岐路に侍る

五、青葉


  こんな仕事をしていると、[ろく]でもない場所にばかり縁がある。病院、斎場、自殺現場、事故現場、殺人現場――どこへ行っても縁起の悪さなら第一級だ。但し墓場に行くことは少ないような気がする。わざわざ現世に留まってまで自分の墓の前に佇む死人は居ないらしい。しかしかく言う自分自身も、縁起の悪さでは引けを取らないのかもしれなかった。なんといっても死者である。しかも、死んだ途端に「葬儀屋」などという半端者に任命されてしまったという、筋金入りに運と縁起の悪い死者だ。それならどこであろうとも、自分が訪れたという事実だけで、その現場の縁起の悪さは確定したようなものだろうか。
 ――潰れた車を遠目に見遣りながら、青葉はそんなことをつらつらと考えていた。
 今日の仕事場は事故現場、それも交通事故現場だ。相も変わらず縁起が悪い。
 十字路の真ん中で、銀色の乗用車が潰れている。そこに人が乗っていたのだという事実を疑いたくなるような有り様だった。硝子という硝子が砕けている。助手席に突っこんだトラックも、歪んだバンパーと割れたライトが痛々しい。黒々としたブレーキ痕が、趣味の悪い現代美術のように躍っていた。
 交通規制の敷かれた交差点を避けるように、車が流れていく。道の真ん中で事故が起ころうとも規律を乱さず平然としていられるのは、ある意味日本人の美徳だろう。
 事故現場からは五十メートルは離れていたが、死者の生まれた場所といえば、それだけで奇妙な存在感がある。隣に立つ相棒は、例によってワイシャツにネクタイを締めただけの姿だ。ジャケットくらい着ろと何度も言っているのだが、青葉ごときの言葉では、そう簡単に習慣を変えてはくれなさそうである。それに、現世がここまで暑いのならば、クールビズとやらに乗ってみるのもひとつの手なのかもしれなかった。もっとも坊主頭の青葉としては、その前に斑鳩の長髪をばっさり切ってやりたいのだけれど。
 右掌を[ひさし]にして、青葉は強いて呑気な声を上げた。
「しっかし悲惨だね」
「確かに酷えな」
 隣で斑鳩が、興味もなさそうに相槌を打つ。沈黙を恐れて、青葉は書類の内容を思い返した。
「助手席の子はほとんど轢き殺されたようなもんだったっけ」
「運転席は、ベルトが絡まったり打ち所が悪かったり」
「……事故には遭いたくないなぁ」
「まー、俺もお前も事故死の心配はしなくて良いだろうけどな」
「たぶんね」
 一歩も動かず、その場に佇んだきりで言葉だけを交わす。そうして仕事を先延ばしにしているのだという自覚があるせいか、束の間自己嫌悪に囚われた。少なくとも、頭を占めているのは現世を彷徨う死者のことではなく、執務室のデスクで惑う同僚のことだった。同じ上の空になるのならせめて仕事のことを考えていたほうが健全だとは思ったが、無意識の思考までは制御できない。仕事中に彼の心配をしたところでどうなるというわけでもないのだということくらい、頭では理解していたのだけれど。――彼が今頃どうしているのか、なにを思っているのか、そんなことは考えるだけ無駄だ。青葉には青葉の仕事がある。それなら今は動かねばなるまい――彼のことは後回しだ。
 無意味な深呼吸を一つして、説き伏せるべき死者を探そうと一歩を踏み出す。
「待て」
 ――相棒に止められた。
 前のめりにバランスを崩す。上目遣いに見上げると、声の主たる斑鳩が、素知らぬ顔で明後日の方向を向いていた。折角大袈裟な動きをしたのに、この様子では視界の隅にすら入れてもらえていないだろう。
「……なんだよ」
 恨めしい気持ちを声にまぶして問いかけたが、生憎とそんな機微が通じる相棒ではないらしい。青葉の視線などまるで無視して、斑鳩は視線の先を指で示し、ちらりとこちらに視線を落とした。
「すぐそこだ」
 言われるままに、指の先に視線を移す。姿勢はとうに元に戻していた。
 その女性は、街路樹に隠れるようにして立ち尽くしていた。思えば、なぜ今まで気づかなかったのかと不思議になるほど近い位置だ。二三歩歩めば会話ができる。ただ、長い髪を背中に流してぼんやりと事故現場を眺めている横顔には、確かに存在感が欠けているようにも見えた。髪の長さは斑鳩と良い勝負だが、表情に覇気のないところまで彼と五分五分である。整った顔立ちなのにもったいないことを、と思ったが、そんな呑気な感想を抱いている場合ではあるまい。
