葬儀屋

六、


 パンプスの足音が聞こえて、椎名は顔を上げた。書類の束を抱えた胡蝶が歩いてくるのを認め、残りのコーヒーを呷る。
「ただいま」
「お疲れ」
 お決まりの短い挨拶を交わして、胡蝶が椅子に座るのを見届ける。椎名は腕を伸ばして、書類の束を受け取った。いつものパターンだ。雑務は胡蝶に押し付ける、というスタイルがいつの間に定着してしまったのかは判らないが、自然とそうなってしまった。たぶん、コンビを組んだ初めのうちに、胡蝶が椎名からできるだけ離れていたがったことの名残なのだろう。知らぬ間にその段階を過ぎたあとも、その分担はまだ続いている。胡蝶は周りを歩き回るほうが性に合っているのか、雑用でも楽しんでやっているようだ。面倒臭がりの椎名としてはありがたいことだった。
 胡蝶も自分の席に腰かける。そこで初めて、彼女が物言いたげな顔をしていることに気がついた。どうした、と目顔で問うと、胡蝶は少しだけ顔をしかめてみせた。
「最近の若者ってすぐ自殺するんだね」
 思わず胡蝶の顔を見直す。いきなりなにを言いだすのか。
「あんたも最近の若者だろうが」
「そーだけどー。書類抱えて一枚目がいきなり自殺だったらテンションも下がるよ」
 口を尖らせる胡蝶。呆れ顔の椎名には構わず、ご丁寧に書類を摘まみあげて突きつけてきた。文面に「自殺」の二文字を、確かに確認する。
 ――それくらいでテンション下げてどうする。
 思ったが、口には出さなかった。
 彼女には妙に繊細なところがある。他人の心情に鈍感な椎名には、胡蝶の心情など、それこそ死んでも解らないのだろう。だが一介の「葬儀屋」如きがテンションを上げ下げしても、自殺者が自殺をしたという事実は変わらないのだ。そもそも「葬儀屋」にとって、死は日常の一部である。死因がなんであろうと、死は死だ。そんなある種の諦観が、胡蝶には理解しがたいのだろうと思う。ひょっとしたら、自分が死人だという事実も忘れているのかもしれない。
 言葉を返しかね、椎名は黙りこんだ。下手に応えて襤褸を出すよりもと、彼女の摘まんだ書類に眼を走らせる。――平崎創一。予備校生。農薬を飲んで自殺。家族は揃って法事に出かけており、数日帰らない予定だった。家族が出かけたその日に自殺したため、死体は未発見である。平崎創一は自分の死体の傍に留まりつづけており、――
「自殺しても向こうに残る人って居るんだね」
 胡蝶の神妙な声で、ふと我に返った。書類から視線をずらすと、彼女はなにか考え込むような表情になっている。相変わらずよく表情の変わる娘だ。
「結構多いな」
 我知らず、調子を合わせている自分に気づく。仕事の話には相違ないのだからと言い訳がましく思いながら、言葉を継いだ。
「死んだ影響を見届けたいってマゾヒストとか、復讐したいって悪趣味な奴とか、死んでから後悔する馬鹿とか、呆気なく終わりすぎて呆けてる迷惑な奴とか、まあ、自殺者にもいろいろだ」
「……酷いなあ」
「遺族も『葬儀屋』も煩わせてるんだから迷惑には違いない。自分から死ぬなら、大人しくさっさと逝ってくれたほうがこっちとしては楽なんだが」
 大袈裟に顔をしかめる胡蝶に平然と応えると、彼女はますます口を尖らせた。――最近妙に饒舌になった、と思う。無論自分のことだ。
 書類を椎名に向けたままの右手を、胡蝶は自分の側にくるりと捻った。難しい顔をしてしばらく文面を眺め、首を傾げる。
「じゃ、この人はどうなのかな」
「まあ、迷惑な部類だろうな」
 答えながら、ふと、創一の家族が息子の死体を発見した後の反応を想像する。更に、創一の魂を処理しなければならないという自分の状況を考えた。――げんなりする。現世の死体処理とこちらの未練処理と、どちらが先になるのだろうか。できれば死体はないほうがありがたいが、そんな贅沢を言える身分でもないし、現世に干渉する気もない。第一できない。
