星間距離

八、


 急いては事をし損じるというのが信条だった。夏野個人の信条であるというだけでなく、恐らく飛鳥の下で育った「葬儀屋」全員に共通の信条だろう。一人一人の個人に相対する仕事である以上、個人を個人として把握するだけの時間はどうしても必要になる。時間と、距離とが。
 残念だがこいつはその例から漏れるな、というのが、書類を見ての第一印象だった。
 ひとつの感情に凝っているという意味において、状態は「逝かせ遅れ」の影と変わらない。ただ、影になるほどの覚悟が決められていないという優柔不断さに救われているだけの話だ。周りが見えなくなっているのだから、問いを投げたところで彼を多面的に見ることは不可能だ。目的がひとつしかないのだから、静かに見守ったところで目的遂行の過程を見ることしかできない。
 つまるところ、藤田透哉という高校生を追い見守ったところで、自分を轢き逃げした犯人を捜しだして殺そうとするまでの過程を見守ることにしかならないのだ。
 ならば正面突破しかあるまいと、星見と相談した。できるだけ時間をかけずに捌こう、とも。余計なつつきかたをして、足を踏み外させないために。
 その会話がひどく遠い過去のことのように思われた。
 いつも通り、死者から距離を取った位置を選んで現世に降り立つ。歩みを進める死者の後姿を視界に入れる。死者の歩みは大抵の場合二分される。目的のある決然とした足取りと、先に進む意味すら見失った彷徨の二種類だ。
 透哉の歩みは前者だった。
 星見と視線を交わし、軽く頷く。離れた距離を詰める程度の早足で少年に近づく星見に対し、夏野は勢いよく地を蹴った。――短距離走に難を感じない程度には、ブラックスーツと革靴の動きにくさにも慣れてしまった。
 長いマフラーを巻いた少年の背中が近づく。夏野より少し背が高いだろうか。栗色の髪。振り返った顔が驚きの表情を浮かべた。洒落た黒縁眼鏡の向こうで見開かれた眼が確かに自分を見据えていることを確認した。
 少年の脇をすり抜けて、彼の正面に立ちはだかる。眼を白黒させた彼の、その反応の要因はどこにあるのだろう。同年代にしか見えない少年が喪服を着慣れていることか。ただの人間にしか見えないのに紅い眼を持っていることか。それとも単純に、見知らぬ相手に突如追われて行く手を阻まれたことか。
 反応を決めかねている相手を見据え、夏野は単刀直入な一言を発した。
「殺したいんですか」
 柔和な顔立ちの少年が、さっと表情を凍らせた。――知ってるのか。なぜ知ってるんだ。眼は雄弁にそう問うていたが、夏野はなにも言わない。やがてパンプスの足音が近づく。顔色を変えた透哉が背後を振りかえると、そこには喪服に身を包んだ星見が慎重な距離で佇んでいる。
 挟まれた。その事実を前に、かっと頭に血が上る。その揺らぎが手に取るように判る。上擦った叫びは印象を確信に変える。
「ああ、殺してやるさ」
「なぜ」
「殺されたんだ――死んでる俺にはその資格がある」
 塾帰り。星のない夜。青信号。突っこんできたのは黒い車。闇に紛れるような黒色は、ヘッドライトの光を撒き散らしながら少年を引きずり振り払い、やがて夜に消えた。ぶちまけられたバッグの中身。どす黒く染まった教科書。破れたペンケース。携帯電話に入った無数の罅。
「どうやって」
「関係ねえだろ」
 ――誰だ。俺を殺したのは誰だ。死にたくなんてなかったのに。殺してやる。せめて道連れに。
「どけよ、そこ」
 怒りと苛立ちとをないまぜにして、脅すような低い声を絞りだす。少年の言葉を無視して、夏野は身を屈めた。ジャケットの陰に潜めた得物を掴んだ。一歩踏みこむ。透哉が虚を突かれて後ずさる。後ずさった分だけ更に迫る。懐から刃を引きずり出す。舐めるような上目遣いで見上げた少年の顔が、明確な恐怖を刻んだのを見た。逆手に持ったナイフの刃を、無防備な喉に突きつける。
