎名は黙ったままで軽く頭を下げた。はい、と口で答える自信はない。しかめ面でいつも以上に事務的な物言いをしている東雲とて、思いはたぶん同じなのだろう。
 三分の一。
 その数字が、例え椎名が努力したとて不可能な割合であることは、椎名同様に東雲も解っているはずだ。椎名本人に努力する気がないのだから、尚更絶望的な目標である。その上、三分の一を超えれば常磐と別れることができるときている。これは懲罰か? それとも褒賞か?
 東雲は立ったまま、書類を手にして窓を背負っている。カーテン越しの陽光が穏やかに射している。
 やがて上司は、書類の束を無造作に差し出してきた。
「さて、仕事だ」
 椎名は今度こそ両手で書類を受け取った。手にしてみると、赤い印に書かれた文字が嫌でも眼に入るようになる。
 ――始末許可。
 ――緊急。
 椎名は東雲を見た。東雲は無言で椅子に腰を下ろした。
「既に一組殺られているから注意しろ」
 上司は目を閉じて、そんなおざなりな注意だけを口にした。

 矛盾の話をしよう。
 どんなものでも突き破れるという矛と、どんなものでも突き通せないという盾の物語だ。両者は併存しえない。辻褄の合わないことを指して矛盾という。
 この職場にも似たような部分がある、と、椎名は常々思っていた。それはどうやら常磐も同じらしい。
「舌の根も乾かぬうちに、ですね」
 相棒は愉快そうに言って、書類をぱらぱらとめくった。端正な横顔は、いつもの微笑を湛えてデスクに向かっている。きちんと締めた黒のネクタイ。後ろで一つに束ねられた肩までの長髪。人形めいた顔だち。見れば見るほど思う――呆れるほどスチールデスクの似合わない男だ。
「余程嫌われていると見えます」
「そうだろうな」
 彼の隣のデスクに頬杖をつきながら、椎名は答える。
「始末件数を制限しておいて、始末の仕事ばかり回してくるとは」
 なにがおかしいのか、常磐は紙の束を弄びながらくすりと笑った。束のいちばん上にあった書類だ。始末許可の印だけではなく、緊急の印まで捺されたどうしようもない案件。それ以外は、椎名の前のデスクに鎮座している。
 椎名も溜息交じりに書類を眺める。写真が貼られ、名前や所属といったデータが細々と活字にされた個人情報の塊。履歴書然とした書類だが、書かれているのは志望動機や取得資格などではない。死亡状況や現世滞在理由が書かれたそれは、すっかり扱い慣れてしまった商売道具の一であった。目の前に積まれた山の中には、常磐の持つものの他にも「始末許可」の印が捺されたものがあるはずだ。恐らくは、三分の一を超える割合で。
 常軌を逸した件数だとは思う。普通は、「始末許可」の印など数か月に一度見るか見ないかであると聞く。最近はもっと減っているようだ。ほとんどが自分たちに回されているせいで。
「嫌われているのか、厭われているのか、あるいは頼られているのか」
 唄うような常磐の呟きに、椎名はまた、嫌そうに相棒を見た。椎名の視線に気づいてか、常磐はようやくこちらを向いてにっこりと笑う。
「どれも事実でしょう」
 返事の代わりに小さく舌打ちをする。常磐の言葉が正しいのであろうことは、椎名とて自覚しているのだ。
 ずらりと続いたデスク。普通のオフィスのような顔をして、その実、中に居るのは喪服の男女ばかりだった。黒のスーツに黒のネクタイ。スラックスとタイトスカート。髪も靴も漆黒。ただ、誰も彼も眼だけは血のように紅かった。
 ――世の中には、二種類の人間が居るという。
 ひとつは死後に未練を残さず輪廻に還る者であり、もうひとつは、未練を持って現世を彷徨いつづける者である。後者を幽霊と呼ぶ者も居るだろう。
 但し、死者が現世に関わりつづけることは許されない。それがため、彼らの未練を解きほぐし、輪廻に還す者が必要とされる。
