星間距離

七、


 結局「葬儀屋」とはなんなのだろう、と、ナイフを鉛筆に滑らせながら考えた。
 不慮の事故で死んだのち、持ちえたはずの寿命を使って生死の番人として働く魂。不慮の事故とはなんだろう。事故か自殺か殺人か、どうせ碌なものではないのだろう。だがこうして喪服を着ている夏野自身にしても、かつて生者として生きていた時代があったはずだ。不慮の事故とやらに遭う前は。
 既に死者たる「葬儀屋」に、肉体はない。
 ナイフを持って鉛筆を削り、ときどき指を切って血を流すこの身体も、所詮は意識の集合体で幻にすぎない。自分は夏野だ、と思っている死人が居り、この少年は夏野だ、と知っている死人が居るからこそ、「葬儀屋」の夏野は夏野として存在できる。
 では星見はなんなのだろう。
 自分は星見だ、と思っている死人のことを、彼女は星見だ、と知っている死人は大勢居る。けれど星見の「身体」の中には、もう一人別の死人が棲んでいる。彼女たちは二人の意識で一人の外見を共有している。幻にすぎない無形の身体も、意識の器となることはできるのだろうか。意識の集合体こそが、死人の身体だったはずだけれど。それなら身体さえ持たず意識だけで存在している月見は――なんなのだろう。
 ナイフの刃に、ぼんやりと顔が映りこむ。焦点の定まらない鏡像では色彩くらいしか確認できないが、色だけ判れば充分だ。黒い髪と紅い眼。「葬儀屋」の証。削り終わった一本をデスクの上に置き、もう一本を手に取った。ここまで集中して削れば、もしかしたら人の一人くらい刺し殺すことができるかもしれない、と馬鹿なことを考える。
 最近星見と会話をしていると、ときどき月見の言葉が挟まれる。星見からの伝聞形だ。月見がこんなこと言ってたよ、こう思うって言ってるの、云々。三人寄れば文殊の知恵とはよく言ったもので、二人でいながら三人分の知恵が出せるのはありがたかった。しかし一人で二人分の言葉を口にする星見がいやに饒舌に見えて、要らぬ気など遣ってしまう。
「それ、月見がお前に『言え』って言ってるのか?」
 ふと気になって、一度尋ねたことがある。星見は訳が解らない、という顔をして、逆に問いを返してきた。
「夏野は、例えばわたしと喋ったこと、全部友達に言う?」
 納得した。
 それと同時に、彼女たちがそれだけ自然な関係を築けていることに安堵し、なぜか少しだけ、嫉妬した。そして、自分の役目はこれで終わりだろうと推測した。死者を還す仕事を長年やってきたというのなら、同じく死者である「葬儀屋」の存在を落ち着かせるという役割が与えられても良い。
 そう、自分の役目はそろそろ終わる。
 鉛筆を回し見る。僅かにバランスを崩した一部を削り取ろうとナイフの刃先をあてたその瞬間、――ぽかりと肩を小突かれた。
 危うく手を滑らせるところだった。危ねえな、と文句をぶつけようと振り向いた夏野を、相棒の眼差しが封じこめる。仁王立ちの姿勢。眉をつりあげたきつい表情に面食らった。
「……ほ、星見?」
「引っこんでもらってる」
 ぶっきらぼうに言い放ったのは月見だった。同じ身体を共有しているはずなのに、星見であるときと月見であるときでは完全に違う顔をしているのはなぜなのだろう。夏野の相棒はつい数分前まで、隣の席に座ってデスクワークに勤しんでいたはずなのに。なぜ唐突に、不敵に笑ってこちらを見下ろすような真似をしているのだろう。
「久しぶりだわ、あの子抑えつけて無理矢理出てきたの」
 呆気にとられて見上げる夏野を視線で羽交い絞めにして、月見は低い声で問うてきた。
「なんで嘘ついたの?」
「え?」
「なんで嘘をついたのって、訊いてるの」
 言葉を失った。
 ナイフをデスクに置いた。削り屑を受けとめた紙を丸めてごみ箱に放りこむ。そしてくるりと椅子を回して月見に向きあった。セミロングの髪をまとめた黒いカチューシャは、胸中に渦巻いた怒りまでも抑えつけているのかもしれない。
 嘘というなら嘘だろう。
 ――俺、来月から異動だって。
 もう十日も前だ。その言葉を口にしたのは。真実を告げるのをためらった意識が吐きださせた、無意識の嘘。異動と死亡は似て非なる言葉だ。相棒の目の前から、自分が居なくなるという事象だけが重なっている。そこが重なっていれば、良いと思っていた。
 般若の面を被った月見は、一度きゅっと唇を結んだ。そして、立てた親指を乱暴に自分に向ける。
「そりゃこの子はメンタル弱いお嬢さんだけど、嘘ついたって余計傷つくだけよ。この子を守ろうだなんてあんたみたいなガキには何十年早いんだから。死んでからどんだけ経ってたって知ったこっちゃないわよ。なーにが『死者としての先輩』よ、馬鹿馬鹿しい。こっちにゃ生前の経験があるっての。記憶はなくっても経験はあるのよ」
 勢いとは裏腹に抑えた声が心中を滲ませる。デスクの上のナイフを睨むように一瞥し、紅い眼で再び夏野を射る。