 鼻がつきそうな至近距離で、少年が息を呑む。
「――殺すっていうのは、こういうことだ」
 しいて感情を抑えた声を使った。自分が死んでおきながら、死の意味が解らないとは言わせない。意地を張ってみたところで、物理的な身体を持たない死者に生者は殺せない――そういう問題ではないのだ。これは、純然たる倫理の問題だ。そして根本的には大原則の問題だ。曰く、死者は現世を徘徊してはならない。
 銀色の刃を見つめているのは、確かに恐怖の眼差しだった。喉元に迫った刃を恐れられるだけの正気を備えているのなら、たぶん妙な真似はしないだろう。解っていながら手を動かそうとしないのは、自分に潜む嗜虐性のせいだろうか、と馬鹿なことを考える。視界に広がる恐怖の表情。そう、ナイフはもともと、至近距離まで近づいて確実に相手を仕留めるための武器だ。
 自分に割り当てられたのは、なぜ普通と違う得物だったのだろう。
 何度も考えすぎて擦り切れた問いを、久しぶりに引きずり出した。たぶん、偶然以外の何物でもないのだろう。だが異端であることが明らかである以上、その理由をどこかに求めずにはいられない。自分を納得させるためだけの根拠なら、月見のあの言葉が案外適切なのかもしれなかった。曰く、――あんたってナイフそっくりだわ、夏野クン。
 空気が張りつめている。その硬度で、意識を現実に引き戻す。
「お前、これ、背負えるか?」
「……知ったことかよ。俺はもう死んでるんだ」
「死んでいるからこそ、ですよ」
 強がりを静かに受けとめたのは星見だった。透哉の意識が背後に向く。夏野は気取られないように、ナイフの刃を少しだけ喉元から離す。実際に傷つけてしまうと面倒だ。必要なのは、こちらの言葉を絶対のものとして届けるための威圧感。それだけなのだから。それくらいの距離感は、解る。
 肩越しに、声そのままの凛とした立ち姿が見えた。
「あなたが、あなたを殺したドライバーを殺したとして、……その所業を魂に刻んで輪廻に還る覚悟がありますか。誰かを恨み、その恨みによってひとりの生命を奪ったという事実を抱えたままで、次の生を受ける覚悟はありますか」
 罅割れに染みこむ雨垂れのような、あるいは傷口に沁みる海水のような、星見の言葉。
 ――そう、彼は次の生を受ける。藤田透哉という個人の記憶は綺麗に漂白されながら、無意識に根付いた微細な傷や窪みを清算できないままで、新しい人生を歩みはじめる。魂の身で強い恨みを持ち、その末に生者を殺したとあれば、それは消えない傷のひとつとして魂に刻みこまれてしまうだろう。
 透哉は意識を背後に向けたまま黙っている。その沈黙をこそ衝くように、星見が静かに畳みかける。
「ためらうならやめておくほうが賢明よ。憎い相手のために、あなたが業を背負うことはない」
 星見が言葉を切ると、ぽっかりと静寂が訪れた。
 ――やがて、透哉の意識が夏野に戻ってきた。刃物を突きつけられた緊張感はさすがに消えていなかったが、文字通り目と鼻の先にある双眸は確かに日常の光を取り戻していた。
「……放してください、そのナイフ。あと顔も近い」
「頭、冷えた?」
「肝もね」
 ぶすりとした返答に苦笑して、夏野は少年から距離をとった。そんな軽口が叩けるなら大丈夫だろう。夏野がナイフを無造作に仕舞いこむと、透哉はようやく解放されたように深く溜息をついた。星見と目配せをする。にっこりと笑った彼女も、どこか安心しているように見えた。ここまできたら、もう終わったも同然だ。
 乱れたマフラーを背中に払い、死者は諦めたように空を仰いだ。夏野も真似て見上げると、雲一つない冬晴れが広がっている。真夏ほどの濃さはない、水彩画のような水色の空。ぽとりと滲んだ水滴のように、言葉が落ちる。
「……解ってたさ」
「なにが?」
「無駄だってこと」
 答えて、透哉が夏野を見る。同世代の気安さか、力の抜けた苦笑だった。
