「夏野」 呼ばれて振り返りながら、なぜ星見の声ではないのだろう、と小さく疑問を抱いた。椅子を軋ませ見上げると、声の主が立っている。振り返る前から察しはついていたが、そもそも彼女がここに居ること自体が意外だった。 「……夕凪さん?」 「ちょっと良いかしら」 日常通りの表情で小首を傾げ、視線だけで何気なく執務室を指す。ええ、と上の空で応えて立ち上がりながら、なにかまずいことでもしただろうか、と最近の所業を素早く省みた。――確かに勤務中に眠気に襲われたことは一度や二度ではないが、それしきのことでわざわざ執務室呼び出しを食らうとも思えない。しかも、星見が出かけて夏野が独りきりであるタイミングを見計らって、だ。夏野は授業を無断欠席した高校生でもないし、星見がその保護者だというわけでもない。そもそも仮に居眠りをしていたとしても、それが飛鳥や夕凪の眼に触れることは考えられない。 否。 星見を呼び出したのはそもそも、班長であり、夕凪の相棒でもある飛鳥だったはずだ。そして今、夏野が独りになったタイミングを狙ったかのように、執務室に呼びにきた夕凪。 ――なにか、あるな。 錯綜した回り道の末に表情を引き締めると、夕凪がちらりと笑みを見せた。黙って頷き返事に代えると、彼女が心得たように背中を向ける。ぴんと伸びた背中にポニーテールが揺れる。班室から執務室に直結する扉を開けるとき、夕凪はしばし、ノブに手をかけたままで中の様子を窺った。自分と星見を隔離する気だな、と確信したのと、良くない知らせに違いない、と直感したのはたぶん同時だった。 執務室は二枚の扉を持っている。一枚は班室と直結し、もう一枚は廊下に繋がっている。班室側の扉から夕凪と夏野が立ち入ったとき、飛鳥はちょうど、廊下側の扉を閉めたところだった。 飛鳥の後姿に、夕凪が声をかける。 「呼んできましたよ、飛鳥さん」 「ありがと」 横顔だけで軽くこちらを見て、飛鳥が微笑む。それを待っていたかのような滑らかさで、夕凪が言葉を継いだ。 「じゃ私、ちょっと情報局回ってきますね」 言うや否や、入ってきたばかりの扉を潜って班室へ消える。呆気にとられて振り返る夏野の目の前で、夕凪は笑顔で手を振りながら扉を閉めた。 軽やかに音もなく、執務室は封鎖された。 わずか一瞬の出来事だった。 「……空気読むのが大得意なのよね、ナギは」 誰へ向けたとも判らない苦笑を漏らし、飛鳥は意を決したように表情を引き締めた。穏やかだった執務室の空気が、彼女の表情ひとつですっと変わる。知らず、夏野も背筋を伸ばす。 「座って、夏野」 飛鳥の声で呼ばれる本名は、どこか厳かで、耳慣れない響きを帯びていた。 「なんですか、大袈裟な呼び出しですね」 わざと軽口を叩きながら、外見年齢相応の無遠慮を装ってどんとソファに腰を下ろす。飛鳥は思い出したように微笑んで、夏野の真正面に座った。ゆったりと脚を組み、ふくよかな手を膝の上で組む。癖っ毛の陰で僅かに眼を伏せてから、上司は穏やかに切り出した。 「あの二人は巧くやってる?」 「ああ、やっぱり知ってたんですか」 世間話じみた問いに、今度は夏野が苦笑した。芝居がかった仕草で両腕を広げ、肩を竦めてみせる。 「星見と月見ですよね? 大丈夫、仲良くやってるみたいですよ、月見の出てくる回数が減ってるくらいですから」 少なくとも夏野の把握している限りにおいて、月見が星見を侵して唐突に現れる回数は明らかに減っていた。星見の表情が以前以上に穏やかになったことを併せると、彼女の中でも、月見という存在の整理ができて落ち着いたということだろう。月見がこんなこと言ってたわ、と、思い出したように笑いながら教えてくれることもある。邂逅を果たしたばかりの二人としては、まずは順調な滑りだしだろう。 そう、と、飛鳥は安心したように微笑む。 「良かった。……面倒押しつけて悪かったね」 「飛鳥さんは、いつから知ってたんですか」 「最初からよ。星見がここに来ることが決まって、書類が私のところに来たときね」 核心に切りこんでも答えが返ってくる確率は五分五分だろう、と思っていたら、存外詳細な即答があった。