「葬儀屋」と。
 彼らはそう名乗っている。
 喪服を着て死者の前に現れる、彼らもまた死者だった。
「頼りにされているなら悪い気持ちはしません」
「皮肉か」
「そう聞こえますか」
 少なくとも自嘲ではないだろう、と思った。
「ただ単に解りあえていないだけですよ、まだ――それより」
 恐ろしく白々しい台詞を吐いて、常磐は何事もなかったかのように話を変えた。華奢な指が、とんとん、と書類を示す。
「この書類は読みましたか」
「濱島貴司[たかし]二十八歳、復讐を遂げられないまま死んだ殺人衝動の塊」
 棒読みで答えると、常磐はにこりと笑って頷いた。いつもと同じ笑み。椎名は舌打ちをして相棒から視線を逸らす。脚を組みかえると、椅子が耳障りな音で軋んだ。
 ――濱島貴司、二十八歳。
 貼られた写真に写っていたのは、眼鏡をかけたごく平凡な優男だった。一見して気の弱そうな顔をしているが、そういう男ほど、一度自制が効かなくなると始末に負えないのだ。濱島の行状を見ているとそれを痛感させられる。婚約者が居ることくらいは外見から察することができても、この顔で人を殺そうと企てたなどということは判らない。
 彼が殺そうとしたのは、婚約者に暴行を加えた加害者だった。
 精神のバランスを崩した婚約者は、まだ立ち直ることができずにいる。彼女に代わって復讐を誓った濱島は、しかし、殺人計画を実行しにいこうとしたその道中、交通事故に遭いあっさりと死んでしまった。
 行き場のない怒りを抱えたまま、濱島貴司は恨みと殺意を原動力に現世に留まりつづけている。
 何度も読みこんだ書類の内容を反芻しながら、椎名は無言で椅子に背を預けている。そして他人事のように思っている。――殺意に理由があるうちは、まだ平和なのだ。
 ――犯された上に婚約者に死なれて、この女はこの先どうするのだろうか。
 仕事と関係のない場所で、椎名はそう考える。けれどそんな感慨はすぐに消えていった。
葛城[かつらぎ]も朽葉も、気の毒なことをしました」
 常磐が独り言のように呟くのが聞こえる。本心なのか演技なのか判然としない口調。例え本心であったところで、その口調が作り物めいていることは変わらなかったけれど。
 葛城は小太りだが愛嬌のある男だった。朽葉は小柄で敏捷な少年だった。いずれも、一度濱島の元に向かい、剝きだしの殺意の犠牲になった「葬儀屋」だった。死者もまた、死ぬ。そうして輪廻に還る。生者ではないが死者とも言いきれない半端者の「葬儀屋」にとって、死はむしろ歓迎すべき事柄であったはずだが――殉職とあれば話は別だ。
 葛城と朽葉は殺された。死者の殺意を扱いかね、挙句殺された。
 あの二人は始末は苦手だったはずだ、と椎名は思った。否、始末の得意な「葬儀屋」などそう居るものではない。ほとんどの「葬儀屋」は、カウンセラーのように相手に寄り添い、同情したり叱咤したりしながら死者の未練を解きほぐしていく。それが正しい在りかたなのだから。
 話したことなどないも同然の同僚だったが、同じ班室に居れば顔を見ることはある。歳の離れた兄弟のように仲の良いコンビだった。きっと気さくに、するりと死者の懐に入っていっていたのだろう。そんな仕事姿が容易に想像できる。けれどだからこそ、濱島の餌食となってしまったのかもしれない。東雲が彼らに濱島を回してしまったのは失敗だったと言わざるを得ないだろう。
 ――殺されたのか、あいつら。
 それだけの記憶を掘り起こしても、大した感慨もないのが我ながら不気味だった。
「葬儀屋」は死者である。生前の記憶を消されたまま、生死の番人を任されている半端者。「葬儀屋」の死とは即ち輪廻へ戻ることなのだから、死んだ二人は、まっとうな人生へ再出発する第一歩を踏み出したということになる。