「もともと相手だって判んねえんだ。顔だって見てない。ナンバーも憶えてない。例え見つかったところで、幽霊の分際でそいつに復讐できるわけがない。呪い殺そうにも方法がわかんないし。なあ、幽霊ってホントに人を呪えるのかな?」
 冗談めかした問いかけに、夏野はさあ、と首を傾げて応じた。それだけに留めた。たぶん、意味のある返答など求めてはいないのだろうから。夏野の予想を裏打ちするように、透哉は一言呟く。
「……どーしようもないんだ」
「そう、どーしようもない」
「あーあ、もうホント、どーしよーもねえよなぁ」
 相槌を打つと、複雑な微笑でまた同じ言葉を口にする。悟ったようで、自嘲的で、今にも泣きだしそうで、どこか吹っ切れたようで、安心したような、――表情。至極当然のことを指摘された照れ隠しと、迷っていたことを肯定された安堵が混ざりあう。無意味な言葉を繰り返す口調はわざとらしいほど軽薄だった。
 死んだ事実は覆らない。仮に、魂の身が呪殺という手段を用い得たとしても。
「悔しいな」
 くしゃり、と顔を歪めて笑い、大袈裟に両手を挙げた。伸びをする寸前で思いとどまったような、どこか半端な疲労が漂う。
「でも、どーしようもねえんだよな。……どーしようも」
 同じ言葉を繰り返し呟きながら、少年は身体を霞ませる。吹きつける木枯らしにきゅっと眼を閉じた次の瞬間には、彼の姿は幻と消えていた。
 ――そう、どうしようもないことだ。
 生死の壁を一度越えれば、もう二度とは戻れない。少なくとも、個人としての自我を保った状態では。それが仮に、理不尽で暴力的な手段によって強制的に越えさせられた壁だとしても、越えたという事実は覆らない。
 滅茶苦茶だ。慈悲の欠片もない。けれどそういう、ものなのだ。
 ほんの少し眼を閉じて、黙祷に代えた。新人の頃のように。
「やるせなくなるね、こういう仕事は」
 眼を開けると、ね、と同意を求めて星見が言葉を投げてくる。間を割っていた少年が輪廻に還った今、真正面から向き合う格好になる。中途半端な距離だったが、詰めるのも開けるのもためらわれた。
 紅い眼の奥に、月見の言葉を聴いた。――距離感掴めない不器用も大概にしなさいよ。
 結局、俺にとっては姉貴なのかもしれないな。
「ごめん」
 唐突に口をついた謝罪にも、星見は顔色ひとつ変えなかった。
 やはり彼女と月見は意識を共有していたのだ、と奇妙に納得する。否、月見のことだから、夏野の告白を無意識下で星見に伝えるようなお節介はしていないだろう。この反応は星見のものだ。最初に夏野の異変に気づいたのも星見のほうだと、月見は言っていたではないか。なにかに気づいたということは、突然の言葉にも冷静に応じる準備があったということ――なのかもしれない。
「どうしたの」
 穏やかな問いの形をとってはいても、解っているよ、という本心が透けて聴こえる。背中を押された気がして、伝え損ねた言葉を零した。
「俺、異動じゃない。死ぬことになった」
 風が強く吹いている。
「そう」
 独り言のように応じて、星見が眼を閉じる。枯葉が彼女の中を通りすぎる。沈黙の重さに耐えかねて、意味もなく言葉を転がす。
「お別れだ」
 次に眼を開けたとき、彼女は寂しげな微笑を浮かべていた。
「ありがとう。……ちゃんと言ってもらえて良かった」
 嗚呼。
 さよならをきちんと告げるというのはこういうことか――。
「帰ろう。時間がもったいなくなっちゃった」
 星見が軽く促す。日常通りの会話が続いたことに安堵した。
「ああ」
 頷いて、星見と距離を詰める。中途半端な距離が埋まった。いつも通りのホームポジション。ここに立つのもあと何回だろう、と思い、無意味な考えだと苦笑して棄てた。
 別れを告げられない、というその一点に執着する死者の気持ちが、ほんの少し解ったような気がした。


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