記憶を手繰るように、紅い眼が斜め上へ吸い寄せられる。 「最初はまさかと思ったけど、ねぇ。もしそうならちゃんと対策しとかないとまずいから。ナツが居ない間に適当な口実つけて呼び出して、確かめたわ。身体がないせいか、そのときになってもまだ自我がぼやけてたけど、なんとか名前だけは伝えられた。……名前の有る無しじゃ、大違いだからね」 それはそうだ、と思う。「葬儀屋」などという非常識な職を拝命してはいても、所詮は死人という非存在の存在にすぎない。存在を繋ぎとめておくために名が果たす役割というのは大きいものだ。だからこそ「葬儀屋」からは、生前の記憶も名も、なにもかも全てが消されてしまう。死という最大の衝撃を経験した、生前の自我を呼び覚まさないために。 そして不安定な自我を固めるのもまた、名の役割だ。 「でも私が彼女に会ったのはそれっきり。……そう、巧くいったのね。ナツに任せて良かった。またなにかあったら教えてちょうだい」 「飛鳥さん」 耐えきれなくなって、夏野は上司の言葉を遮った。 飛鳥がゆっくりと、こちらを見る。ああ、やっぱり。俺は間違ってなかった。 「……そんな世間話で、こんな呼び出しかたしたんですか?」 飛鳥はしばし、なにも言わずに夏野を見つめていた。空白の表情からはなにも読み取れない。それはそうだろう。班長格の死人から、こんなときに表情を読み取ろうというほうが無謀な話なのだ。 肩がこわばっている。力を抜きたくても、抜きかたがわからない。飛鳥の眼差しに晒された自分を、教師の前に引きずりだされた学生のように感じている。死人となって長いのだから、学生などという精神年齢でもないだろうに。 「私も堕ちたかな」 飛鳥がいつもの微苦笑を漏らしても、こわばりからは解放されない。死人であって良かったと、心の底から思った。もしまだ生者であったなら、鼓動の速さに耐えられなかっただろう。 「ナツに見抜かれてるんじゃまだまだだ」 「はぐらかさないでくださいよ。……これでも覚悟して来てるんです」 「そうね。ごめん」 再び表情を引き締めた上司を見て、先を焦った自分を悔やむ。――まだ見たくなかった、そんな顔は。 「夏野」 「はい」 「余命一ヶ月よ」 深い眼と声できっぱりと、飛鳥はそう告げてきた。 夏野は、――黙って、眼を閉じた。 なにも聞こえない。気配すらない。けれど確かに部屋の中には、二人の死者が存在している。魂が人間の形をとって、考え、笑い、話している。部屋の外にも無数の死者が居て、生死の番人などという大仰な役を背負って働いている。そうして長い時間を非存在の存在として生き、やがて還るべき輪廻へ呼ばれていく。そうして還っていった同僚を何人も見送ってきた。相棒も見送った。見送るたびに、自分はよほど寿命を残して死んだんだなと苦笑した。外見年齢を考えれば当然なのかもしれないけれど。高校生か、もしかしたら中学生か、大学生か。自分の享年など知る由もないが、どんなに童顔だったとしても二十歳は越えていないだろう。 それでも時は経った。 次は夏野の番なのだ。 瞼を上げる。真っ直ぐな眼差しが、夏野をゆるやかに包んでいた。そうして上司と部下はしばし、視線だけを合わせる。 先に口を開いたのは飛鳥だった。 「……驚かないのね」 「そんな気はしてましたよ」 くしゃりと、夏野は苦笑する。 「逝かせ遅れを振られたあたりで、もうすぐかもしれないな、と思いました。ぎりぎり俺が居るうちに経験させといたほうが、まだフォローできるってことじゃないか、って。自惚れかもしれないですけど」 長広舌が自然と流れでる。 「それでいて、こんな露骨に星見と引き離して呼び出すような真似するんですから。気づかないほうがどうかしてます」 飛鳥が眼を瞬き、小さく肩を竦めて苦笑を返した。 「もうそんな返事までできるのね。普通、もっと根本的な相槌から入るものよ? 『どういうことですか』、『俺のことですか』、ってね」 「予想してたのはホントですからね」 「難しいなぁ、ナツは。