 それは、悼まれるべきことなのだろうか。祝われるべきことなのだろうか。祝い事であるはずの死者の死を、椎名は未だに扱いかねている。例えそれが殉職でなかったにしても。
「こんな危険人物はさっさと殺してしまえ、ということですかね」
 常磐が物騒な台詞を口にした。
「葬儀屋」の言葉にも耳を貸せなくなるほどに歪んでしまった死者は、強制的に現世から引き剝がすべく始末される。それが、死者の掟。捺された印がそれを示している。
「だから俺に回されたんだろ」
 吐き捨てるように呟くと、常磐が口許だけで笑う。
「自意識過剰ですね。俺たち、ではなく、俺、ですか」
「同じことだ」
「そうですね」
 常磐は否定しなかった。
「始末が求められているのなら、僕に頼もうが貴方に頼もうが同じことです」
「……煩い奴だ」
「仕様ですから」
 訳の解らないことを言って、愛想よく笑う。この男の微笑には数えきれないほどの種類があることを、椎名は嫌でも理解させられるようになっていた。その程度には、彼との付き合いも長くなってしまったということなのだろう。
 さて、と、常磐は手にした書類を椎名のほうに滑らせてくる。書類には手も触れずに視線だけを向けると、写真の中で、凛とした眼がレンズ越しに虚空を見つめていた。少し彫りが深いのか、どことなく異国めいた顔だちをしているといえなくもない。見れば見るほど人殺しなどしそうにない男だが、「葬儀屋」までもが殺されたという事実がある以上、彼はそれなりの殺意を持てあましている魂なのだろう。――「葬儀屋」の言葉にも耳を貸せなくなるほどに歪んでしまった死者は、強制的に現世から引き剥がすべく始末される。「葬儀屋」を一組殺してしまった時点で、濱島貴司の始末は確定したようなものだった。まして、椎名と常磐の組に回されたとあれば。
 始末という表現で生温ければ、殺される、と言っても良い。生者の言葉で言うなら、死刑だ。死んでからまた殺されるというのだからまるで悪い冗談である。
「どうしますか」
「どうって」
「仕事ですよ」
 ああ、と気のない声を返す。
 ――始末しろと言われてるなら始末するだけだ。そのほうが楽で良い。
 本音を口にするのは躊躇した。代わりに腕を組み、指をスーツの二の腕に食いこませる。その指を、腕を、常磐が紅い眼で見ている。
「なんとかして落ち着かせることができれば、こちらもやりようがあるのですけれど」
「できるか?」
「無理でしょう」
 相棒はあっさりと否定した。
「葛城と朽葉にできなかったことが、僕らにできるとも思えません」
 求められているのは「始末」のほうでしょうしね。そんな言葉を、椎名は彼の台詞の向こうに聞いた。
 深く溜息をついて、身体を椅子に預ける。
「始末する方向で良いんだな」
「そうしないと危険でしょう」
 東雲の宣告など存在しなかったかのような口調で、常磐は言った。
 椎名はちらりとデスクの上を見た。くっきりと捺された始末許可の印。椎名のどこかは、たぶん密やかに歓喜している。あるいは、限りなく意識に近い無意識で。
 ――ひとごろし。
 それを言うなら俺だってそうだ、と、椎名は自嘲の欠片もなく考える。それはただの、事実だ。
 視線を壁際に移すと、日本刀が立てかけられていた。長身の彼に合わせて[あつら]えられたかのような長い刀。椎名が「葬儀屋」として二度目の生を受けたときから扱ってきた相棒。この長い得物のおかげで、椎名のデスクはいつでも決まって壁際だ。
「出かけますか」
 常磐が言う。椎名は黙ったままで頷いて、緩慢な動きで立ち上がった。
 ――矛盾の話をしよう。
 この「葬儀屋」とて、カウンセラーと殺し屋を同時にやってのけるような矛盾の塊なのだ。


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