書類がなくなった。 最後の書類の報告欄を埋めると、椎名は何度目かの溜息をついた。隣のデスクを眺めてみたが、そこにあってしかるべき書類の山は、何度見ても既にない。ついでに、そこに座っていてしかるべき相棒の姿もまだなかった。胡蝶が居ない間、彼女のデスクに載っていた書類を一枚ずつ引きぬいて処理していたのだが、どうやら任されていた仕事は全て終わらせてしまったようだった。普段ならやれやれと一息つくところだが、今日はひたすらに憂鬱だ。 椎名は、自分のデスクに視線を戻した。黒いファイルに、今しがた書き終えたばかりの書類を綴じる。書類がなくなったのならば、このファイルを上司のところへ持っていき、また新たな仕事を請けなければならない。仕事を請けるのは確かに面倒だったが、それとはまた別の要因が、椎名の腰を重くしていた。上司に仕事の報告をしなければならないということは、常磐の部屋に行かなければならないということだ。 ――胡蝶を預かっています。 ――戻ってくるって言ってたわよ。 あの夜聞いた台詞が蘇る。あれから胡蝶の姿を見ていない。たぶん、今も執務室に居候しているのだろう。狭霧の言葉が真実なら、彼女はやがて椎名の元に戻ってくるはずだった。それだけでも憂鬱なのに、自分から常磐の部屋に行く気になどなるわけがない。 胡蝶を恐れているのだろうか。 他の「葬儀屋」が、椎名を得体の知れない化け物だと囁くなら、今の椎名にとって、もっとも得体が知れないのは胡蝶だった。得体が知れないというのなら、常磐の作り物めいた微笑のほうがよほどわけが解らないというのに。 窓際に立てかけた長い刀を見やる。あの日も自分は、この刀を振るった。 「始末」はある意味合法とはいえ、傍から見れば殺人と変わりない。初めて目にしたであろう「始末」の様子を、しかも、やむを得ず行うのではなく、自らの欲望を満たしたいがための歪んだ「始末」を、胡蝶はどんな気持ちで見つめていたのだろう。心の準備もできていなかったはずなのに。少なくとも、胡蝶は椎名を恐れるべきなのだ。否、事実恐れたからこそ、彼女は椎名を凝視したまま涙を流したのではないか。目の前の椎名に恐怖を覚えたからこそ、ころさないでと絞り出したのではないのか。それは、予想外だったとはいえ椎名の望んだ結果ではなかったのか。胡蝶が椎名を恐れさえすれば、それを常磐に訴えさえすれば、それで片付く話なのだ。胡蝶には新たな相棒があてがわれ、椎名は望みどおりに独りになれる。それが例え、次の相棒がつくまでのほんの短い間だとしても。独りになって、――それから先のことは考えないようにする。喰うか喰われるか。たぶん自分は喰われるほうだろう、と思った。 なのに。 胡蝶は椎名から離れようとはしていない。それどころか、戻ってくると言っているらしい。実際に彼女自身から聞いたわけではないが、狭霧の言葉が耳に残って離れない。 ――戻ってくるって言ってたわよ。 たぶん、恐れているのだ。恐れているのは椎名のほうだ。 なぜこれほどまでに恐れているのか、彼自身にも解っていなかった。けれどこういう感情を、本能的な恐怖と呼ぶのだろう。 そこで意識的に思考を断った。 デスクの隅のマグカップを強引に掴み、苦みだけを求めてブラックコーヒーを呷る。我儘を言っていても始まらない。どうせしなければならない仕事なのだ。 回転椅子をくるりと回す。 立ち上がろうとした椎名の鼻先に――書類の束が突きだされた。 見上げると、紅い双眸がこちらを見下ろしている。椎名は思わず、相手の名を呼んでいた。 「胡蝶」 「ただいま」 彼女にしては愛想のない一言だった。睨むようなまなざしで、椎名を見ている。睨んでいるというよりは精一杯強がっているのだと、考えなくても理解できた。 沈黙は、わずかにこわばっていた。 突きだされた書類の束も、引き結ばれた胡蝶の唇も、動かない。 