見た目と中身にギャップありすぎて」 大袈裟に天井を仰ぎながらも、上司の眼差しは冷静なままだ。たぶんそうして自分を観察しているのだろう、とは思ったが、口にした以上の感慨がないのは事実だ。今の夏野の全ては、顔に貼りついた薄っぺらな微苦笑でしかない。 ――余命。 二度目の生を与えられた死者たちは、持ちえたはずの余命を以て、生死の垣根を守る「葬儀屋」となる。しかし余命はいつか尽きる。それが「葬儀屋」の、死だった。死んでいるのに生きている、という盛大な矛盾を抱えている存在としては、一拍遅れて「普通の死」を迎えるというのは、祝い事であるはずなのだけれど。 魂が摩耗する――。 いつか知り合いが輪廻に還っていったとき、そんな言葉を遺していったことを思い出した。随分詩的な言い回しだと笑ってやったが、今になって思えば、最近の疲れやすさはまさに「摩耗」と呼ぶに相応しかった。 「逝かせ遅れのことは、まぁその通り、ね。どっちにしたって、いつかは経験することだから。ナツがついててくれたほうが、こっちとしても安心だわ。ナツがベテランだってこと差っ引いても、あなたたち、結構良いコンビだから」 ソファに沈む身体の重さを感じながら、夏野は飛鳥の言葉を聞いている。やっぱりそうだったのか――予定調和のような安心感に、力が抜けている。 「ナツ」 再び名を呼ばれ、重力に逆らって浮上する。真正面から飛鳥を見ると、怖いような真顔があった。柔和な表情ばかり見ていると、この手の顔には疎くなる。気力を振り絞って背筋を伸ばすと、上司は表情を崩さないまま、いつもの口調で語りかけてきた。 「……ごめんね。一か月前にならないと教えてあげられないの。でも今日からあなたは自分の余命を知ってることになる。ちょっとイレギュラーな子の面倒見てもらってるから気を遣ってもらわなきゃいけないけど、――あとの一か月、過ごしかたはあなたに任せるわ、夏野」 「夏野?」 気がつくと星見がこちらを覗きこんでいた。微熱のある弟を心配する顔と、控えめな囁き。 「どうしたの、ぼーっとして」 「ああ」 なんでもない、と片手を振り、改めて目の前の情景を確認する。包帯と点滴、シーツとカーテン、ベッドに横たわる女。殺風景な白い空間の中に佇んでこちらを見ているのは、小綺麗なジャケットを着た男だった。――病院は苦手だ、と思う。ましてや入院患者の病室なら尚更だ。遠目に観察するだけの空間がない。すぐに気づかれてしまうから、それだけの時間もない。死者に話しかける前には、本当は距離と時間が欲しかった。 男は星見と夏野とを等分に見て、不意に険しい表情を見せた。 「……縁起でもない格好で来ないでください」 そりゃそうだ、と妙に納得する。入院患者の見舞いに喪服で来るなど、非常識以外の何者でもないだろう。 ――入院患者。 火事に巻きこまれた夫婦のうち、夫は命を落とし、妻は辛うじて息を残した。重症のまま病院に担ぎこまれてから眠りつづけている妻は、少しずつではあるが快復しつつある。ただそれが、却って不安を煽られるようなスローペースであるというだけで。二度と回復することのない夫は、ただ妻の目覚めを見届けたい一心で現世を離れられずにいた。 星見が飛鳥から受け取ってきた書類の、最初の一枚だった。おかえり、といつもの表情で夏野を迎えたときには、彼女はもう書類の整理を終えていた。あのとき自分は、どんな表情と言葉で星見に相対したのだったか。 妻の鼓動は電子音となって、規則正しく響いている。峠は既に越えたはずだ。あとはただ、意識がこちらに戻ってくるのを待つばかり。けれど待てるだけの時間は、もう夫には許されていなかった。 星見がネクタイの結び目に片手を置いて、おっとりと苦笑した。 「これでも礼は尽くしてるつもりなんですよ。……亡くなった方をこちらにお迎えするための、正装ですから」 夫が少し、眼を見開いた。眠る妻を一瞥し、そして得心したように肩を落とす。――そういえば彼の名はなんだっただろう。 