 彼女から視線を外し、相棒を見る。例によって覇気のない視線をこちらに向けてから、斑鳩は怠そうに首を鳴らした。
「行くか」
「イエッサ」
 わざとふざけた返事をする。けれど斑鳩は馬鹿にするような視線を寄越しただけだった。それもまた予想された、いつも通りの展開である。
 革靴が一歩二歩、彼女に近づく。あと一歩で声をかけようとした矢先、彼女がこちらを向きもせず唐突に口を開いた。
「運転していたのは私です」
 棒読みの台詞に、青葉は歩みを止める。一拍遅れて、斑鳩も青葉の斜め後ろで立ち止まった。
「トラックが突っこんできたんです」
 直立不動の姿勢と平坦な言葉。顔はよく見えない。少なくとも満面の笑顔ではないだろう。二人が自分のほうに向かってくることに気づいたのなら、同じく立ち止まったことに気づいても良さそうなものだったが――彼女は二人の同類など無視したように言葉を継いでいた。
「ブレーキ踏んだけど間に合わなかったんです」
 身体は微動だにしない。たぶん眼も動いていない。言葉だけが流れ出している。――これは、まずいな。斑鳩を見ると、お手上げとばかりに首を振っていた。無責任だと呆れたが、早めに引き戻さないと余計に面倒なことになるのは確かだ。死人を一人輪廻に還すだけのことに、余計な手間はかけたくない。手数[てかず]の面でも、気持ちの面でも。
「……千鶴はどうなったんですか?」
 喪服の思惑など知りもせず、死者は後ろ姿で問うてきた。
 青葉は人差し指で頬を掻いてから、斑鳩に向かって無言で親指を立てた。相棒が親指の爪の先をじっと見つめ、それからにやりと笑う。――任せた。信用して預けるといえば聞こえは良いが、本音はたぶん、面倒仕事を押し付けることができて良かった、といったところだろう。そういう関係なのだ。慣れたのか、それとも慣らされてしまったのか。それはそれで、心地良いものである。
 またひとつ呼吸をしてから、青葉は死者の背中に呼びかけた。苦笑交じりの言葉になった。
「とりあえず落ち着きましょうか」
「これが落ち着いていられると思うんですか」
 棘のある言葉が平坦な口調で返される。ちらりとこちらを見た眼は、大きい分だけかえって虚ろさが目立っていた。
「私は……死んだんです。なのにここに居るから訳が解らない」
「あなたは亡くなったんですか? 奇遇ですね、僕らも死人ですよ」
 わざとらしく明るい笑顔で言ってみたが、彼女は横顔で青葉を見つめて黙りこんだままだった。表情は読めない。せめて戸惑っていてほしい、と願いながら、笑顔を浮かべつづけている。表情と言葉は大切な商売道具だ。自分の笑みが人懐こいものだということは理解していた。
 笑顔と無表情が、奇妙に捻れて見つめあう。
 ――彼女が唐突に、身体の向きを変えた。
 真正面から青葉と向きあう。シンプルな白いカットソーとスキニージーンズ、それから大振りのネックレス。ああこんな格好をしていたのか、となんとなく納得してみる。一瞬前までは背中しか見えなかったのだ。それも長い黒髪でほとんどが隠されていた。依然として表情は読めなかったが、やはり会話をするには向かいあうに限る。
 気づけば言葉の垂れ流しは収まっていた。
「まあ、こうして死人ばっかり集まったことですし、自己紹介とでも参りましょうか」
 芝居がかった動作で両腕を広げ、青葉は芝居がかった台詞を吐いた。たぶんこの大仰さは常磐から伝染したものだ。
「何事も順番が大事です。ついでに落ち着きも。そうでしょう?」
 彼女が瞬きをした。
 青葉は親指で、自分の胸を指した。
「僕は青葉。こっちの長髪は斑鳩です。どうぞ宜しく」
 そのまま斑鳩を指す。相棒は少し眉を動かしたようだが、愛想笑いを浮かべる程度の社交性はあるらしい。
「死人は死人ですが、『葬儀屋』としてここに居る。……あなたはどなたです?」
 右手で相手を示し、青葉は問うた。彼女はじっと立ち尽くしている。ぼんやりとした眼差しで、青葉の右手の指の先を眺めている。