沈黙を破るより先に、椎名はゆっくりと脚を組んだ。それから胡蝶を見上げる。普段なら三十センチメートル以上はある身長差が、微妙に逆転していた。 「本気か?」 端的に問うと、胡蝶は表情をこわばらせたままこっくりと頷いた。 「あたしは椎名君を止めなくちゃいけない」 「止める?」 椎名は、首を傾げた。責めるでも咎めるでもない、ただ純粋な疑問。 胡蝶は同じ表情のまま、同じように頷く。 鼻先で書類が震えている。 「殺さないでほしいから」 「矛盾してるぜ」 椎名はわざと、鼻で笑ってみせた。もしかしたら、自分も強がっているのかもしれない。そんな笑えない可能性が頭をよぎる。 「殺されたくないなら、此処だけは避けるべきだ」 「違うよ」 意識的に物騒な台詞を口にすると、胡蝶が声を荒げた。 「殺されたくないんじゃない。殺さないでほしいの」 胡蝶の両眼が椎名を凝視している。あのときと同じ。違うのは、眼を離せなかったあのときとは違い、今は彼女が自ら眼を離さずにいるということ。 ――彼女は、 狭霧が現れたとき、常磐は口を噤んでしまった。彼の言葉の先は、なんだったのだろうか。そんなことが今更のように気になった。 「ボランティアか?」 「違う」 「大層な心掛けだな」 「違うってば」 「殺すなっつったって、死人はもう死なねえぞ」 「そういう問題じゃないの!」 胡蝶の隣席の同僚が、彼女に同情的な眼を向けているのが見えた。椎名がちらりとそちらを見ると、露骨に視線を逸らされる。別に牽制する気もないのだが。 改めて胡蝶を見る。――怒っている。だがなぜ怒っているのかは、たぶん当の胡蝶自身にも解らないのだろう。 「斬らせないわ」 胡蝶は仁王立ちになって、まっすぐに椎名を睨みつけていた。怒っていることは解る。解らないのは、彼女を駆りたてるモチベーションだけ。 「そうやって、決めたんだから」 しばし、椎名は胡蝶を見つめた。 ――あんたに止められるくらいなら、俺だって苦労しねえよ。 言い訳じみた独り言を飲みこんで、小さく溜息をつく。 「好きにしろ」 そして手を伸ばし、胡蝶の手から書類の束を受け取った。なぜだかひどく疲れていて、それだけの動作をするのも億劫だった。 再び回転椅子を回し、今度はデスクに向かう。書類は十人分で一束だった。情報局から送られてきた死者たちのデータが、そっけない明朝体で記されている。無表情な写真が、書類をめくるたびにこちらを見つめてくる。それから名前、享年、死亡状況、執着理由、等々。いつも思うのだが、情報局の連中は、どこからこのデータやら写真やらを手に入れてくるのだろう。書類の末尾には、月影、と担当局員の署名があったが、情報の入手経路などはもちろん書いていなかった。 書類に一通り目を通し、緊急の仕事がないことを確認する。いつもならば、そのあと本腰を入れて書類を読む。更に普通の組であれば、どの仕事から処理するかを、相棒と二人で相談する。だが――どれもこれも、今の椎名にはできないことばかりだった。 とりあえず死亡日時だけを確認し、いちばん古いものを手に取った。最初から最後まで眼を通し、頭に叩きこむ。 右を向くと、相変わらずの姿勢で胡蝶が立っている。どんな表情をすれば良いのか、彼女自身も決めかねているようだった。その彼女に、無言で書類を突きだした。胡蝶の驚いた顔が一瞬だけ見え、すぐに書類の向こうに消える。 「読め」 「え?」 「仕事だ」 胡蝶がおずおずと書類を手に取る。それを確認して、椎名はようやく立ち上がった。サングラスをかけ、窓際の刀を掴む。いつもの習慣だった。「始末」をする気があってもなくても、刀を持っていないと落ち着かない。ここまでくると病気だろうか。病気であってくれたほうが、もしかしたら楽なのかもしれないが。 振り返って胡蝶を見る。