「……私のほう、なんですね」 「ええ」 「少し待っていただくわけにはいきませんか」 「残念ですが、タイムリミットですね」 星見が申し訳なさそうに告げる。初めから覚悟を決めていたのか、夫はそれ以上の反発をしなかった。ただ名残惜しげに、瞼を閉じた妻に向きなおる。ふっくらとした頬と、緩くウエーブした髪。なんだか飛鳥に似ているな、と思う。 「今のほうが、『さよなら』が届くかもしれませんね」 「え?」 独り言じみた呟きに星見が問い返すと、夫は複雑な笑顔で振りかえった。告げられないまま抱えこんだサヨナラの一言が、微笑の裏から寂しさを透かす。 「私は死んでるんですから、起きてる妻よりも眠ってる妻のほうが、距離が近いと思いませんか」 ――意識の向こう側に居る者同士。 「まだ生きてもらわなきゃ、困るんですけどね……」 言いきらないうちに、夫ははたりと言葉を切った。視線が宙を彷徨う。どうしました、と星見の呼びかけも聞こえないかのように、おもむろに片手を上げて掌を見る。ごつごつと骨ばった手から輪郭が消えているのを、夏野は認めた。 ――輪廻に引かれている。 反射的にベッドの妻を見ると、閉じられていた瞼がぽっかりと開いていた。 ここはどこだろう――そう自問するかのように、ゆるりと首が動く。狼狽する夫を眼差しが掠めた。意識の側に引き戻された妻と、入れかわりのように輪廻に引きずられる夫。 「聡子」 夫が小さく妻の名を叫んだ。死者に視線を戻したときには、彼の姿はほとんど背景を透かしていた。妻は目を覚まし、夫は今や現世に留まる理由を失くしてしまった。妻が瞬きをする。焦りを浮かべていた夫の横顔が、不意に穏やかなものに変わる。なにか総てを呑みこんでしまったような、悟りのような表情。 生きろよ、という声を、遠くで聞いた気がした。 死者の呟きも生者の視線も、喪服の死者を通りすぎる。 がちゃ、と背後でドアノブが回った。あら、神田さん――。驚いた女の声。白衣の看護師が夏野の中を通りぬけ、慌ただしくベッドに駆けよる。急に動きだした生者の情景をそこまで確認したとき、隣で星見が唸った。 「びっくり」 たった一言。 喪服の出る幕すらない、ごく呆気ない幕切れだった。 「こんなこともあるんだね」 ああとかうんとか、そんなおざなりな相槌を打った。死者は自分たちと向きあってくれる前に、還るべき輪廻の存在に気づき引かれていってしまった。きちんと輪廻に還ってくれたのはありがたいが、仕事を完遂したという達成感はほとんどなかった。 まあ、たまにはこんなこともあるか――。感想はどこか上滑りしていた。あるいは上の空な感想しか抱けなかった。 「……なんだかわたしたち向きみたいな、わたしたち向きじゃないような、って仕事だったね」 「俺たち向き?」 問い返すと、拍子抜けしたような微苦笑が返ってきた。まっすぐに夏野を見つめる紅い眼を眺める。歯切れの良い分析が耳に入る。 「時間はかかったんだろうけど、ある意味時間だけで解決できちゃったから『葬儀屋』の出る幕なし」 星見や夏野が働きかけるまでもなく、妻が目を覚ましたという純粋に外部的な要因によって、根本的な未練が解消されてしまった――。わざわざ出張ってきた甲斐もない。拍子抜けといえば拍子抜けだろう。楽で良いと言ってしまえば、それだけなのだけれど。星見も同じことを考えていたのか、夏野を見つめたまま、首を傾げて曖昧に笑った。 「ラッキー、って思っとけば良いのかな」 必要なのは言葉でなく時間だった。そんな仕事など山ほどあるはずだ。第五班所属なら尚のこと。喪服が来ずとも解決する仕事はある――。 ――違うのだ。 ただ、夏野が死者と向きあう余裕を失くしていただけだ。 「使おうと思ってた台詞使い損ねちゃった。次に取っておこうかな」 持て余した時間を埋めようとするかのような饒舌さで喋る相棒に、夏野はようやく声をかけた。 「星見」 笑顔を宙吊りにさせて、星見が瞬きをする。 「なあに」 「俺、来月から異動だって」 口にした瞬間、鉛のような疲労を覚えた。 |