 クラクションが聞こえる。
 思い出したように、彼女は前髪を掻きあげた。初めてきちんと見えた顔に、はっきりとした戸惑いの表情が浮かんでいるのを見て、密かに安堵する。
「野島利紗子です。大学四年生」
 ――それは、理性を備えた言葉だった。
 斑鳩がちらりとこちらを見てきた。にやりと笑って親指を立ててやりたい衝動に駆られたが、利紗子の手前、それは堪えることにする。
 何事もなかったかのようにまた笑んだ。
「野島さん、ですね。とりあえずこの状況、訊きたいことはいろいろあると思うんですが、なにから訊いてみたいですか? 僕に答えられることならなんでも答えますよ」
 利紗子は青葉を見て、それから斑鳩を見た。しげしげと、戸惑い交じりの眼で斑鳩を観察する。あるいは青葉を。斑鳩はどんな顔をしているのだろう。彼女の眼にはどう映っているのだろうと、愉快な気持ちで考えた。ジャケットも着ていない長髪のクールビズ男と、あるのかないのか判らないような細眼の坊主頭が、揃って喪服じみたネクタイをぶら下げている。少なくとも胡散臭い二人組ではあるだろう。
 無意識にか、利紗子は困ったように眉間に皺を寄せた。所在なげに組まれた両手の指が、忙しなく動いている。正常な反応だ。
「……誰、というか、何者なんですか、葬儀屋って」
「良い質問です」
 応えて、青葉は指を鳴らした。いつの間にこんなエンターテイナーになってしまったのだろうと、自分のどこかが冷静に苦笑している。斑鳩は失笑しているに違いない。けれど相棒の表情を窺っている余裕はない。
「あの世に逝けないで現世に残っている死者の皆さんを説得して、還るべき輪廻に還って頂くようにするのが仕事、ってところです。他には?」
「青葉、さんは……死人なんですか」
 ペースに呑まれたように質問を重ねる利紗子に、できるだけ無邪気な笑顔を返す。
「それはさっき言いましたよ。僕もこっちも死人です。運悪く、『葬儀屋』の仕事を拝命してしまいましたけどね。あとは?」
 こっち呼ばわりされた斑鳩の視線を斜め後ろに感じながら、わざと意地悪く首を傾げた。そして利紗子の眼の奥を覗く。
「僕らのことばっかり訊いて良いんですか。他に訊きたいことがあるはずですよ、野島さん」
 利紗子は、素早く眼を伏せた。
 潰れた車が運び出されつつあった。警官が野次馬を追い払っている。利紗子とその友人の身体は、いまどこにあるのだろう。病院のベッドの上だろうか。事故車が運び出されているのなら、その中ということはあるまい。家族への連絡は済んでいるのだろうか。今日泊まるはずだった旅館にも連絡は入れているのだろうか。この場合キャンセル料はかかるのだろうか、とふと疑問に思う。
「千鶴は」
 眼を伏せたままでぽつりと、彼女は友人の名を口にした。青葉は彼女に視線を戻した。
「……深江千鶴はどうなったんですか。私が運転してたんです。ブレーキ踏んだけど間に合わなくて突っこまれて、もしかしたらアクセル踏んでたほうがまだちゃんと避けられたかも」
「深江千鶴は死んだ」
 斜め後ろから、斑鳩が口を挟んだ。
 利紗子が表情を凍らせる。
「もうこの世には居ない」
 斑鳩の影がゆらりと動いて、青葉の真横に立った。――やっと仕事をする気になったらしい。浮かべた表情に、また異なる種類の微苦笑が混ざった。
 利紗子の視線が、恐る恐る斑鳩に移動する。凍りついた表情は怯えで塗りつぶされている。斑鳩は多分、平坦な眼で彼女を見返している。赤の他人を眺める眼で。その眼が彼女の絶望を[あお]っていることに、この鈍感な相棒は気づいているのだろうか。
 利紗子の肩は硬い。
「斑鳩」
「……そう、ですか」
 耐えきれなくなって口を挟んだと同時、再び彼女が眼を伏せた。呟いた声が震えている。――ほら、言わんこっちゃない。ちらりと隣の相棒を見てみたが、眼差しに変化はなかった。この場にこうして居ること自体を面倒がっているかのような、投げやりな口調だ。
「聞こえなかったんですか? 深江千鶴さんはもうこの世には居ないって言ったんです」
「……はい」
「なんの未練も残さず、幽霊にもならずに、綺麗に亡くなりました」