書類と椎名とを見比べながらうろたえている彼女からは、先程までの厳しい表情は消え失せていた。椎名が刀を持っていようが、唇を引き結ぶ余裕もないらしい。 「読まねえと仕事になんねえぞ」 「あ、ちょ……椎名君!」 胡蝶の言葉を無視して、椎名は目を閉じた。たぶんこうして、自分は彼女を無視しつづけていくのだろう。確信めいた感慨が、ほんの一瞬通り過ぎていった。 椎名が声をかけるより、相手がこちらの姿を認めるほうが早かった。 振り返ったままの姿勢で、わずかに目を見開いている。そのまま、無為な数秒が流れた。村越の眼が椎名を見、椎名の斜め後ろを見、そして椎名に帰ってくる。声をかけるのも諦めて、椎名は黙って佇んでいた。 「……死神か?」 乾いた唇で、村越文哉はようやく呟いた。耳に心地良い低音。椎名はわざとらしく肩を竦め、意識して軽い口調で問うた。 「そう見えるか」 「普通の人間は紅い眼なんかしていない」 「そりゃそうだ」 軽口でも叩くように。 村越は、不審者でも見るような眼つきで椎名と彼の斜め後ろとを見ている。たぶん、そこに胡蝶が立っているのだろう。グレーのスーツも白髪交じりの短髪も小綺麗だったが、表情だけがどうしようもなく疲弊していた。がっしりとした身体つきをしているわりに、妙に縮こまって見えるのはそのせいだろうか。そういえば猫背ぎみにも見える。 村越が、椎名の眼をじっと見ている。サングラスの奥の眼が紅いかどうか、それを確認しようとしているのかもしれない。椎名が無表情に見返すと、やがて村越は、椎名が腰に刀を帯びているのに眼を留めた。それからようやく、虚ろな眼で頷く。納得するかのように。 「死神なんだろう」 「惜しいな。『葬儀屋』だ」 唇を歪めて笑ってみせる。こんな顔をしたら、余計に死神扱いされてしまうだろうか。そう思った矢先、スーツ姿の会社員が椎名の中を通りすぎていった。唐突に襲ってきた車酔いのような不快感に、一瞬だけ顔をしかめる。 平日のオフィス街である。 太陽は高く昇っていた。気忙しく歩く男。ジャケットを片手に携帯電話を使う男。車を走らせる女。喫茶店で話しこむ男女――ごくありふれた街の日常に、明らかに異質な者が三人紛れこんでいた。 「葬儀屋の世話になるつもりはない。私にはまだやることがある」 村越は疲れた表情を変えなかった。ただ言葉だけが不自然なほどはっきりとしている。その やることとはなんだろう、と、椎名は考える。 それは例えば、会社の不祥事の始末だろうか。管理職には責任がある。例え脱税に関して直接は責任がなかったとしても、責任は容赦なく降ってくる。それは、彼が新薬開発プロジェクトで負うていた責任とは、全く違う次元の責任。だがそんなことをするために、わざわざ現世に留まったりするものだろうか。世の中には、その責任から逃れたいがために自殺するような者も居るというのに。第一、村越文哉の死因は過労だったはずだ。ただでさえ過労死寸前だったところに、不祥事が追い打ちをかけた。まさかもう一度過労死したいわけでもあるまい。 あるいは――プロジェクト成功による昇進を期待していたのか。それとも昇進などどうでも良くて、ただ新薬の完成にだけ興味があったのか。だがいずれにせよ、脱税問題のおかげでプロジェクトは事実上凍結している。 もしかしたら、まだ志望大が絞れないと悩んでいる息子が気になるのかもしれない。娘は就職が決まっているはずだが、卒業論文に四苦八苦している。妻は、仕事一筋の村越を黙って支えてきた。文句も言えば一人旅にも出かける自由な女だったが、それでも献身的であったことには変わりない。妻子に構ってやれなかったことが、心残りなのだろうか。否、それなら、同じ現世でもオフィス街などふらつかずに家の近所に居るはずだ。穿った見方をすれば、自宅を避けてオフィス街に居ることが、村越文哉に家族への未練がないことの証明になる。