「呆気なく終わりすぎて呆けてる、かあ……」
 呟いてしばし、胡蝶は書類を睨みつけた。ただの思いつきにすぎない分類にそこまで反応されても困るが、あえてなにも言わなかった。自殺者に興味でもあるのだろうか、と想像をしかけたとき、相棒は小さく溜息をついた。そして書類をデスクに置く。その紙切れを、椎名が代わりに摘まみあげた。
「そういえば」
 思い出したように、胡蝶は話を変えた。書類の文字を追いながら、椎名は彼女の言葉を聞き流す。
「この前言った椎名君のドッペルゲンガーだけど」
 取り繕ったような明るい声を聞いて、思わず眼の動きを止めた。――やめろ。反射的な拒絶の言葉が、喉に引っ掛かったまま消える。書類の内容に意識を集中させる。だが、巧くいかない。
「あれ、見たのあたしだからドッペルゲンガーとは言わないのかなあ……。まあ良いよね」
 胡蝶は訥々と喋りつづける。なにかを振り払うかのように。
「とにかくその人ね、やっぱりただのそっくりさんだった。さっき、なんとなく思いだして狭霧さんに訊いてみたんだ。そしたら、情報局に凄い似た人が居るんだって。ほら、狭霧さん情報局係でしょ。だから。でも眼鏡かけてて、椎名君とは違ってスーツはちゃんと着てて、んー、スーツだけ見たら常磐さんみたいな感じなのかなあ。月影さんっていって」
「――もう良い」
 鏡映しのポーカーフェイスを思い出すと同時に遮った。胡蝶の台詞がぴたりと止まる。椎名は無造作に、書類をデスクの上に放りだした。内容など、とうに頭に入らなくなっている。なにか他のモノが脳内を満たしていた。粘り気のある生温いなにか。
 乱れた感情の制御に苦労した。これでも、昔よりは巧くなっているはずなのだが。昔はそんな器用な真似はできなかったし、その必要もなかった。椎名も相棒も、お互いに無関心を決めこんでいたからだ。――いつの間に、相棒と相棒らしい関係を築くようになってしまったのだろう。感情の制御をしなければならないほどに。それができてしまうほどに。
 けれど今日ばかりは失敗した。
「知ってる」
 短く答えたのと、手を伸ばして刀を掴んだのとが同時だった。胡蝶がそれに気づいたのは、どのタイミングだっただろうか。
 立ち上がりサングラスをかける。
「仕事だ」
 横目で一瞥した胡蝶は硬直していた。こんな挨拶は久しぶりのことだった。

 自分の顔を見る方法には二種類ある。
 一つは鏡を見ることだ。最も手軽に自分の顔を確認することができる。だが鏡は、対象そのものを映しだすわけではない。所詮は左右反転の虚像にすぎないのだ。だから見慣れた鏡像は、正確には自分の顔とは違っているということになる。自分のものだと思っている顔は、本来のそれとは左右が逆だ。自分の顔を正確に確かめようと思えば、写真を撮るほうが確実である。
 写真は、他人の眼に映る自分の姿をそのまま映しだす。写真に写った姿こそが真実の姿だと、気取った言いかたをすればそうなるだろう。そして、写真は真実であるがゆえに、より見慣れた自分の姿――鏡像――とは微妙に異なったものとなる。だから、写りが必要以上に気になったりもする。
 今になって思えば、あれは鏡像ではなかった。写真だった。向き合っていた時間は三秒となかったはずなのに。それとも、だからこそ、なのだろうか。差異を見つけるには、時間があまりにも短すぎた。もっと時間をかければ、自分と彼が他人だということが解ったはず。――否。それはとりもなおさず、自分と彼が本質的に似ているということを意味しはしまいか。第一印象は侮れないものだ。
 月影。
 彼の名を思い浮かべると、あの日と同じ頭痛が蘇った。
 それに気付かないふりをして、窓の外に目をやる。自分の姿を映しもしない硝子を透かして見下ろすと、稲刈りが終わったばかりの田圃が広がっていた。どこか懐かしいような気もする、今時珍しい田園風景。改めて室内に視線を戻すと、目の前では茶色いドアが視界を塞いでいた。足元は小綺麗な灰色の絨毯。田圃を持ち、畑を持つような家が昔ながらの日本家屋でないことが、どことなくちぐはぐに感じられた。これも時代というものなのかもしれない。
