星間距離

終、


 その日は内線から始まった。
 何百回となく手にしてきた受話器をいつものように取り、耳に押しあてる。短い応答、簡潔な指示、最低限の返答。電話機のフックを押してから、受話器を元に戻した。顔を上げて首を回すと、隣席の星見と眼が合う。哀しむような、慈しむような、なにかを噛みしめているかのような――初めて見る種類の表情だった。
 こうして紅い眼を見るのも最後だ。
「逝くよ」
「そう」
 一言ずつを交わす。平静を装って席を立とうとすると、星見がつと右手を伸ばしてきた。不意を衝かれて立つタイミングを逃した。差し出されたのは、白い右手。薬指の付け根に小さな黒子[ほくろ]を認める。こんなところに黒子があったのか、こいつ。
 もう一度顔を上げると、星見が小さく微笑んでいた。
「……握手」
「ああ」
 言われてようやく認識する。握手をするには少しだけ遠すぎた距離を、椅子を軽く蹴って詰めた。
 握った相棒の手から、あるはずのない体温を感じた。
「変な感じ。……元気でね、って言えば良いのかな。月見は『ありがとう』って言ってたけど」
「月見が?」
「そう、直接言えば良いのに、伝言だけで良いって聞かなかった」
 しょうがないんだから、とでも言いたげな微苦笑。月見らしいといえば月見らしい、と思った。たぶんそれは月見一流の気遣いであり、あるいは強がりでもあるだろう。当事者でありながらそんな感想を抱くのもおかしなことかもしれないけれど。
 手はなかなか離れなかった。
「……ありがと、夏野。夏野の相棒で良かった」
「こっちこそ。……巧くやれよ、二人とも。俺も次は、――次は、もうちょっと器用にやるから」
 手を離したとき、星見は安心したように微笑んでいた。たぶん自分も同じ表情をしているだろう、と思う。
「じゃあな、星見、月見。サンキュ」
 近づけた椅子を元の位置に戻し、立ち上がってデスクの中にきちりと仕舞いこむ。そして夏野は振りかえらずに、第五班室をあとにした。
 辿りついた執務室では、飛鳥が独りで待っていた。
「来たわね」
 執務室の入り口に立ち、なんということもなく辺りを見回す。書類に埋もれた飛鳥のデスクと、綺麗に整頓された夕凪のデスク。ぐるりと囲む書架は黒いファイルに埋まっていた。部屋の中央に、硝子テーブル。一枚だけ載った書類に自分の顔が貼られていることに気がついた。
 向かい合わせに据えられたソファの一方に、飛鳥がゆったりと座ってこちらを見上げている。
 ぱたん。
 無意識に、扉を閉めていた。応じるように、飛鳥が立ち上がる。
「待ってたわ、夏野」
 ソファの片方に吸い寄せられ、ごく自然に腰を下ろした。なんのためらいもない動作だった。せめて勧められるまで待つべきだったな、と常識的な後悔がよぎったときには、もう立ち上がる気力も失くしていた。おかしい、魂の身体にも重さがあるのだろうか。
 テーブル越しに立つ飛鳥は圧倒的な存在感を持っていた。見上げた上司は柔和に笑う。これはどういう種類の笑みだろう。別れを惜しむ笑み――だろう。判断が鈍っている。眠りに落ちる直前のように、意識と無意識の狭間に漂っている。星見が意識。月見が無意識。二人の出会いを仲介したというのなら、この狭間こそが自分の場所に相応しいのかもしれない。距離感の掴めない自分が彼女たちの間を取り持ったというのも、ある意味象徴的ではないか。そんなに長い間、立ち止まってもいられない場所だとは解っていたけれど。
「今までお疲れさま。……そして、おめでとう。中途半端な死からの解放よ」
 微笑んだ飛鳥が、そっと手を伸べてきた。ブラックスーツの袖口から僅かに覗いたブラウス。そこからすらりと伸びる、ふくよかな右手。
 ソファに沈む身体を必死で引き上げて、その手を握った。霞む視界に微笑が揺らぐ。誰かの顔に重なる。――ああ。やっぱり最後はあいつの顔だった。
 星見の手の感触を思い出して、意識が光に融ける。

――了


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