しかしそれを言うなら、ここが村越の勤務先とは離れた場所だということも問題だった。会社にも、家にも近くはない。――なぜこんな中途半端な場所をふらついているのだろう。 風が吹く。葉をつけはじめた街路樹が揺れる。けれど誰の髪も服も揺れない。眼を細めても、村越の心中は読めなかった。 太陽が高い。 「君たちは死人なのか?」 唐突に、村越は問うてきた。 椎名は答えず、首を傾けて背後の胡蝶に目配せをした。連れてきてしまった手前、多少は喋らせておかないと面倒だ。後で常磐になにを言われるかわからない。 胡蝶ははっとしたような眼で椎名を見返し、次いで村越の蒼ざめた顔を見た。そして、小さく頷く。 「死人です」 「そうか」 まだ若いのにな、と、彼は独り言ちた。能面に初めて宿った表情は、どこか「父親」のそれに似ていた。その村越の中を、一人二人と生者が通りすぎていく。気分は悪いに違いないが、彼は眉ひとつ動かさなかった。 「君は何歳だ?」 「十八です」 答えられるはずのない質問に、胡蝶は即答した。生前の記憶がない「葬儀屋」に、享年を答えることはできない――咄嗟に村越の息子の年齢を言ったのだとすれば、彼女もなかなかの策士である。 そうか、と、村越は呟いた。そして他人事のように言う。 「若いのに、死んでまで仕事か。苦労しているんだな」 ――誰のせいだと思ってんだ。 八つ当たりは口に出さない。ただ、胡蝶の策士ぶりは大した威力を発揮しなかったらしいということだけは解った。胡蝶の答えと息子の年齢を重ねなかったらしいところを見ると、村越に巣くっているのはもっと自己中心的な未練らしい。 椎名は一人納得し、それから少し首を傾げてみせた。親指を背後の胡蝶に向け、わざと挑発的なポーズをとる。 「こいつは死人で、あんたは違うってのか?」 「私は君たちとは違う」 いやにきっぱりとした口調で言い切り、村越は椎名を睨みつけた。椎名はただ、薄く笑って次の言葉を待っていた。 「まだ死ぬ気はない」 「『死んでまで仕事か』」 村越の言葉を、思い出したように復唱する。口を挟む隙を与えず、椎名は唇の端をつりあげた。 「仕事がしたいから死ねないのか?」 相手は微動だにしない。椎名は構わず並べたてた。下手な芝居のような長広舌を。 「会社のために働きたいから? ――まさか。あんたは過労死してるはずだ。新薬開発に未練がある? ――違うな。今プロジェクトは動いてない。第一仕事が気になるなら、もっと会社に近い場所に居るべきだ。そうだろ? なら家族が気になるか? ――そういうわけでもなさそうだ。それならオフィス街に居るのはおかしい」 探るような眼つき。大根役者であることは百も承知だったが、案外わざとらしいほうが効き目があるかもしれない。 「じゃああんたはなんでここに居るんだろうな」 村越の顔は変わらない。そのままの表情で、椎名に視線を突き刺している。それが逆に不自然だった。 会社にも、家にも、近くはない。死者の居るべき場所でもない。なぜこんな中途半端な場所に居るのだろう。なぜこんな、中途半端なことをするのだろう。死してなお現世に留まるなどと。村越文哉の居場所は、もう現世には残されていないのに。 残されていないということを――彼は、知っている。しかし、理解はしていない。 さして意味もない深呼吸をひとつ。それから、たっぷりと時間をかけて、問うた。 「怖いのか?」 「なにがだ」 村越が――口を開いた。声はかすかに震えていた。 「死ぬのが怖いのかと訊いている」 椎名が重ねて問うと、村越は口を半分開けた。しかしすぐに閉じてしまう。言葉が見つからなかったかのように。そして――視線を逸らした。視線の先で、二車線道路を車が流れている。街路樹が排気ガスに曝されている。つきはじめた若葉を見るともなしに眺めながら、村越は子供のように黙っている。 