 ドアの向こうは、標的の自室だった。
 平崎創一が、納屋の農薬を飲んで死んだ自室。
 家までもが死んだように静まり返っている。生者はみな、浪人生を気遣い、創一を一人残して法事に出かけてしまった。誰かの死を悼んで帰ってきたと思ったら、息子が死人になっている――そこまで考えて、かすかに顔をしかめた。趣味の悪い冗談だ。自殺するにもタイミングがあるだろうに。
 十何度目かの模試を終えたばかりの青年は、なにを思って死んだのか。家族にさえ正確に伝わるかどうかどうか判らない死者の意思は、無機質な書類となって「葬儀屋」の手元に在る。
 珍しく、胡蝶が椎名の斜め前に居た。いつもと前後位置が逆だ。創一の部屋を探して家中を歩きまわっているうちに、いつの間にか追い抜かされてしまったのかもしれない。あるいは、最初から胡蝶のほうが前に居たのだろうか。そういえば、かなり長いこと上の空でいたような気もする。しっかりしなければ。仕事中だというのに。
 深く息をつき、刀を持っていない右手で頭をぐしゃぐしゃと掻きまぜる。顔を上げると、サングラス越しの暗い視界の中で、胡蝶がドアの前に棒立ちになっているのが見えた。
「入らないのか」
 問うと、胡蝶の肩が驚いたように跳ね上がった。次いで肩越しにこちらを振り返った顔は、怯えているような、躊躇しているような、曖昧な表情を浮かべていた。
「だって……まだ居るんでしょ」
「なにが」
「平崎創一君が亡くなってから、家族の人、まだ帰ってないんでしょ」
「ああ」
「だったらまだ居るんじゃん」
 口を尖らせた表情はおどけたように見えたが、眼には怯えとためらいが同居していた。そこでようやく、死体のことを言っているのだ、と理解する。
 平崎創一の死体は、少なくとも現世ではまだ発見されていないことになっている。それなら確かに、死に場所たるこのドアの向こう側にそのまま放置されているに違いない。死体を見たくないという胡蝶の心情は解らないでもなかったし、椎名自身、できれば死体はないほうがありがたいとは思う。だが、死人を扱う商売でそんなことは言っていられない。第一、椎名も胡蝶も既に死人なのである。
「あんただって死人だろうが」
「そ、そーだけど……」
「あんたの身体も現世じゃ腐ってるか灰になってるかしてるはずだぜ」
 言うと、胡蝶は顔を歪めた。解ってはいても、認めたくないことがある。事実は得てして残酷だ。それもまた、他人事のような感慨だった。
 足を踏みだし、椎名は胡蝶とドアとの間に割って入った。そしてそのまま、ドアを通り抜ける。通り抜けの瞬間だけ乗り物酔いのような気持ち悪さを覚えたが、慣れているのでもう気にも留めなかった。
 視界が開けると、部屋の中に居た。
 狭い部屋の中に、机と本棚とベッドがある。それだけだ。机の上には参考書と辞書が並び、ノートが雑然と積み上げてある。本棚にはCDと文庫本が並んでいる。ベッドは激しく乱れている。吐瀉物と血が散らばっている。ベッドの脇には農薬のボトルが転がっていて、中身を盛大にぶちまけていた。
 無意識に動かした視線の先に、人影が二つ。一つは、床の上で、苦悶の表情を浮かべ絶命している平崎創一の肉体。一つは、屈みこんで自分の死体を見下ろしている平崎創一の魂。
 ――ずきり、と、頭が痛んだ。
 いつもと同じ場所。違うのは眩暈を伴ったこと。
 倒れている青年。屈みこんだ青年。同じ顔の二人――知っている。俺はこの状況を知っている。
 背後で気配が動いた。胡蝶が入ってきたらしい。振り返ると彼女は驚愕の表情を浮かべたが、彼女が見ていたのは室内ではなく椎名だった。どうしてそんなに驚くのだろう。
 胡蝶の口が小さく動く。
 ――どうしたの?