「あんたってナイフそっくりだわ、夏野クン。思いっきり近づいて至近距離から傷つけるか、全力で遠ざかってから投げつけて傷つけるか、どっちかしかできないんだわ。距離感掴めない不器用も大概にしなさいよ。見てるこっちが迷惑だし一緒に過ごすこの子はもっと大ダメージ。鉛筆削って平和利用してるつもりでも、肝心なところで指切ってくるんだから」
「……なんで気づいた」
「なんのこと? はっきり言いなさいよ」
「俺が死ぬってなんで気づいた?」
 低い声で問うと、月見はぴたりと口を閉じた。四角く固まっていた肩がわずかに丸みを帯びる。腰に押しつけていた両手も、力が抜けたようにすとんと落ちた。――ああ、そんな、絵に描いたようなありふれた罠に掛かってしまうなんて。
「……本当だったのね」
 般若の面を外した月見は、ほんの少しだけ、寂しそうに見えた。呆気ないほど簡単に消え去った怒りが、偽りであったはずはないのだけれど。
 月見の顔をした相棒をじっと見つめた。そして長く長く、息をついた。諦観であったが、安堵でもあった。
「気づいてたんだな」
「夏野クンの様子が変って言いだしたのは星見のほうよ」
 溜息交じりの声に、腕を組んだ月見が律儀な注釈を入れてきた。
「なにか凄く大事なことを隠してるんだろうけど、それがなにか判らないから余計怖いって。じゃ一芝居打つわって言ったのはあたしだけどね。……こんな重たい話だったとは驚き」
 苦笑いを向けられ、夏野も黙って軽く両手を挙げた。降参。「メンタルの弱いお嬢さん」に感づかれたのも、その同居人にここまで本気で問い詰められたのも、自分があっさりとその手に乗ってしまったことも、なにもかもが計算違いだ。思えば、相手を語るに落とすのは星見の十八番ではなかったか。
 それこそどこか遠い部署に異動するだけのような気軽さで、黙って消えてしまいたかった。それは自己中心的な願いだっただろうか。ようやく安定を得た相棒を揺らがせたくない、と他人のことを心配しているようでいて、自分のほうが外界との距離感を掴めていなかっただけなのかもしれない。図らずも、月見に言い当てられたように。
 近づいても遠ざかっても使える道具。殺傷にも創造にも使える道具。自分はナイフをどうやって、なんのために使うつもりなのだろう。
「ま、あとは自分で考えて。さっきも言った通り、今のあたしは無理矢理星見を押しのけてるから、今の会話は聞いてないわよ、この子。こーいうことやっても良いって許可は貰ってるから怒らないでよね」
 椅子を軋ませて、月見は星見の席に座った。つい先程まで星見がそうしていたように、ボールペンを握って書類を捲る。そして顔だけを夏野に向けて、彼女は精一杯の軽やかさで笑った。
「ちゃんとサヨナラって言わないと、今度は夏野クンのほうが、この前の旦那さんみたいになっちゃうんだから」
 返す言葉を見つけられずにいる夏野の目の前で、月見はゆるりと首を回し、デスクに向かった姿勢で静かに眼を閉じた。饒舌すぎた一幕は、いつかの仕事のようにあっという間に終わりを告げた。
 空白。
 この隙に星見が浮上するのだろう、と思う。
 なにも知らないふりをした、なにも知らない星見が企てた第一幕。第二幕を迎えなければならないのは、存在を見抜かれた隠し事を抱えた夏野のほうだ。
 ――そんな器用な真似できるかよ。
 あまり見つめていては不自然だ、と、ひどく冷静な意識が彼女から視線を逸らさせた。鉛筆を削ろうとして、削り屑を捨ててしまったことを思い出す。参ったな、と思ったところで、また声が飛んできた。
「夏野」
 今度は確かに星見の声だった。ちらりと隣を見ると、先程のやりとりなどなかったかのように――確かに星見の意識は遮断されていたのだろう――書類を示してくる。仕事中なんだから当たり前だ、と思いながらも、その日常のほうに違和感を覚えてしまう。
 月見が現れる前の会話を反芻し、たぶんあの魂だろうな、と予想した。そして書類を一瞥してそれが当たっていたことを確認する。
「やっぱり面倒なヒトから先に片づけたほうが良いよね?」
 気乗りのしない調子は、ごく単純に、面倒事は嫌いだという本心に依るものでしかないだろう。例えその魂が、復讐心に燃えるがゆえに現世に留まっている少年のものだったとしても、面倒な仕事であるという単純な事実は変わらない。影という獣の存在を知っている今、復讐心ごときにいちいち過剰反応していては、生死の番人は務まらない。
 面倒な仕事は先に済ませてしまえ。
 事後処理の時間がたっぷり与えられているうちに――。
 ああ、と生返事をすると、星見はよし、と小さく気合を入れた。
「じゃ早めに行こっか。口直しにこの女の子の仕事、あとで残しとこう。それで今日は終わりね」
 てきぱきとスケジュールを組んで、確認のように微笑みかける。夏野は頷いて、親指を立てた。――了解。


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