「怖いんだろう」 父親のような歳の男に向かって、噛んで含めるように言う。嫌味に聞こえるだろうか。それならそれで仕方がない。 「もう死んでいるくせに」 「やめろ」 村越が、呻いた。 口を閉じる。表情のないはずの村越の顔に、椎名は狂気の芽を見た。ぎらついた眼。恐怖を宿した眼。奪われまいと必死になって。 「こんな歳でまだ死ねるか」 ――斬らせないわ。 仁王立ちになった村越に、胡蝶の姿が重なる。 あのときの彼女も、今の村越と同じような眼をしていた。自分が正しいのだと信じきっている、眼。ただひとつ違うのは、村越のモチベーションは明らかであり、胡蝶のモチベーションは不明だということ。 村越のモチベーションは、恐怖だ。唐突に死につき落とされた者の恐怖。自分が死んでいることはとうに解っているのに、その事実を受け入れようとしない。自分を失うのが恐ろしい。自分の居場所がどこにもなくなってしまうという恐怖が、死の受容を拒絶する。だから、中途半端にもなる。意識と現実が矛盾する。――逆に疑いたくなるほど解りやすい、村越文哉の「モチベーション」。 意識的に無視し続けていた自分の斜め後ろを、椎名は不意に意識した。――胡蝶は、どうなのだろう。なにを思って、椎名を睨みつけてきたのだろう。 刀の柄に、手を触れる。それが精神安定剤だとしたら、自分は相当病んでいる、と思った。そして軽く首を振る。――仕事中だ。余計なことを考えていられるほど暇ではない。 「とっくに死んでるんだから、今更死にたいも死にたくないもないだろう」 相変わらず表情を変えない村越に、静かに語りかけた。 「足掻いたって、あんたの逝き先はもう決まってる」 「……私は」 村越が一歩後ずさる。いつの間にか、彼は表情を歪めていた。苦悶の表情を。――そう、苦しんだのだろう。生きて馬車馬のように働いていたときも、そのおかげで一足早く黄泉に呼ばれたときにも。そしていま彼は、自分が死んだ事実を受け容れられなくてまた苦しんでいる。それは自業自得なのだろうか? それとも単に運の問題なのだろうか? 椎名が刀などという物騒なものを精神安定剤としているのも、「衝動」をはねのけられなかったという業のせいなのだろうか? それとも彼はただ単に、「衝動」に巣くわれた不運な「葬儀屋」として二度目の生を受けてしまっただけなのだろうか。 「なら私の居場所はどこにあるんだ」 「――簡単です」 唐突に、背後から声がした。 思わず振り返る。小柄な黒いシルエット。オフィス街に似合わない少女の姿が、喧騒の中に浮かんで見えた。 「ここではないんですよ」 胡蝶がまっすぐに、村越文哉を見つめていた。彼女の紅い眼の中に、振り向いた椎名の姿はない。 ただ、まっすぐに見ていた。 村越は胡蝶を見ている。声の柔らかさに拍子抜けしたのか、眼のぎらつきはどこかに消えてしまっていた。 生者が死者の身体の中を通り抜けていく。何人も、何人も。 居場所、と、村越はやがて呟いた。中年男に相応しからぬ、幼い呟きだった。 居場所です、と、胡蝶は頷いた。そしてにっこりと笑ってみせる。どこにでも居る少女が当たり前に見せる、ありふれた微笑だった。 「ここではなくて、別のところにあるのです」 村越は、戸惑ったような眼で胡蝶を見つめている。突然胡蝶が口を開いたことに驚いているのかもしれない。あるいは、彼のなにかが彼女の言葉に反応したのかもしれなかった。それが「なに」であるのかを、彼は見極めようとしているのだろうか。 「あなたには、ちゃんと居場所があるんですよ」 包容力のある笑顔だった。 「葬儀屋」の本質は、やはりカウンセラーなのだろうとふと思う。それなら自分にこれほど不向きな職業もあるまい。――向き不向きだけを言うのならば、椎名よりも胡蝶のほうが向いているのは火を見るより明らかだ。椎名は大人しく、「暗殺者」側に居るべき「葬儀屋」だ。 