 声を読み取りはしたが、椎名はそのまま彼女から視線を逸らした。目の前の二人に視線を戻すと、創一の魂が呆けた顔を上げるのが見えた。焦点のはっきりしない眼が、こちらに向いている。覇気のない表情。無気力。だらしなく着た白いパーカーのせいか、ひどく貧弱に見えた。ぽつぽつと無精髭が見える。わざとそうしているのだろうか。
 横たわった身体は微動だにしない。当たり前だ。死んでいるのだから。
 同じ顔。一人は死んでいる。一人は生きている。――まさか。二人とも死んでいるのだ。
 がんがんと、痛みが脈打ちはじめた。
「こんにちは」
 焦れたように、背後で胡蝶が口を開いた。案外平然としている。だが彼女の声も、途中で聞こえなくなった。耳鳴りが聴覚を奪う。
 横たわる死体。見下ろす一人。同じ顔の二人。
 ――知っている。
 ――この情景を知っている。
 頭痛が酷い。吐き気がする。吐けもしないくせに。
 強烈な既視感。倒れそうになるのを必死で堪えていた。頭がくらくらする。
 胡蝶が前に歩み出る。すれ違い際に、心配そうな視線を向けてきた。目の前の平崎創一は、相変わらず生気のない眼で、今度は胡蝶を眺めている。口を開いたように見えたが、なにを言っているのかは判らなかった。何者だ、などと突っかかったのかもしれない。そんなことはどうでも良い。
 横たわる死体。その隣の青年。
 ――微動だにしない彼に手を触れる。その手が赤く染まる。血を見て一人は息を呑む。彼が死ぬことを悟る。同じ顔をしているくせに。一人は死んでいる。一人は生きている。あまりに、理不尽な。
 なにかが頭の奥底から湧いてくる。なにかが聞こえる。知っている、知っている。知らないはずのことを。反射的に、両手で頭を抱えこんだ。
 ――名を呼んでいる。必死で呼びかけている。口の動きが見える。なにも聞こえないくせに。耳鳴りだけが満たしているのに。それは、金属的な。あるいは鉄の味。
 胡蝶が、創一になにかを語りかけている。仕事を始めているのだ。――仕事? なんの仕事だっただろうか。創一の眼が、焦点を胡蝶に合わせる。話し相手を得て生気が戻ってくる。死んでいるくせに生気というのもおかしな話だ。勝気そうな眼が不意に椎名を見た。椎名は射抜かれたように硬直した。止められない。湧き上がるなにかを止められない。
 ――リョ……ジ。
 なにかが、聞こえた。遠い。聞こえない。
 ――やが……。
 ぶれた画像が目の前の光景に重なる。
 ――ころ……やが、た。
 聞こえる。ノイズ交じりに、誰かの声が聞こえる。手を染めた青年の声。血に塗れた青年を見下ろしているもう一人の彼。彼がこちらを向いている。暗い眼と赤い手。否。見ているのはこちらではない。あれは、ナイフを持った男。血濡れのナイフ。誰かの血に濡れたナイフ。驚愕の眼で二人を見比べる男を見据え、彼は唐突に立ちあがった。あの男が一歩退く。
 ノイズが不意に消えた。
 ――殺しやがった。
 憎悪だ。
 瞬間、はっきりと自覚した。同時に刀の柄を掴んだ。「衝動」は、愉悦ではなく憎悪。そして恐怖。知っている。このあとどうなるのか知っている。胡蝶はなにも知らずに創一に向き合っている。語りかけている。微笑んでいる。彼女は知らないのだ。このあとなにが起こるのか。同じ顔をした二人が、その片方が、もう片方と同じように血に沈むのを。知らないから笑ってなどいられる。知らないから。知らないから。彼はもう知っている。だから。殺されないように。
 殺されないように殺すのだ。
 誰を殺すのだ、と、誰かが冷静に問うた。だがすぐに消えた。刀の柄に手をかけた。鞘を払う。誰でも構わない。生きるためには。殺されないためには。繰り返さないためには。
 ――殺シテヤル。
 胡蝶が、不意にこちらを振り向いた。そして、眼を見開いた。
「椎名君」
 呼ばれた名が自分のものだということだけは、なぜか確信していた。
 刃に映った表情は、愉悦ではなく恐怖に歪んだそれ。サングラス越しにも明白すぎる感情。見据える相手は平崎創一――本当に? 確かめるより早く、創一が立ちあがって後ずさるのも待たずに刀を振り上げた。見開かれた黒い眼に、誰かの恐怖の表情が映る。肉を断った感触と噴きだした血の色は判った。それしか判らなかった。耳鳴りに絶叫が重なる。それだけを記憶する。
「椎名君!」
 胡蝶の絶叫を聞いて、――ぷつりと意識が途絶えた。


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