 ――ああ、そういうことか。
 腑に落ちた。
 だからもう、斑鳩からは視線を外した。
 代わりに見遣った利紗子は、彼の言葉を受け止めかねているような戸惑いの表情を浮かべている。あんな口調と顔で喋るからそういうことになるんだ、と、胸中で苦笑する。面倒臭がりもここまでくると業務に支障をきたすというものだ。
 斑鳩というよりは利紗子のために、青葉は助け舟を出した。
「そういうことですよ、野島さん」
 形容しがたい表情のまま、彼女は青葉を見た。いま利紗子の頭の中では、なにが回っているのだろう。――斑鳩の言葉を咀嚼する思考か、それとも自分の身体が潰れた瞬間の映像か。
「葬儀屋」ではなく青葉個人の笑みを、ゆったりと浮かべた。
「深江さんは」
 蒼ざめた顔に、友人の名を突きつけることは酷なのかもしれなかったけれど。
「……確かにいきなり死んで驚いてはいるでしょうが、別に貴女を恨んでなんかいないんですよ」
 不意を突かれて死者は眼を見開いた。ぽかりと生まれた空白に、再度言葉を注ぎこむ。
「恨んでなんかいないんです」
「なん、で……そんなこと、青葉さんに言えるんですか」
「今、深江さんが現世に居ないからですよ」
 気軽に言葉を継ぐ。訳が解らないと言いたげに、利紗子は眉間に苛立ちを覗かせた。頬に赤みが差す。
「訳の解らないこと言わないでくださいっ」
「貴女はそうして現世に留まっていますね」
 畳みかけるように、隣から斑鳩が口を挟む。こうしてこの相棒は、良いところばかり攫っていくのだ。まあ、一期一会の死者を相手に見せ場を作っても仕方ないのだけれど――それでも面白くない。少しだけ。
 利紗子が今度は斑鳩を凝視する。視線の動きは忙しないが、眼は凝視の構えを崩さない。
 気だるげに佇みながら、斑鳩は長い前髪を鬱陶しそうに払い、ちらりと事故現場に視線を投げた。そこでなにかが起こったのだということを、警察車両と野次馬と、黄色いテープが示している。
 そして利紗子に視線を戻した。少し頭を掻いてから、推理小説の探偵宜しく口を開く。
「貴女は深江千鶴さんのことを気にかけているから。だから逝くべきところにも逝けずに事故現場に戻ってきてしまった。翻って、深江千鶴さんはどうかというと、現世にはもう居ない」
「そんなこと」
「そういうことなんですよ」
 利紗子の眼が揺れる。
 斑鳩の意図を悟ったのか、不意に右手で口を覆った。それに気づかない振りをして、斑鳩は決められた台詞を辿っていく。
「深江さんは、急に死んで……まぁ、そのこと自体に驚いてはいるでしょうし、悔しい思いをしてもいるでしょうが、別に野島さんを恨んでなんかいない。深江さんが魂の身で、現世に未練を持っていないことがなによりの証拠だと思いませんか」
 ――言葉は武器だ。
 野島利紗子の運転していた車が事故に遭い、利紗子だけでなく、同乗者の深江千鶴も死んだ。トラックを運転していた男は軽傷で済んだらしいが、そんなことは今は関係がない。少なくともそれが、揺るぎようのない事実。死んだ千鶴が現世を離れてどこへ逝ったのかも、今の利紗子には関係のないことだ。
 事実を変えることはできなくても、個々人の信じる真実であれば、言葉で捻じ曲げ矯正していくことはできると――仕事をしていると、よくそんなことを思う。
「深江さんは、未練も残さず、一足お先に逝かれました。だから、貴女が責任を感じる必要はないんです。深江さんは貴女になんの恨みも持っていないんですから、そんなことを気に病んだって正直無意味です」
 斑鳩はそう結んだ。
 利紗子の両眼は潤んでいた。光の加減だろうか。
 事後手当てを放棄した斑鳩の代わりに、青葉は肩を竦めて大袈裟に笑いかけた。
「だってほら、事故だったんですからね」
 それから思い出したように、首を傾げる。こちらを向いた利紗子に、優しい声で問うた。
「どうですか。この世に残ってまで聞く価値が、あった情報だったら良いんですが」
 堪えきれなくなったように、充血した眼から大粒の涙が零れた。


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