それでも椎名は口を開いた。いつの間にか能面を失くし、浮かべるべき表情を決めかねている村越に向かって。 「死者には死者の居場所がある。……死んだらどうなるかは、俺を見りゃ解るだろ」 わざと冗談めかして肩を竦めてみせる。村越は微動だにせず椎名を見つめている。――そのまま、誰も口を開かずに時間が過ぎた。数秒か、数分か。それとも数時間だったか。 時折、身体の中を生者が通り抜けていく。その気持ち悪さもだんだん麻痺してきた。 不意に、村越の両肩が下がった。力が抜けたように。 「……馬鹿みたいだな」 通りの良いバスで一言呟いて、村越は弱々しく苦笑した。 胡蝶はなにも言わない。ただ、微笑して村越を見ているだけだ。 「馬鹿みたいだ」 繰り返した。 そしてゆるりと首を振ると同時、彼の顔がついと透ける。 俯いた彼は、唇に微苦笑を浮かべていた。疲れたような、安堵したような表情が、オフィス街の背景を透かしていく。彼一人が現世からフェードアウトする。 村越文哉が空気に散って見えなくなるまでを、椎名と胡蝶は黙って見届けた。 ――死んだらどうなるかは、俺を見りゃ解るだろ。 ついたばかりの嘘を、椎名は舌先で転がした。――彼を見ても、村越文哉が「死後」にどうなるかは解らない。死んですぐにどこかで生まれ変わる一般人と、死後の時間を「葬儀屋」として過ごす者とでは、当然逝き先が違う。死んだ者がどうなるか、それは、定義上は死者である椎名にも解らない。無論、胡蝶にも。人間が死後どうなるかを知ることができるのは、椎名が「葬儀屋」としての生を全うし、再び死んだときだけだ。 舌先三寸がものを言う仕事である。相手が無事に還ってくれれば、嘘が露見することはまず有り得ない。「詐欺師」もまた、「葬儀屋」の一面なのかもしれなかった。 「……ちゃんとした仕事、できるんだね」 胡蝶の呟き声で我に返った。 振り返ると、胡蝶は村越文哉を見送ったままの格好で椎名を見ていた。ただ、あの時見せた柔らかさはどこかに消えてしまっている。 思い出したように、椎名は身体ごと胡蝶のほうを向いた。まともに彼女と対峙したのは久しぶりだ。「嘘つき」を責められるかと一瞬身構えたが、そんなつもりはないらしい。そもそも、胡蝶が先程の言葉を「嘘」と認識しているかどうかも怪しかった。 「どういう意味だ」 「そのままの意味だよ」 短く言って、胡蝶は視線を逸らした。 ――殺さなくても還せるんだね。 きっとそんな言葉を呑みこんだのだろう。どうやらあの一件以来、椎名は完璧に「暗殺者」側の烙印を押されてしまったらしかった。この前までにしたところで、胡蝶と一緒に居るときに「始末」をしたことなどなかったのに。それとも、自分を連れずに仕事に出かけたとき、椎名がしていたであろう「始末」のことを考えているのだろうか。 「血も涙もないわけじゃないんだね」 挑発するような物言いは、彼女に似合わなかった。眼を伏せながらの台詞は、精一杯の強がり。だが強がるということは、つまり、椎名に怯えているということだ。なら戻ってこなければ良いのに、と他人事のように思う。 沈黙を埋めるように、溜息交じりに頭を掻く。 ――血も涙もない二人組だ。 唐突に蘇る声に、思わず手を止めた。 顔を上げても、浮かんだ顔はない。あるのは、眼を伏せ唇を結んだ胡蝶の立ち姿だけだ。 「ちゃんとした仕事ばっかりやってくれたら良いのに」 眼の前で胡蝶が呟く。記憶の中の声とは似ても似つかない、少女のソプラノ。 ちっ、と舌打ちして、片手で乱暴に髪をかき混ぜた。蘇った記憶に苛立っていることを自覚する。いつの間に眼を伏せていたのか、視界の中にはささくれ立ったアスファルトしかなかった。 「できりゃ苦労しねえよ」 吐き捨てるように呟いて、目を閉じる。意識を班室に飛ばすより先に、過去の記憶に引きずられていきそうな自分を感じていた。 |